魔猿
白い長めの体毛に覆われた巨体は、直立の姿勢でなくても軽くカイを見下ろす。他の猿を煽るように吼え、カイを威圧するように体を震わせると、山なりに飛びかかってきた。
高い!
カイはとっさに姿勢を低くして下を駆け抜け、振り向きざまに薙ぐ。しかし魔猿の動きは速かった。着地から跳躍へのタイムラグがほとんどない。
右。
考える前に体が動く。カイが転がるようにして避けた跡には、魔猿の爪が突き刺さっている。
無理矢理爪を引き抜こうとする魔猿の脇を抉る刃は、もう片方の腕に阻まれる。
なにをすればいい?大僧正にはない自分の特性とは何だ?
正攻法で勝てる相手なら、大僧正が負けるはずはないのだ。カイは林へ駆け込みながら思案する。少し遅れて付いてきた魔猿は、目に見えて分かる速度でカイとの距離を詰めてくる。
大きく跳躍した魔猿は、一本の枝に取り付いた。踊るように次の枝へ渡ろうとする。
刀身が斬り裂いたのは虚空。
「気の風」と呼ばれる特殊な技で、離れた敵も斬ることが出来るのだが、今回の標的は違った。跳び移ろうとした次の枝を切ったのだ。体重がかかると同時に落下する魔猿。背中から落ち、体が痙攣する。カイは飛びかかって一刀両断にしようとしたが、逆に魔猿の腕に払いのけられ、木の幹まで吹き飛ばされる。
声とは呼べない音とともに、肺の空気が押し出される。幸い骨折などはしていないようだが、即座に体勢を立て直すことは出来ない。緊張が走る。
走ることはあまり得意ではないらしい。再び飛びかかってきた魔猿は、木の幹に押しつけられたように動けないカイに鋭い爪を振り降ろした。辛うじて刀で受け流すが、もう片方の振り降ろされる腕には対処できない。渾身の力を込めて腹に蹴りを入れるも、よろけただけで致命傷にはほど遠いようだ。
が、そこに一瞬の隙が出来た。腕がバランスを取ろうと左右に泳ぐ。カイは鞘から小柄を取り出すと、全体重をかけて魔猿の懐に飛び込んだ。狙うは、目。
耳を塞ぎたくなるような醜い声が響く。小柄は深々と魔猿の左目に突き刺さっている。
無茶苦茶に振り払った魔猿の腕にカイは再び弾き飛ばされたが、今度は後ろに跳びすさることが出来たため、先ほどのダメージは受けていない。
しかしこのままで魔猿を倒すことは出来るのだろうか。こちらの方が疲弊している。片目の傷など、相手には大したことはないかも知れない。さあ、ここでどうすれば。
手負いの魔猿は赤い血を滴らせながらカイに迫ってくる。カイはもう一度「気の風」を試したが、魔猿の体毛を少し削いだだけで、気にする様子もなく近づいてくる。
カイは魔猿に背を向け、一本の木に向かって走り出した。なかば木の幹を駆け上がるようにして大きく宙返りをする。初めて魔猿の背後を取った!
即座に斜めに斬り上げる。
……はずだった。
至近距離で背後から斬りつければ、いくら魔猿とはいえ大きな痛手になる。
しかし魔猿の反応は速かった。耳をつんざくような奇声を上げながら大きく体を捻る。
長い手は振り向きざまに刀を跳ね飛ばし、カイの手の届かない木の幹に突き刺さる。武器を失ったカイに容赦なくもう一本の腕が振り降ろされる。
カイは必死に背を逸らすも、魔猿の爪はカイの右の額に三本の朱を残した。血がじわりと染み出してきて、右の視界を奪う。
舌打ちとともに砂を投げつけ、霊廟の方へと一旦引く。
視界はお互い片方ずつ。相手の方が力も強く俊敏だ。しかも山の気を味方に付けている。
……山の気?そういえば登ってくる際の息苦しさはもうない。自己鍛錬の成果だけでなく、山の気に馴染み始めているのではないか。
そのとき、踵に硬い何かが触れた。見ると、すでに躯となった僧の長槍が転がっている。
やけに鮮やかな朱色の柄が、カイに強く何かを主張する。
待て。
魔猿は薙ぎや払いへの対処は早いものの、突きには慣れていないのではないか。
さっき唯一傷を負わせた小柄だって突きという直線的な攻撃だし、蹴りでもバランスを崩していた。
攻撃手段が槍なら、もしくは。
カイは長槍を手に取り、魔猿に向かって構えた。
魔猿も砂の目くらまし効果が消えたのか、こちらへ動き出す。
高く飛びかかってきた魔猿に鋭い突きを三度与える。
しなやかに動く長槍をへし折ろうと魔猿は掴みかかろうとするが、不発に終わる。
いける。
致命傷にはまだ至っていないが、何とか戦える。
カイは相手の視界の外に出るよう、円を描くように距離を詰める。
魔猿の動きは今まで見た限り、非常に直線的だ。相手がきょろきょろしているうちに、連続攻撃を与えておきたい。
カイの専門は槍ではない。しかし、ここで学んだ武人として、一通りの武器を扱える。
素直に師匠であった大僧正に感謝の念が浮かぶ。だからこそよけいに敵を討ちたい。
魔猿の脇に回ったところで、カイは連突を始めた。
一撃一撃は重くないが、避けづらく対応が難しい。
魔猿の足が止まったところで足払いをかける。
連突の防御の為、腕に気を取られていた魔猿は不意を打たれた形となる。
全体重をかけて止めを刺そうとしたそのとき、カイは鋭い痛みとともに視力を失った。
猿真似。
それはさっきカイが使った砂による目くらましだった。
マリムラさんのターン