山神の巫女
クォンロン山の山裾には結界が張り巡らされている。資格無き者が立ち入れば、方向を失い、山を降りてしまうのだ。その境目を示すように、古い石仏が点在していた。もちろん山の登り口とて例外ではない。山頂まではるかに続く石段。その両脇に石仏が立っている。石段という道があっても迷い、いつしか下ってしまうあたり、結界は徹底していた。
「どう入る?」
カイは呟いた。ヘクセは石仏の一つに近づいた。
「この石仏は女なのだよ。知ってた?」
そう言いながら、ヘクセは手近な石を掴んだ。
「えいっ」
そう言って石仏にその石を振り下ろす。
乾いた音を立てて石仏の表面が削れた。
「おい! 何してる!?」
「この石仏で結界を構築してるんだ。
今、この石仏の結界の紋様を一部削ったから、結界に穴が開いたよ」
そう言うと、ヘクセは無造作に歩き出した。
「……そうやって前回も霊廟に忍び込んだのか……」
カイはヘクセを後ろからひょいと抱えると、駆け出した。
だがしばらくすると、カイは急によろけて膝をついた。目が回るようで、顔も青ざめ、頭を抑えている。
「慌てすぎだ。気持はわかるが落ち着け」
「…結界は…破ったん…じゃ…なかった…のか?」
「その症状は結界のせいじゃない。
正確に言うなら、あの迷いの結界は、こうなる者が踏みこまないための予防策だ。
禊で俗界の気も払わずに、山の気に体を馴染ませずに入ってるんだ。手順をすっ飛ばしたぶんだけ、少々きつかろう」
ヘクセはカイの額に手を当てた。
「普段気を練るときのように、丹田に意識を集中して深呼吸してみろ。頭の中で自分のイメージを描くんだ」
カイは言われたとおりに深呼吸をしていた。やがて顔色も落ち着いてくる。
「自己をしっかり保てよ。さもなきゃ正気を失うぞ?」
ヘクセはカイにそう言うと、先頭を歩き出した。
「……これは……一体なんだ?」
カイはまだ息が荒い。
「この辺りは気が濃すぎるんだよ。自然の気脈の集まりやすい場所なんだな。龍脈といえばわかるかい? この手のことに耐性がないと、影響を受けてしまう。この辺りの山には物の怪の伝承も事欠かないだろう? この国の足元には龍脈が集中しているようでね。その中でも、この山が云わば胴体。一番龍脈が集中している。今でこそだいぶ流れが整えられているが、昔はもっと酷かったようだよ? それこそ大地を揺るがし、地形をも変えてしまうほどに」
ヘクセは山の影響を受けてないのか、涼しい顔で歩いている。
「あの猿はなぜ平気で入れる?」
「山の気は山の者を拒絶しない。波長が似てるんだよ。魚が水の中で窒息しないのと同じ。ここでの奴は少々手ごわいぞ。 ……麓の結界が正しく機能してるなら、あれが入り込むこともなかったんだろうが……。前回忍び込んだときも思ったんだけど、どうも時間が経ち過ぎて、麓の結界は脆くなってるね」
ヘクセは世間話をするように言葉を続けた。
「伝承によると、昔は山の頂から火を噴いたり、赤き龍気が山を覆ったり、雷が天へと上ったり、そりゃあもう酷かったらしい。この辺りに龍の伝承が多いのも、このためだね」
「…昔話はどうでもいい。何故、奴はアティアを連れ、山頂へ向かう?」
カイの問いに、ヘクセは眉をしかめた。
「…どこから話したものやら。多分に私の推測が混ざってるんだけどね。まぁ、その昔話がどうでも良くなかったりするんだ。
建国の伝説は知っているね?
後の祖霊神となる、異界の神ラスカフュールは、山神の巫女をつとめる、後の聖皇母に恋をした。しかし、巫女は山神に一生を捧げる誓いを立てていたので、その想いには答えられない。そこでラスカフュールは山神に取引を持ちかけた。人の形を持たぬ山神に器となる身体を与えようとしたり、山神を土地の束縛から解放しようとしたり、でも、駄目だった。
最後にラスカフュールは自らの持つ全ての魔力を与えると約束した。ラスカフュールは神の力を捨てると言ったわけだ。結果。山神は唸るような地響きで歓喜の返事をしてめでたしめでたし。で、この二人が結婚して出来た子供が、カフール国を建国した。
これが建国の伝説なわけなのだけれど……。
問題は、この山神の巫女なんだな。
最も元の話に近いとされている『カフール書記』でも、巫女は山神に嫁ぐと記してある。で、スーリン僧院に巫女の系譜があったよね? 聖皇母より前の巫女は全て在位が25年なんだ。決められたようにね。さらに言うなら、その在位25年目の時に、聖皇母より前の巫女が欠かさず行ってきた儀式が『神婚の儀』なんだ。
なぜ巫女が神様に嫁いだその年に、次の巫女が選ばれる? 私にはこの答えは一つしか思い浮かばない。
……生贄だ。
おそらく巫女は自らの命を捧げることで、龍気を鎮め、この地を守ってたんだ」
「………」
カイは青い顔をしながらも、黙って聞いている。
ヘクセは山頂へと歩を進めながら、言葉を続けた。
「アティアはたぶん山神の巫女なんだよ。それ以外にあの僧院にいられるわけがないんだ。
ちなみに系譜によると山神の巫女は聖皇母以降、3代までは常に僧院に存在していた。それ以降は、異常気象や世情不安の折にのみ、巫女は僧院に存在していたようだ。
これも巫女が龍神を鎮める生贄と考えれば納得がいく。
ラスカフュールが龍を鎮めたと言ったところで、人々はにわかには信じがたかったのだろう。それが聖皇母以降の3代の巫女の存在であり、凶兆時の巫女の存在に繋がった。
あの猿がどこまで正確に把握しているかは知らんが、見るべきものが見れば、巫女の血に眠る龍気と、山に満ちた龍気くらい結びつけよう。山神にもう一度生贄を捧げれば、ラスカフュールが眠らせた山神の力を自分のものに出来るとでも考えたんじゃないかな?」
ヘクセがそう言ったとき、不意に後ろから抱え上げられた。
振り向くと、カイが鋭い眼光で山頂を睨んでいた。
カイの呼吸はもはや通常のものとなっていた。
(……へぇ)
ヘクセは内心感嘆した。
このような場所で自己を保つことは、慣れぬ者にとって困難を極める。
しかし、カイはそれをやってのけているのだ。
(たいした集中力と自己制御だ。錬気術の下積みがあったとはいえ、なかなかできるものではない)
カイはヘクセを抱えたまま、呟いた。
「あの猿はアティアを生贄にしようというんだな」
カイはそれだけ言うと、山頂目指して一気に駆け上がった。
* * *
山頂にあるスーリン僧院の本殿は祖霊神の霊廟が祭られているだけの建物で、居住するところではない。スーリン僧院の他の建物とも全く別の建物であるかのように、ただ山頂にぽつんと存在している。
あるのは、霊廟と祖霊神が残したと言われている、丸い穴の開いた石碑<フー>だけだ。
ここにいるのは、僧院の中でも選びぬかれた守護者が数名だけ。
しかし今、そこは歓迎されざる客人によって荒らされていた。
踏み込んだとたん立ち込める血の匂い。
四肢を引きちぎられ、物言わぬ骸と化した守護者達。
本殿の屋根や木の上で威嚇の唸り声をあげる猿の群れ。
……そしてアティアを抱えた魔猿。
「……カイ。あの魔猿は任せた。私は猿の群れを相手にしてよう」
「猿の群れだって危険だ」
「言い合う余裕はないと思うぞ。君がすべての相手をするのは不可能だし、私はあんな化け物とやりあいたくはない」
ヘクセがそう呟くと同時に魔猿の咆哮が夜空に響いた。
「コロセ!!」
魔猿がそう言うと同時に猿達は一斉に襲い掛かった。
魔猿もアティアをその場に捨てると、カイに向かって跳躍した。
これはえんやのターン