アカーシャの書
猿達はヘクセが指を山に向けただけで立ち去った。
「いったい、何をしたんだ?」
「彼らにとっては私は山神なのだよ。だから従ってくれるのさ。
実のところ、アティアの中の巫女の紋様を取っ掛かりに、一時的に山神の気を身に纏ったに過ぎないんだが……」
「って山に戻していいのか?
お前さっき『実は全て毟られ、芽も摘まれ、木の皮すら剥がされてる』って言ってたじゃないか!」
「おぉっ、聞いていたのか。よく覚えてたねーw
まぁ気にしない気にしない。
さっきはあのお猿さんに呪いをかけるためにああ言ったけどさ、山の掟は法律じゃなくって摂理だ。
なるようになるって。まるっきりの異種ならともかく、もともと近隣地にいた種だ。そうひどいことにはならんだろう。何かの種が滅んだり、代わりに別の種が栄えたり、それだって山の命の連鎖の一部さ」
ヘクセはなんでもないことのように言うとアティアの額に手を当てた。
気絶しながらも苦しそうだったアティアの表情が安らぐ。
「これで大丈夫。
アティアの気を外界から隔離した。
山の気の影響は受けないよ」
「……それは俺に施したものと違うよな?」
カイが眉根を顰めた。
「うん。君には導いただけで、施しはしてない」
「出来るんだったらしろよ!」
「えー、やだよー、めんどくさい。
君はよちよちでも歩ける段階にいたんだよ?
なのに、なんでおんぶしてやらなくちゃいけないのさ」
ヘクセはさも当然のごとく言う。
カイは小さくため息をついた。
「間に合ったからいいようなもの……」
そのときアティアが小さく身震いする。
ヘクセは纏っていたローブをさっさと脱ぎだした。
「おいっ!」
「なに?」
「女の子が人前で脱ぐな!」
「開眼したわりに、そんなところはウブなんだから……。裸になったわけでもあるまいし」
確かにヘクセは薄手のシャツにスパッツという格好で、それほど露出が激しいわけでもない。カイにしてみれば、いきなりローブを脱ぎだしたのでうろたえただけであって、ことさら騒ぐことでもなかった。
ただ、ヘクセの露出した右腕を、指先から肩まで、埋め尽くす不可思議な紋様には、目を引かずにはおられなかった。その紋様は気が渦巻いており、ただの刺青ではないことは明白だった。
ヘクセはローブでアティアの身を包むと、カイの視線に気付いて右手をひらひらさせて笑った。
「普段は封魔布で隠してるんだけどね。気にするな。それよりカイの手当てもしなくっちゃね。ここに座って」
ヘクセは答えになってないことを言うと、カイを手招きした。
「気を練る要領と同じ。目を閉じて、私と呼吸を合わせて。」
ヘクセはそう言って、カイの手を握った。
「自己の中に潜っていくんだ。丹田に集まった気を、体内の気脈に沿わせて体中に巡らすように広げて」
カイは言われるまま、気を体内に巡らせていった。
これぐらいのことはカイには今や半呼吸で行える。
わずかに流れ込むヘクセの気も感じ取れた。
「わかるかい?
気の流れが滞っているところ。
それを解して紡いで織り成すんだ。」
額にわずかに、そして背中や腹部、肩などに大小の濁りがある。
カイは呼吸を深く行うとゆっくりとその澱みに意識を集中した。
時間をかけ、本来あるべき流れに整える。
考えてみれば、この工程は、これまで何度も行っていた気がする。
やがてヘクセの手が離れ、カイは目を開けた。
身体から痛みが消え、傷がだいぶ塞がっている。
「治癒術か…」
「これもまた、君の持つ可能性の一つだ。
錬気術も極めれば、この地の仙人や武仙達の、千里を駆け、山を砕き、嵐を呼ぶ、それら伝説の技を使えるだろう。
そこに至るには遥かに遠く険しくはあるがね。
……もし、その道を行くのなら、きちんとしたこの地の武仙についたほうがいい。
私が導けるのはここまでだ。もともと、ここの哲学は私の分野外なのだしね」
「俺には気の才能は乏しいと聞いていたが…」
「才能が器の大きさというのなら、際立ってはいないな。
だが才能は絶対ではない。
それと向き合った密度、積み重ねたもの次第では、生得の差など凌駕できる。身体能力の性能差が絶対ではないように……。
今の君には十分承知だろう」
ヘクセはおもむろに立ち上がった。
「カイ、ここには来たこと無いんだろ?」
「…あぁ、山に入る資格をもらわなかったからな」
「だったら、案内してあげよう」
ヘクセは先にたって歩きだした。
祖霊廟は山頂のすぐ傍に建っていた。
そして山頂にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
地下深くまで続き、覗き込んでも底すら見えない深い穴。
霊気が渦巻いているのが感じ取れる。
「……これは?」
カイにもここまで濃い霊気だとわかるのか、眉根を寄せながら聞いた。
「"龍穴"だよ。
まさにここがカフールの龍脈の中心点だ。
昔は、この穴に巫女が身を投じていたんだな」
ヘクセはカイのほうを振り向いて言葉を続けた。
「昔話の続きだ。
異界の神ラスカフュールは巫女を山神から譲り受けるために、自身の魔力を渡したとされている。
…ところでカイ君は知ってるかね?
この国には龍退治の伝承が多く残っている。
それらの話には面白い共通点がある。
ラスクファブの龍退治、カスガホウロの龍退治、あるいは名もなき男。
それら英雄のどれもが東から現れ、この地の巫女、姫、あるいはそれに類するものを娶る。
まるでカフールの建国譚のようだ。
さらに翻ってここより東の国、ライガールには、ダルマファースという医と禅の哲人、タヅカヒョーブという武人の伝説があるが、この二人の伝説は奇妙な共通点が多い。
天地を裂き、手を触れただけで怪物を倒し、霞のごとく消え去る。人を寄せ付けず、放浪癖を持ち一つ所に留まらぬ。そして小船に乗り海に出て行った件もね。
タヅカヒョーブはハスカヘイロウ、あるいはモモタロウという民話の基になってるんだけど、この二人も海に出て鬼退治に行ってるね。
さて、ラスカフュールが実在したのであれば、建国譚にも真実が含まれると考えられる。
だとすれば、類似の神話の共通項にこそ真実が隠されているはずだ。
問題はどちらが元かだが、カフール建国伝説が龍退治の話の原型とは考えにくい。
話が明快なものからよくわからぬものに変わることはない。
普通は逆だ。なにより祖霊神だとすると龍退治の英雄の名前に祖霊神以外が残るわけがない。
…まぁそのほうが納得もいく。
実際に魔力を譲り渡すなんてことは不可能だしね」
「そうなのか?」
「君も開眼したなら多少は解るだろう。
魔力と一言でいうものは、戦闘力と同じで複合力だ。
身の内に秘めた魔素たる精髄の量、それを貯めるだけの器の大きさ、認識を織り変えるに足る意志力、想像力。
そして何より重要なのは世界を測る物差しの理解度だ。
精髄を一時的に渡せるにしても、器の大きさも、意志の力も、想像力も、渡せるものではなかろう?
まして理解度など。
今更君が、"気"を理解せぬ頃に戻れぬよう、一度理解したものを譲ることも手放すこともできないんだよ。
"目覚めて"しまった以上、世界の正体を垣間見てしまった以上、もはや"眠りし者"には戻れない」
ヘクセはカイににやりと笑いかけると「こちら側にようこそ」と軽口を叩いた。
「……ではなんで伝承が変わったんだ? 何故ラスカフュールは神の力を譲ったことになる?」
「理由はいくつか考えられるがね。
一つは山神は荒神といえど神、退治するのは拙いという考え方が根強かった。
一つはラスカフュールがその後、神の力を派手に用いた伝説が残っていない。
けれども私はこれが一番の理由ではないかと思ってるんだよね。
ラスカフュールは結局龍を滅ぼしたわけではない」
「…よくわからないんだが、山神はお前の説では龍神ということだよな? そしてラスカフュールは龍神を倒し、巫女を救ったのだろ? 何故、そこで倒していないということになる」
「山神は龍だと昔の人々が認識してたってことが、イコール実際に龍がいたことにはなるまい。
いてもおかしくない環境ではあるがね。
ただ、それならもう少し別の痕跡があってもいい。龍の存在した場所にはドラゴン・スケープという独特の風景が存在する。木々も草木も根付かない区域とかね。だけどここには見つからなかった。一方、この地の民話伝承昔話にはうるさいほど登場する。
生体痕跡は無いのに、伝承には存在する。つまり龍はいなかったが、一方で龍の、神の存在を信じさせる何かはあった。
ついでに、この地の龍脈は、これほど密集しているにも関わらず、不自然なほどに整えられている。
元からこうではあるまい。明らかに何者かの手が加わっているとしか思えない。
これほど色濃く霊気が残っていながらも、その性状はかつて荒神と畏れられたものとは思えぬほど穏やか。
こういうものは倒したとは言わない。鎮めたと言うんだ。
…そんなことの出来る存在など、この地には一人しかいなかっただろう?
ラスカフュールが、何故それ以降、力を使用しなかったかはわからないけどね」
「祖霊神…ラスカフュールとは何者だったんだ?
異界の神じゃないのか?お前は何を知っている?」
「…ほんの少し、彼のことを調べただけさ。
ラスクファブ、タズカヒョーブ、ダルマファース。
各地で呼び名に多少の差異はあるがね。
ラスカフュールが古カフール語の発音に近いなら、タズカヒョーブはライガール語に近い。だが、ライガールにおいても彼の人の出自はあやふやだし、ダルはナイジェラ古語で道、マは磨く、ファースは法師という意味だからナイジェラに縁のある人物とも考えられる。一方、ハスカヘイロウに似た民話が西方の地にもあるから、まさしく何者か未だに不明ではあるし、異界の存在かどうかは知らないが、歴史上痕跡は残っている。
神…と言ってしまえば神なのかなぁ。
"気"という"言語"を極め、『道』を確立し、
人の身で、神の頂に登りつめた人物だ」
「……元は人だと?」
「たぶんね。もっとも、ここまで霊格を高めた存在を人間と言っていいのかは別としてね。
まぁ規格外ではあるよね。
カイも錬気術を極めれば、いつかその境地に辿り着けるかもよ?」
ヘクセは踵を返して祖霊廟の前に立った。
そこには奇妙な石碑が置かれていた。
何も書かれていない。ただ、中央に丸い穴が開いている巨大な石碑だ。
「これが……」
「そう。それが<フー>だよ」
ヘクセが解説した。
「ただ、穴が開いているよう岩にしか見えないんだが?」
「そうだよ。魔力も何も無い、ただ岩に穴が開いているだけ。
まぁ、穴は完璧な円を描いてくり抜かれてはいるがね。
こないだ、さんざ調べたけどなーんにもなかった」
ヘクセはつまらなそうに一瞥して、言葉を続けた。
「『フー』とは古い言葉で、『空ろ』というか『空っぽ』というか、……うーん、難しいな。
『フー』は『フー』であって、その概念を示す適当な言葉が無いからなぁ。……」
そう言いながらヘクセは祖霊廟の扉を開く。
「おい、何してるんだ?」
「いや、せっかくだし。この前来たときは、ろくに調べる前に捕まっちゃったし」
ヘクセはそう言いながら、中に入っていく。
カイは溜息をつくと、ヘクセの後につづいた。
「ほら、見なよ」
カイが入ってくるのを見て、ヘクセは壁の一面を指差した。
そこには絵が描かれていた。
カイは息を呑む。
そこには美しい黒髪、慈悲に溢れた瞳の美しい女性が描かれていた。
それはまるでセラフィナのようで……
「聖皇母の肖像画だ。
……アティアに似てるねぇ。
やっぱ血ってやつかなぁ?」
「……ぁあ、そうか、アティアにも似てるな」
「アティア以外に似てる人を知ってるのかね?」
「…………」
ヘクセのその問いに、カイは黙り込む。
ヘクセは気にも留めず、祖霊廟の中を隈なく調べていた。
「……何をしている?」
「麓の正殿に無い以上、この本殿にあると思ったんだがなぁ……」
「何を探している?」
カイは重ねて尋ねた。
ヘクセは顔を上げずに答えた。
「アカーシャの書だよ」
「アカーシャだと?」
「アカーシャとは古の言葉で『天地』を意味する言葉だ。
ラスカフェールが『道』の根幹を記した哲学書。
私が長年追い続けたものだ。
カイも聞いたことがあるだろ?アカーシャの書の名前をさ」
確かにカイはその名前を知っていた。
アカーシャの書。
カフールで錬気術に一端でも携わるものなら、誰もが一度は耳にする伝説。
この世の真理を全て記した書物とも、武の真髄が記されている奥義書とも噂され、数多の偽書が出回るが、その実物を見たものは誰もおらず、いまではただの夢物語とまで言われている伝説の書物。
「ただの伝説ではなかったのか?」
「まぁ失われて久しいからね」
「それがお前の目的だったのか?」
「そうだよ。」
やがてヘクセ不満げに立ち上がると、頭をかきながら霊廟を出た。
そしてそのまま座り込む。
「……見つからないのか?」
「……うーん。
書というからには、伝えるのが目的だ。
いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ、
何かは分かるところに残してあるはずなのに……」
ヘクセは真剣な顔で呟いた。
「<フー>が意味無く作られたとは思えない。
あれが目印ならば、ここにあるはずなんだけど……。
……どこに消えた?失われたとでもいうのか?……くそっ」
ヘクセは悔しそうに爪を噛んだ。
「そんなに、その書が大事なのか? 結局は大昔に書かれた哲学書だろ?」
「……君は目覚めてなお、哲学の重要性をわかってないのかね」
ヘクセは不機嫌な表情で言った。
「書でも、剣でも、なんでもいい。
求められるべきは技量であって人格ではない。
だけど、ある水準以上の技量を持つ者は、一様にある種の"悟り"を開いている。
それは、技量を突き詰めるということは、その"言葉"を持って、自らの意志で世界を変化させるということに他ならないからだ。
歌や料理で人の心を震わせたりね。
そして、あらゆる"言葉"には思想が内在している。
その"言葉"を真に解するには、"言葉"の持つ思想を解することは不可欠だ。
思想を解するってことは、哲学を持つってことは、世界を認識する物差しを増やすということなんだ。
哲学というのは、思索を経て理解に辿り着く営みなんだよ。
物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことなんだ。
精神と肉体を練磨し、人を超える。
そのカフール錬気術の根幹たる思想、"言語"を手に入れれば、霊格を次なる位階に押し上げることも可能なのに……」
ヘクセはそう言った後、「むーっ」と呻いて、寝転がった。
両手を広げ、空を見上げる。
「……ようやく、手が届くところまで来たと思ったのに……」
ヘクセは切なそうに呟いた。
「…………」
カイはしばし寝転がるヘクセを眺めたが、頬を緩めヘクセの側に腰を下ろし、珍しく優しい声音で声をかけた。
「……いつものうるさいまでの元気はどうした? 何か見落としてるだけかもしれんぞ」
「見落としってさー……」
ヘクセは呻く。なんとなしに<フー>が目に入った。
(「答えは君の目の前にあるんだよ。後は君が気付くだけでいい」)
(「書というからには、伝えるのが目的だ」)
(「いくらカフール錬気術の教えが『不立文字』とはいえ」)
不意に、ヘクセの脳裏に自らの言葉がフラッシュバックした。
ドクンッ!
鼓動が跳ね上がる。
ヘクセは飛び起きた。
その瞬間、悟ったのだ。
体の震えが止まらない。
ヘクセは自分の声が他人のように聞こえた。
「……見つけた。これが『アカーシャの書』だ」
ヘクセの声は震え、涙が止めなく流れ出した。
それでもヘクセは目の前の『アカーシャの書』から目が離せなかった。
『アカーシャの書』=石碑の穴からは、満月がぽっかり覗いていた。
カイはその瞬間を目撃していた。
ヘクセが滂沱の涙を流し、石碑を見つめている。
ヘクセの周囲に濃密な気が渦巻き、膨れ上がり、やがてヘクセの左腕に収束していく。
そしてヘクセの左腕に新たな紋様が刻まれた。
周囲の気が落ち着き、ヘクセの腕に不可思議な紋様が定着して尚、ヘクセは石碑の前に座り、見つめ続けていた。
これもえんやのターン