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神々の墓標 ~カフール国奇譚~  作者: えんや&マリムラ
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明鏡止水

 立ち上がったものの、カイの身体に積み重なったダメージは大きかった。

 身体は鉛のように重く、目は(かす)み、左腕も上がらない。

 さらに勝算と呼べるものすら、一つとして見出せていなかった。


 だが、先ほど垣間見た幻が、不思議とカイの気持ちを落ち着けていた。


 ――勝算?俺は勝とうとしていたのか?

 ――力でも速さでも勝てぬ相手に?


 カイは先ほどまで自分が抱えていた(おご)りに可笑しくなった。


 ――いや、勝たねばならぬと思い込んでいたのだな。


 カイは相手を見やった。意識を失う前と異なり、白い毛があちこち抜け、(まだら)になった異形(いぎょう)の化け物。

 しかし、それ以上に、先ほどまでの威圧感を感じとれなかった。


 ――小さくなった?いや、そう感じるのか…。

 ――それほどに、俺は(おそ)れ、不安だったのだな。


 カイは苦笑した。

 風が(ほほ)()で、目の端に(うつ)る木々の枝が風に揺れる。

 数百年の寿命を持つこれら木々にしてみれば、魔猿もカイも刹那(せつな)の間現れる小さな存在に過ぎない。

 カイはそんなことを漠然(ばくぜん)と思った。


 魔猿が雄たけびを上げる。

 大気を震わす咆哮(ほうこう)をカイは静かに聞いていた。


『猿は"言葉"を知らぬから、つたない"言葉"で()えるしかない』


 幻の中で聞いた、ヘクセの言葉を思い出す。


「……なるほど。()えるだけ……か」


 魔猿がそのまま身体を折り、力を溜め、弾かれるように一直線に跳躍する(さま)を、カイは静かに見ていた。


 ――激情は筋肉を強張(こわば)らせ、想いとは裏腹(うらはら)に動きを阻害し"速さ"を奪う。

 ――それ以上に、視野を(せば)め、"(はや)さ"を奪う。


 カイはただ、大地の力に身を任せた。

 カイは水平に"落下"し、魔猿の爪はカイの衣服のみを(かす)めた。


 "井桁崩(いげたくず)し"。自らにかかる沈下力(ちんかりょく)を用い、水平方向に"落下"する技法。

 カイは以前から修得していた。

 ただ、本来の意味を悟ったのは、この瞬間だった。

 自らの力のみに()らず、大地の力を聴き取る。

 "大地に立つ"という意味。

 自らの力のみで戦っていた頃には、決して心で理解し得なかった概念。


 魔猿が意外そうな表情でカイを凝視(ぎょうし)する。

 魔猿にしてみれば、カイが瞬間移動したように見えたのだろう。

 魔猿は再び(うな)ると両腕を無茶苦茶に振り回しカイに襲い掛かる。

 しかし、そのすべてがカイを(とら)えることはできなかった。


 ――先ほどの俺もそうだった。

 ――怒り。焦り。恐怖。責務。それらで、周りを見渡す余裕もなくしていた。

 ――結局は、これまで(つちか)ったことしか出来ぬのに。

 ――その時その時やるべきことをやる。必要だったのはその覚悟。


 カイの中に、まだ怒りはあった。

 恐怖が消えたわけでもなかった。

 二人を守らなければならないという責務も(いだ)いている。


 しかし、カイはそれらに(とら)われてはいなかった。

 それらは心の水面にうつる波紋のように、ただ自己を、深く水の底へと沈めていった。


 深く深く。


 波の影響を受けぬ水底へと。


 ――なぜ、こいつはこれほどまでに怒ってる?


 魔猿の猛攻にある、魔猿の怒りをカイはただ感じ取っていた。


 ――俺と同じなのか?俺を怖れて、そして憎んでいる。


 自身に深く(もぐ)れば(もぐ)るほど、魔猿の怒りの陰に(ひそ)む憎しみ、焦り、怖れまで、カイには見えるようになってきた。


 ――いや、憎んでいるのは俺じゃない。人か……。


 カイは魔猿の目が自分ではなく、"人間"に向かっていることすら悟った。


 この怒りは愛するものを奪われたものの怒り。自らの()るべきところを奪われたものの怨嗟(えんさ)

 魔猿が人に何をなされたのか、詳しくはわからない。

 だが、それが魔猿にどれほど深い傷を与えたのかは、理解できた。


 父とも言える大僧正を殺したことは許せない。


 しかし、それとは別に、カイは魔猿が憎むべき魔物ではなく、同じ悲しみを(いだ)いた存在になっていた。



 ――『明鏡止水(めいきょうしすい)


 あれは何時(いつ)の事だったか。

 大僧正がまだ武術指南役(しなんやく)の一人に過ぎなかった頃、カイに語ったことがある。


明鏡止水(めいきょうしすい)とは?」

「うむ。()を捨て、心を(しず)め、天地と一体になったとき、初めて真に相手の姿を映すことが出来る。それが成し得れば、相手の成すことを全て読むことができるだろう」

「……全て読む。……そんなことが可能なのでしょうか?」

「私にもまだ至らぬ境地さ。

 己を捨て、勝負の(ことわり)を脱し、相手の心と一体になる。

 だがなぁ。()を捨てるのいうのは存外困難でなぁ」


 若き日の大僧正はかかかと笑った。


「『明鏡止水(めいきょうしすい)』などまだ分かりやすいほうだ。

 『色即是空(しきそくぜくう)』など、解することもかなわぬわ」

「『色即是空(しきそくぜくう)』?」

「『この世の全ては無』だとかいうことらしい。

 『明鏡止水(めいきょうしすい)』も『色即是空(しきそくぜくう)』も私が見た『アカーシャの書』の写本の一節だ」

「なんですか、それは?」

「カフールの御業(みわざ)の全てが記された書物らしいがな、真偽は知らぬ。不完全な写本しか世には出ておらぬし、それすら目にするだけでも幸運というものだ。果たして原本があるのかすら怪しい。私は、過去の偉人達の言葉をその都度(つど)書き加えたものではないかと思っているがな」

「また、そのような怪しげな事を。」


 遠い日に交わした何気ない言葉。

 カイはそんな言葉など、大僧正の世迷い言だと思っていた。


 しかし今ならわかる。


 これが、"明鏡止水(めいきょうしすい)"だ。

 いや、明鏡止水(めいきょうしすい)へと至る道の一歩だと。


 そして、さらに(はる)か遠くまで、その道が延びていることも。


 大僧正が最後まで至る事の出来なかった境地。カイはそこに足を踏み入れようとしていた。



   *   *   *



 ヘクセは、地べたに腰を下ろし、両者の戦いを見守っていた。


「どのような生物・魔物でも、認識し、判断し、行動するまでに(わず)かな時差が生じる。

 反応するだけでも、一流の戦士で0.2秒。通常で0.35秒。

 これに判断が加われば、選択肢が多くなればなるほど0.2~0.6秒。

 合計0.5秒から1秒近くの時間差。

 

 一流の拳闘士の拳速がおよそ12m/s。2mの間合いを通過するのに0.166秒。仮に音速の拳とて340m/s。2mを0.006秒。

 両者の差は0.2秒もない。

 生体的な速度差など、実のところ大して違いはないのさ。

 戦闘における"(はや)さ"とは、つまるところ予見だ。

 相手がどう動くか相手の筋肉、目その他の予備動作から見極め、先に動き出す。


 その点、カフールの武技は実に合理的だ。


 相手の行動を読み、自らの行動の気配は見せず、その時間差を自らのモノにする。


 あの猿がどう動くか決めた瞬間には、カイはそれを読み動き出す。

 猿にしてみれば、カイが実際に動いた後にしか認識できないのだから、当るわけもない。

 後出しジャンケンもいいところだ。


 さらには何万回と繰り返し覚えた型が、状況に即応して、ほぼ反射の領域で適切な一連の技を繰り出す。

 そして歩法(ほほう)により、(わず)かな動作で(さば)きと攻撃を兼ね、相手の不利な位置取りへと動き、相手の動作を加算し、誘導する。

 カフールの武技は戦いの一側面、速さの一側面だけでも、これほどの工夫がある。


 それにしても、相手の行動を読み、即応するためとはいえ、それを実現するために"闘争心"を否定し、"捨己従人(しゃきじゅうじん)"、"自他合一(じたごういつ)"という"許容"の概念を持ち出し、肉体はおろか、自己の精神、観念(かんねん)すら作り変えるとは、……まったく、恐れ入るよ。

 

 いや。人としての限界を受け入れ、その上で無力であるからこそ、他者の力を受け入れ、借りることを選択した。

 その見地(けんち)を得たからこその"副次効果(ふくじこうか)"なのかもしれないなぁ。彼らの"強さ"というものは……」


 ヘクセがくくくと笑ってるその前で、カイは魔猿の攻撃を避け続けた。

 興奮する魔猿には視野が(せま)くなるから、余計相手の動きが見えなくなる。

 カイには、逆に魔猿の動きが全て読めた。

 だからこそ、魔猿がどう攻撃するか決めた瞬間には、カイはそれを認識していた。

 そして動作の()こりを見せぬよう、無駄な筋肉を使わず、重力に従い重心を移し身体を流す。


 ――あぁ、そうだ。"武"とは弱者が生き延びるための(ことわり)だった。


 カイは、相手や周囲、なにより自身の弱さを受け入れることで、初めて自らが(つちか)った技術の真の意味を悟った。


 ――ならば。


 カイは魔猿の腕の下を(くぐ)りぬけ、魔猿の死角となる脇に立った。

 魔猿はすぐに飛びのき、身体をカイのほうに向け、腕を振り下ろす。


 ――やはり、そうだ。


 カイは確信した。

 相手の動きが読めるのであれば、導くことも容易(たやす)い。


 カイは魔猿の懐に踏み込む。魔猿が腕を振り下ろす。その腕を(くぐ)り魔猿の側面に。

 魔猿はあわてて振り向き、腕でカイを振り払おうとする。その腕がカイを(とら)えたと思った瞬間、カイは自ら跳び、魔猿の手首に腕を(から)め、振り切ったその瞬間に、伸びきった肘に(けい)を叩き込んだ。

 魔猿は自らの振るった腕の勢いのまま、肘をありえない方向に曲げられる。

 そしてカイは魔猿の背後に降り立っていた。

 魔猿が次の行動に移る前に、カイは(てのひら)で水面を叩くように(けい)を打ち込む。


 浸透剄(しんとうけい)


 あらゆる防護を通過し、内部に衝撃を伝える技。


 魔猿は身体を大きくのけぞらせ、虚空を見上げ、身体を数回震わせた後、崩れるように地面に倒れ伏せた。



   *   *   *



 カイは魔猿を見下ろした。

 まだかすかに息はある。


「殺さないのかい?」


 後ろからヘクセが声をかける。


「…………」


 あらためて魔猿を見下ろす。

 今なら容易にとどめを刺すことが出来る。だが……。


「大僧正の仇だろう?」

「…………」


 カイは動かない。

 へクセはさらに尋ねた。


「許すのかい?」

「……許せない。だが……」

「だが?」

「……こいつもまた、人を仇と思い、それ(ゆえ)に今回のことを行ったのだとしたら、こいつらは俺達となにが変わるのだろう?」

「さてねぇ? その答えは君の中にあるのだろう?」

「…………」


 その時、魔猿が大きく身じろいだ。意識を取り戻したのだ。

 カイは魔猿の顔を見下ろすと、一言だけ告げた。


「次はない。判ったら、去れ」


 カイはそう言うと、魔猿に背を向けアティアの元へと歩もうとした。

 魔猿は仲間を仰ぎ見、自身の(まだら)になった腕を見つめ、それから(うな)り声と共に、カイに向かって飛び掛った。


 カイははたして、魔猿の行動に意表を突かれながらもなお、武人(ぶじん)(つね)として残心(ざんしん)を解いてはいなかった。

 いや、カイの至った境地が、魔猿が飛び掛るであろうということを、意識の裏で悟らせていた。

 したがって、そこからのカイの動きは武人(ぶじん)の本能に実に忠実であった。


 歩み去る気配を見せながら、うらはらに斜め後ろに水平移動し、魔猿の懐に入り込み、攻撃を避けると同時に重心を崩す。

 そして手刀の小指側の側面に、"気"を集中させ、薄く鋭い刃となす。

 それを、大きく振りかぶりでもなく、力を込めるでもなく、ただ自らの勢いのまま突っ込む魔猿の首筋に、側面からそっと()わせた。

 突っ込む勢いが大きければ大きいほど、横側からの(わず)かな力に、大きく方向を()らされる。

 ましてやそれが鋭利な刃物であれば、(かす)めただけで魔猿の命を奪うのには十分であろう。


 カイはそれを分かっていた。


 だからそうした。



 刹那の交差。


 大きく吹き飛ばされ樹に叩きつけられた魔猿は、ゆっくり起き上がり、次の瞬間、首筋から盛大に血を噴き出した。

 なにか()えようとするも、首を半ばまで断たれ、気管すら裂かれ空気の抜ける音しかしない。


 魔猿はどうっと倒れ、そして二度と起き上がらなくなった。



 カイは何も言わなかった。



「不意を打たれたから、手加減ができなかったかい?」


 ヘクセが声をかける。


「……いや。」

「殺す意思があったかい?」

「……あぁ」

「……憎さが勝ったかい?」

「……いや。……おそらく」

「……ただ、その結果があったかい?」


 ヘクセの質問は詰問(きつもん)ではなく、本当にただ聞いているように思えた。

 だからこそカイはヘクセの言葉に素直に耳を傾けられた。

 そしてヘクセの最後の言葉が一番カイの中にしっくりきた。

 怒りも憎しみも同情も許しも、全てを内包(ないほう)して、 

 ただこの刹那(せつな)、起こった事象(じしょう)に対し素直に反応したらそうなった。それだけだった。


「……彼はきっと、異形(いぎょう)と化した自分は群れに戻っても前と同じようには生きられないだろう、どうせならおまえさんに楽にしてもらいたい、そう思ったのかもしれないね」

「……そうだな」


 カイの中にも、魔猿の最後の咆哮(ほうこう)の中の、哀しみと救い(すが)る声は届いていた。

 それが最後の自身の行動に影響を与えたのかは、自身にも判然(はんぜん)としないけれども、不思議と、自身の行動に後悔も疑心(ぎしん)(いだ)くことはなかった。


 (ほほ)()でる風に、カイは秋の匂いを感じた。

この時、相方スランプにつき、この回もえんや。



あまり後書きで解説めいたことをするのは好きではないのですが、

私は、ファンタジーでも平気でmや秒などの単位を用います。それどころか英語読みとかも普通に入れることも。

ここらへんは好き嫌いが分かれるところとは思いますが、その世界にその概念があるのならば、それをこちらの表記に変換した場合、自動的に変換されるものとして扱っています。

いや、一から時間やら長さやらの単位を設定するのってすごいとは思うけど、それを一々解説して理解してもらうのって大変じゃん。


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