無門の関
咄嗟に体を引き、距離をとろうとするカイ。
しかし、その瞬間に腹部に烈しい衝撃を受け、カイは吹っ飛ばされた。
普段から内功を練りあげていなければ、それは致死の一撃だっただろう。
ぎりぎりのところで、カイの日々の鍛錬が命を救った。
だが今の衝撃で槍を落としてしまい、さらに体勢も崩してしまう。
もちろん魔猿は待たない。
カイの肩を掴み、振り回して地面に叩きつける。
通常なら身を竦ませ体を固める一瞬、カイは逆に全身の力を抜いた。
叩きつけられた瞬間、衝撃を全身に拡散させる。
一瞬意識が飛びかけたが、大丈夫。
大僧正の教えのお陰で、これほどまでにされてもカイは重大なダメージを負ってはいなかった。
『放鬆だよ。必要なのは力みじゃない。柔らかく、柔らかく』
カイの脳裏にかつての大僧正の声が響く。
カイの脱力を死んだと思って魔猿はカイから手を離した。
その隙を逃さず、カイは魔猿から距離をおいた。
* * *
魔猿は再びカイに襲い掛かった。
脱力と内功。これまで培った技術と練り上げた肉体のお陰で致命傷は負ってはいない。
しかし人の限界を易々と超える魔猿の力と俊敏さに、ジリ貧ではあった。
何しろ魔猿の攻撃は避けられず、致命傷ではないとはいえ、その圧倒的膂力は着実にカイの肉体にダメージを積み上げ、カイの攻撃はかわされ、当たってもその分厚い筋肉に弾かれるのだ。
――せめて、刀があれば……
カイは戦闘時特有の無表情になりながら、内心歯噛みしていた。
――大僧正が敵わなかった相手だ。自分がどうこうできるわけがなかった。
絶望が湧きあがってくる。
折れそうな心を封じ込め、魔猿を睨みつける。
――こいつは大僧正の仇だ。
それは父とも仰いだ人を奪われたことによる怒り。
――自分が倒れたら、アティアやヘクセはどうなる?
それは自らに課せられた責任。
無茶でも、自分が傷ついても、彼女達は守らねば。
その一方、何かが違うと感じていた。
技を使う時の違和感。
何かに縛り付けられたような窮屈感。
体を緩め、腰下からの力を汲み上げ、拳を撃ち放つ。
手順は正しいはずなのに、何かが根本的に違う。
魔猿の拳がカイを捉え、空高く弾き飛ばされる。
カイは大地を転がった。
『カフール錬気術は心技体がそろってはじめて意味を成す』
あれは大僧正の言葉だったか。
『心は未だ私も悟りきれてはおらぬがね。人生是修行か。』
あの時、大僧正はそう言って笑っていた。
心?命のやり取りをしてるのに?
「そう。心。それが重要なのだよ。
心を凝りにしてては、だめなのだよ。」
心の中の声に返事する、あまりに緊張感のない言葉に、カイは思わず顔を上げる。
そこにいたのはヘクセだった。
「バカ。危ないから下がってろ!」
「どこに?」
気付けば魔猿はいなかった。
それどころか死体も本殿の庭すらない。
ヘクセとカイしか存在しなかった。
「……どういうことだ?」
「ここは君の意識の中。
実際に喋ると時間の制約があるからさ。
頭の中なら数時間も一瞬のこと。
こんなこともあるかと思って、私の思いの一部を君の中に忍ばせといたんだ♪」
カイの呆然とした顔を面白そうに眺めながらヘクセは言った。
「それより、ずいぶんと苦戦してるじゃぁないか。」
「……奴は強い。膂力も俊敏さも人の枠を越えている。」
「そのとおりだね。
いいよー。相手を認め、自身が何が足りて何が足りないか見極める。
扉を開くための一歩としては間違ってない。
では次の段階だ。
恨みや責任感を忘れろとは言わないけど、脇においておけ。」
ヘクセの言葉にカイは眉をひそめた。
「……何を言っている?」
「それらの感情は、視野を狭め、迷いを生む。心が囚われるからだ。
囚われるから目の前しか見えなくなり、身体も強張り、ともすれば自分すら見失いかねない。
……というかね、カフールの武術哲学はそうではないだろう?
君のその責任感や義の厚さは素晴らしいとは思うがね。それに囚われていては開眼には程遠いぞ。
そんなことより、今この瞬間に集中したまえ。
正しい哲学を持ち、技の真の意味を悟らねば、君の武技は、単に身体運用が上手いだけの只の喧嘩だ」
ヘクセはカイを見て微笑んだ。
「"凝り"であるところの、憎悪、憤怒、責務、勝欲、闘争心……。それはカフールの武術哲学とは相容れぬだろう。
君は根本的な立ち位置が違うから"カフール錬気術"の本来の力を使えていないのだよ。
カフールの御技は戦うことに非ず。
自他合一だよ。
だから、先ずはあの猿を愛し敬いなさい」
「愛するだと……? 倒すべき相手をか?」
カイは腑に落ちないといった表情でヘクセを見た。
「倒す倒されるはただの未来の結果の一つだ。
そんなことは気にかけるべきところではない。
問題は正しく相手や世界と向き合えているかということだ。
君はすでに言語を学んでいるはずだよ。
ならば正しく相手の言葉に耳を傾け、正しく自分の言葉を用い世界に語りかけたまえ」
「…言葉だと?」
「カフール錬気術は"気"という"言葉"を用いて、自らの肉体と魂、ひいては自らの立つ天地と意志を交わす技術だ。
戦いとは、つたない"言葉"で罵りあうのと同じかも知れない。だが"武"とは、"カフール錬気術"とはそうではないだろ?
"言葉"で罵り合うだけでは、声の大きいほうが勝つだろうさ。
猿は"言葉"を知らぬから、つたない"言葉"で咆えるしかない。
だが君は違うだろう?
これまでずっと日々の研鑽の中で、自己の肉体と、魂と、剣と、天地と会話してきたはずだ。
君の気脈も意念も長い修行の中で、そのように練り上げられてきたのだろう?
立ち姿はあれほど見事に正中線が天地を貫いていたじゃないか。
呼吸の間に隙がないじゃないか。
答えは君の目の前にあるんだよ。後は君が気付くだけでいい。
そろそろ開眼して、次の位階に踏み出したまえ。」
「…………」
カイの中から、徐々に戸惑いが消えようとしていた。
変わりに何かに気付きかけて気付けないもどかしさ、もやもやが湧き上がる。
「カフール錬気術はただ戦う術だけなどではないし、まして気の刃を飛ばす程度の小手先の技でもない。
…山界の気はそう容易く馴染まんよ。
だが君は、今や苦しくはないだろう?
それは君自身が山界の気に同調したのだよ。
呼気により世界を取り入れ、受け入れたんだ。
錬気術の下積みが、世界と折り合う術を君に与えた。
ほら、もっと世界に耳を澄ませてみたまえ。
今の君なら感じ取れるはずだ。
山の気、大地の気、風の気、そして自身の気。
あの猿の気すらね。
それら全てを受け入れ、自身を水と成せ。
自己を手放すのでもなく、自己に囚われるのでもなく、自己のありようを広げるんだ。
後は自ずと振舞えるはずだ。
考えるんじゃない。感じるのだよ。心を解き放て」
* * *
魔猿は戸惑っていた。
それもそうだろう。
小うるさい剣士を吹き飛ばしたものの、その間に割り込むように少女が入り込んできたのだから。
しかも、少女を襲うように命じた手下の猿たちは、少女を眺めるだけなのだし。
「オ前ラ! ナニヲシテイル!」
「コイツ山神サマ!」
猿たちが騒ぐ。
猿の化け物は、改めてヘクセを見た。
山の気が色濃く纏わりついている。
「……ナゼ、オ前ガ山神ノ力ヲ手ニシテル!?」
「……聞いたよ。
人に家族を奪われたんだってね。
人に木々を切り開かれ、山を奪われたんだってね。
山神を訪ね、出くわした大僧正を襲い、付き人から巫女のことを知ったんだってね。
……山神の力を手にして、何がしたいんだい?」
ヘクセはそう言いながら、右腕の包帯を解いていく。
右腕があらわになる。
そこには不可思議な紋様か彫りこまれていた。
そしてそれと同時に、周囲の気が色濃くなる。
「何ガシタイ、ダト!?
決マッテルダロウ!
人ハ我ガ物顔デ山ヲ荒ラス!
耐エルノハ、モウタクサンダ!
山神ノ力ヲ得テ、人ニ復讐ヲ成ス!!
オ前ガ山神ダト言ウノナラ、我ラニ力ヲ与エヨ!!」
「成る程。復讐をしたいわけか。
だから一族こぞって、この山にやってきたと。
山界の霊力を求め、山神の力を欲して。」
「ソウダ!!山神ハ我々ニ力ヲ貸スベキダ!
我々ハ人カラ山ヲ守ル為ニ戦ウノダカラ!」
ヘクセは可笑しそうに、喉の奥で笑った。
「違うだろう?山を守る為に戦うんじゃないだろう?
今言ったじゃないか、復讐を成すってさ。
現に君たちが一気に押し寄せたおかげで、実は全て毟られ、芽も摘まれ、木の皮すら剥がされてる。
君たちが今してることと人の違いはなにかね?」
「………」
「それじゃあ、山神は力を貸せないなぁ。」
「キサマ!!ヤハリ山神ヲ誑カシタ人間カ!!」
ヘクセは魔猿を見て微笑んだ。
「そういうお前こそ、自分は山神に相応しいとでも?
山の掟に背き、猿の本分を捨てて?
お前はね、山神になりたいんじゃない。ほんとうは人になりたいのだよ。
だって、復讐のために命を奪うなんて、ずいぶんと人間くさいじゃないか。
……いいよ。その願いを叶えてやろう」
その言葉を聞いた瞬間、魔猿は自分の身体に違和感を感じた。
頬をなでるとずるりとした感触があった。
手をみると頬にあった毛がごっそりと抜けていた。
猿たちがしきりに騒いでいる。
魔猿は近くの池に駆け寄っていた。
おそるおそる水面を覗く。
そこには体毛が抜け落ちた、人とも猿ともつかぬ異形の化け物がいた。
「ガアアアァァァァッッ!! ……キサマ、俺ニ、何ヲシタ!?」
「願いを叶えただけだよ。人になりたかったのだろう?
ささやかな親切心だ。礼は……そうだなぁ、ちょこっとでいいよ。」
「キサマ! 殺ス!」
「うん。実に人間くさい台詞だ。その調子その調子♪
あっでもまだ私、死にたくないなぁ。
それに他人の求道の機会を奪うほど野暮じゃないし。
もう少し彼に付き合ってくれないかな?
彼はまさに今、無門の関の前に立っているんだ。」
ヘクセはそう微笑むと脇に一歩ずれた。
その後ろには、カイが立ち上がっていた。
もはや立つことがやっとなのか、その立ち姿は、力が感じられず、肩も落とし、とらえどころがなく不安定さすら感じさせたが、
魔猿は何故か厭な空気を感じ取った。
これはえんやのターン。
ルビをふることを覚えた。