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真琴、記憶喪失事件

 その日は、真琴が騎士団の会議で出すチョコレート菓子を作っていた時だった。焼き上がったタルトの甘い匂いが、店内を優しく包み込む。


「リオン、味見してくれる?」


 振り向いた真琴の目が、少しだけぼんやりしているように見えた。


「真琴?」

「えっと……あの、あなたは誰?」


 その場の空気が凍る。洗い物をしていた私の手が止まった。指先から、血の気が引いていくのが分かる。


「……何を言っている」

「ごめんなさい。失礼だけど――」


 真琴は困ったように笑う。


「どこかでお会いしましたか?」


 それは魔術事故だった。王都で暴発した記憶撹乱の残滓。真琴はそれに、偶然巻き込まれた形になる。平和なアルセリア王国で、そんな事故が起こるとは思わず、防御魔法の結界を店に張っていなかった私のミスだった。


 困った顔をした真琴の手を引き、慌てて騎士団の医務室に駆け込む。真琴を診た医官の診断は冷酷だった。


「特定個人に関する記憶のみ、欠落しています」

「特定個人とは?」


 医官が目を伏せる。


「副団長、あなたです」


 あまりのショックで、返事ができなかった。


***

 肩を落としたまま、団長室で先ほどの報告をする。


「……は?」


 淡々と言葉を並べる私に、団長が驚いた様子で椅子から立ち上がった。


「真琴殿が、リオンだけを忘れたというのか?」

「はい」


 報告を正確に伝えた瞬間、部屋の温度が明らかに下がった。団長はそれ以上、何も言わない。私にかける言葉が出なかったのだろう。


 報告の後、真琴と一緒に騎士団から店に戻った。


「ええと……副団長様?」


 距離がある上に敬語。真琴の笑顔は変わらないが、“恋人を見る目”ではなかった。そのせいで私の喉がひりつく。


「真琴……頼むから敬語はやめてほしい」

「失礼でしたか?」

「違う」


 脇にある両手の拳が震える。この状況は、戦場よりも怖い。“自分だけが消えた世界”なんて、今まで想像すらしなかった。


「僕、あなたに何か失礼を?」


 丁寧で柔らかい口調だが、他人行儀なことに呼吸が乱れる。


「……覚えていないのか」

「何をでしょう?」


 私を見つめる、無垢な瞳が刃だった。それが思っているよりも鋭くて、深い傷を負わせる。


***

 騎士団会議室で、団長は王宮魔術師に問いかける。副団長が目の前にいる状況なのに、訊ねずにはいられない。


「副団長の様子はどうだ?」

「それが……彼の中にある魔力が、かなり不安定です。暴走すれば、王都半壊の恐れが」


 ガックリと肩を落としている、副団長をまじまじと見つめた団長はこめかみを押さえ、深く息を吸ってから低く言う。


「リオン、国を消すな」


 かけられた言葉に反応するように、副団長の目がゆっくりと動く。


「……努力はする」


 静かに告げられたセリフで、団長は思った。


(怖い。努力で済ませるなよ……)


***

 夜になり工房で真琴は一人、帳簿を整理している。そこへ静かに現れる影を見た途端に、真琴の面持ちが曇った。


「帰ってください、副団長様」

「帰らない。君の隣が、私の帰る場所だ」

「申し訳ありませんが、僕は――」

「真琴」


 遮る声が低く震える。


「私は君の伴侶だ」


 真琴の目が驚きで揺れる。


「その証拠は、どこにあるのでしょうか?」


 それは悪意ではなく、純粋な確認だった。言葉が喉で止まった。伴侶である証明を、どうすればできるか考える。私は左手の薬指に嵌められた揃いの指輪を見せてから、懐より小さな包みを出す。


 それは昨日、真琴が焼いた少し焦げたクッキーだった。


「君は、これを失敗作だと言って捨てようとした」


 真琴が小首を傾げながら、目を瞬かせる。


「私は美味いと言った」

「……」

「それで君は、嬉しそうな顔で言ったんだ。『リオン、ありがとう』って」


 私の記憶がない真琴――昨日のことを告げてもそれが伝わることなく、空気だけが揺れる。


「君が覚えていなくてもいい」


 絞り出すような声になった。


「私は覚えている。真琴の全てを」


 ぎゅっと握りしめた拳が白くなる。


「君が好きだ」


 視線を逸らさずに、必死な表情で告げられたセリフで、真琴の胸がちくりと痛んだ。知らないはずなのにこの声を聞くと、なぜだか胸が締めつけられる。


「……副団長様」


 真琴は恐るおそる、一歩だけ近づく。


「そんな顔をさせる人を、僕が好きじゃないわけないと思うんです」

「思う?」

「はい。確信はないけど」


 少しだけ、照れたように笑う。


「僕もう一回、アナタを好きになります」


 それは、迷いのない声だった。その言葉で、膝が本当に崩れた。今度は恐慌ではない、安堵のせいで。


 遠くで副団長の魔力を計測していた、王宮魔術師が叫ぶ。


「暴走値、低下しました!」


 その言葉に団長が額を押さえて、深いため息を吐く。


「……国が救われたな」


 数日後、真琴はまだ思い出していない。でも私の隣にいる。いつものように自然に。


「副団長様」

「リオンでいい」

「……リオン」


 少し照れた声。それだけで顔が赤くなる。


 愛は忘れられても、もう一度始められる。でも副団長を追い詰めると、国が消えかける。それだけは全員が学んだ。


***

 ――王都結界塔・深夜


「原因が特定できました」


 団長室に現れた王宮魔術師が、青ざめた顔で告げる。


「記憶撹乱の残滓ではありません。個人を狙った意図的な術式です」


 眼鏡の奥にある、団長の目が細くなる。


「……誰だ」

「王国で指名手配している、黒魔術師エヴァルド。現在、国外逃亡中」


 個人攻撃――王国最強騎士の伴侶を狙った時点で、国に反旗を翻したことがわかる。リオン・ヴァルハートは何も言わなかった。ピリついた空気を感じながら、身を翻して団長室を出て行く。


「待て、単騎で行くな」


 団長の制止でも止まらない。


「副団長!」


 その場で立ち止まり、ゆっくり振り返る。蒼い瞳が静かに燃えていた。


「団長、これは国家への攻撃です。私の手で犯罪者を処理します」


***

 国境外にある廃教会は闇が濃い。黒魔術の気配が大きく渦巻く。そのおかげで、場所が特定できた。


 防御魔法で身を包み、廃教会に足を踏み入れる。黒魔術師エヴァルドの弟子たちがリオンに向けて、黒魔術の攻撃をしかけた。


 攻撃を受けながらも反撃せずに、ひたすら奥にある祭壇を目指す。中には高位魔法を使った攻撃もあり、リオンは徐々に傷だらけになった。


 それでも歩みを止めずに、完全詠唱を口ずさむ。


 そして立派な扉に辿り着き、思いきって開ける。祭壇の前に立つ男と目が合う。


「ほう……来たか」


 黒魔術師エヴァルドが嗤う。


「王国の守護犬が、傷だらけじゃないか。情けない」


 リオンは剣を抜かない。代わりに、魔力が身体中に満ちる。


「貴様が」


 一歩だけ足を前に進ませると、地面が軋む音を立てた。


「真琴の記憶を奪ったのか」


 エヴァルドが薄ら笑いしながら、ひょいと肩をすくめる。


「なんて事ない実験だ。恋人の記憶だけを削る術式は成功した。面白いだろう?」

「それなら、もっと面白いものを見せてやる。王国最強騎士の私は、表向きは剣の達人ということになっているが――」


 次の瞬間、空間が裂ける。上級魔法の展開、リオンの頭上で魔法陣が三重に重なる。通常、複数展開は禁忌だったが、彼は止めない。


「私の魔力が人並み以上のせいで、全力を出すことができない」


 本来なら、王都の結界塔と連動しなければ許されない。


「やめろ、その規模では王都が――」

「だが真琴の記憶を奪った貴様に向けて、叩き込んでやる!」


 轟音とともに、光が廃教会を包む。結界ごと粉砕した途端に黒魔術師の術式が逆流し、エヴァルドが絶叫する。


「馬鹿な! 一人でここまで――」


 ほんの一瞬、魔力の奔流が止まる。その静寂の中で、リオンは言った。


「触れるな、私の世界に」


 最後の詠唱で、廃教会の上から魔法を叩き落とす。闇が消し飛び、黒魔術師とその弟子たちの存在が消失した。


 その瞬間、遠く離れた工房。真琴がふと手を止める。焼き菓子の香りを嗅いだだけで、胸の奥がちりと痛む。そして――。


「……リオン?」


 言葉が、自然にこぼれた。そこから洪水のように戻る記憶。焦げたクッキーや膝から崩れた副団長と不器用な告白。他にも一緒に過ごした日々が、頭の中に流れていく。


「……あ」


 涙がポロポロと零れ落ちる。記憶がない時の自分の態度に、真琴は切ない思いを噛みしめたのだった。


***

 廃教会跡、魔力の余波が消える。傷だらけのリオンが呆然と立ち尽くしていた。放出した魔力を閉じ込めるために、神経を集中する。そこへ転移陣が開くと、目の前に団長が現れた。


「あーあ、派手にやったな」

「処理完了です」


 疲れを滲ませたリオンの声が震える。団長が肩を竦めながら笑いかけた。


「疲れが吹き飛ぶ報告をしてやる。真琴殿の記憶が戻ったぞ」


 その一言で、リオンの瞳が揺れる。


「本当か」

「ああ。お前の名前を呼んだ」


 それだけで十分だった。


***

 工房の扉が開く。息を切らして帰宅したリオンを見て、真琴が振り向く。今度は他人を見る目じゃなかった。


「リオン、おかえりなさい!」


 その一言で世界が戻り、リオンの膝が崩れる。今度は戦闘不能じゃない。


「……真琴、真琴、真琴!」


 声が壊れる。


「覚えてるよ」


 涙ぐんだ真琴が駆け寄る。


「全部」


 互いにぎゅっと抱きつく。強く、震えながら。そして泣いた。声を押し殺すこともできず、肩を震わせて。


「二度と……二度と奪わせない」


 真琴は優しくリオンの背を撫でる。


「うん」


 頷きながら、小さく笑う。


「でもさ、国ごと消し飛ばすのはやめてね?」


 少し意地悪に問いかけた真琴を、リオンが涙目のまま睨む。


「消していない」

「じゃあ敵の陣地は?」

「当然、更地だ」


 でも真琴は知っている。この男は、国よりも先に自分を守る。そしてその重さに、自分はちゃんと向き合うことを。


 リオンはまだ泣いている。真琴がそっと額に触れた。


「おかえり、僕の騎士様」


***

 奥の小さな寝室。泣き止んだはずなのにリオンの肩は、まだわずかに震えている。


 上級魔法三重展開のあと、黒魔術師一派を単騎で制圧。国家存亡一歩手前……なのに今は、真琴の膝に頭を預けている。


「……すまない」


 掠れた声を聞き、真琴は首を横に振った。


「迷惑をかけたのは、僕のほうでしょ」


 真琴は、指先でゆっくりと金の髪を梳く。


「覚えてない間、冷たかったよね。知らない人みたいに」


 その言葉に、リオンの指がぴくりと動く。


「あれは……」

「うん?」

「……死ぬよりきつかった」


 真琴は少しだけ目を丸くする。それから、くすっと笑う。


「大げさ」

「本気だ」


 唇を突き出して言い放った。そこが副団長。真琴は優しく額を突っつく。


「じゃあ今日は、僕が責任を取るね」

「責任?」

「記憶喪失して迷惑かけた分」


 リオンがゆっくり顔を上げる。その瞳はまだ赤い。


「……迷惑ではない」

「ううん。かけた」


 真琴はふわりと笑って、彼の頬を両手で包む。


「だから甘やかす。横になって」


 命令口調。でも声はやわらかい。リオンが素直に従う。真琴が隣に滑り込み、腕を広げる。


「どうぞ」

「……?」

「今日は僕が抱き枕」


 三秒沈黙。次の瞬間、リオンの顔が真っ赤になる。


「ま、真琴」

「なに?」

「それは」

「副団長殿に、拒否権はありません」


 ふわり、と抱き寄せる。リオンの額が真琴の胸元に触れる。規則正しい心音とあたたかい音。


「ここにいるよ」


 真琴は、リオンの耳元で甘く囁く。


「消えないからね」


 リオンの腕が、ぎゅっと回る。さっきまで、国を消し飛ばしかけた男とは思えない力加減。壊れ物みたいに、やんわりと抱きつく。


 しばらくして真琴がそっと、リオンの手を取る。大きくて傷だらけの手を、優しく包み込む。


「これで、僕の記憶を取り戻したんだよね」

「……当然だ」

「ありがと」


 真琴は、手の甲に口づける。


「……それは」

「ご褒美」


 にこっと笑う。


「僕の騎士様」


 その破壊力にリオンの目が再び潤み、鼻の奥がつんとした。


「……真琴」

「なに?」

「私は……」


 言葉が詰まる。強い男ほど、こういう時は不器用だ。


 真琴は、指でリオンの唇を軽く押さえる。


「今日は、言葉はいらないよ」

「……」

「泣き疲れたんでしょ?」


 副団長は図星を指されて、視線を逸らす。真琴がくすっと笑う。


「ねえ、リオン」

「……なんだ」

「もし、また僕が忘れても」


 その瞬間、空気が張る。


「今度は一緒に思い出そうね」


 リオンの瞳がゆらゆら揺れる。


「一人で世界を壊しに行かないで」


 真琴が額を合わせる。


「記憶がなくても、僕はちゃんと君を選ぶから」


 長い沈黙。やがて――。


「……約束する」


 低く、深く。


「次は二人で戦う」


 真琴が満足そうに微笑む。


「うん」


 しばらくして規則正しい寝息。副団長、完全に電池切れ。真琴はそっと髪を撫でる。


「ほんと、重いんだから」


 でもその重さごと愛しい。真琴は小さく呟く。


「おやすみ、リオン」


 窓の外。アルセリアの夜は静かだ。世界は守られた。副団長は、ただの伴侶に戻った。


 そして今夜は――甘やかされる側。たくさん頑張った後のご褒美。


 アルセリア王国は、今日も平和だ。副団長の伴侶を奪わない限り。

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