第三章 北の砦と試される信頼
夜明け前の城は、息を潜めたように静かだった。砦へ向かう準備のため馬具を整えていると、懐の中で小さな紙片がカサリと音をたてた――それは、真琴から渡されたチョコの包み紙だった。
その瞬間、心が不安定に揺らぎ始める。
(……まだ、香りが残っている)
こんなにも微かな香りなのに内側から優しい波が広がり、戦へ向かう朝にこうして甘さに救われるなど思いもしなかった。
不意に、昨夜の真琴の顔が浮かぶ。
迷いながらも勇気を振り絞った声。小箱を差し出す手の震え。そして、言葉を飲み込むように頬を赤くした表情。
(……あのとき、私も手を握り返してしまったな)
思い出すだけで、鼓動が軽やかに乱れる。なぜ彼に触れたのか、理由はあとからどうにでも言い訳できる――けれど。
(違う。あれは……触れずにいられなかったんだ)
想いに気づいた瞬間、息が細かく震え出す。戦の前にこんな感情に陥るとは、騎士としては愚かだ。だが、一人の男としては――もう誤魔化しようがなかった。
(真琴……私に帰ってきてほしいと、あんなふうに――)
目を閉じて、包み紙をそっと握りしめる。紙越しに伝わる甘い記憶が、心に蜜のような甘みを染み込ませていく。
「……この想いを言葉にする日は、帰ってからだ」
もし戻れなかったら、この想いは永遠に胸に沈む。それでも、彼は信じて待つだろう――だからこそ、絶対に裏切れない。
小さく呟いた声は風よりも弱かったが、確かな気持ちだった。真琴に向ける想いは、もうただの“庇護”や“感謝”ではない。失うことを恐れてしまうほどの、名を持たない感情だった。
――彼の笑顔を守りたい。彼が待ってくれている場所へ、生きて戻りたい。
その願いを胸に刻み、馬に跨ってぎゅっと手綱を握る。
「真琴……君が待つ場所へ必ず帰る」
その言葉と共に、馬がゆっくりと北へ歩き出した。
北の砦は、魔物との境界線に近い。一度判断を誤れば、仲間の命も民の暮らしも失われる場所だ。
空はまだ夜の色を残しているが、東の端では微かな金色が滲み始めている。それは、真琴の香りを思わせる朝の色だった。




