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第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い4

***

 夜の王都はしんと静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のように遠のき、石畳の上を渡る風が、ほんの少し冷たく頬を撫でる。


 僕は厨房にひとり立ち、カカオ豆を砕く手を止めた。リオン様が明日、北の砦へ向かうという知らせを聞いてから、落ち着かないざわめきが心の中でずっと続いていた。


「……これが僕にできる“送り出し”の形になるかな」


 ただの騎士様なら、ここまで胸が騒ぐだろうか。そう考えてしまう自分に、僕はそっと首を振った。カカオ豆の代用品を嫌な顔ひとつせずに、仕事の合間を見繕って探し、僕のところに届けてくれたり。チョコに合う果実を笑顔で差し入れしてくれたりと、リオン様にはお世話になりっぱなしだった。


 鍋の中で溶かされたチョコレートが、ゆっくりと光を帯びていく。それは《スイートセンス》の祝福が働いている証――香りが感情に共鳴する瞬間だった。


 リオン様がちゃんと帰ってきますように。誰かのために剣を振るうあの背中が、無事であること。それは溶けるカカオに、祈りをひとしずくずつ染み込ませていくような感覚だった。


「フェリシュ、これ……リオン様は喜んでくれるかな」


 戸惑いを滲ませた声で告げたら、肩にとまった小さな精霊が、淡い光をキラッと瞬かせる。


「うん! 真琴の“心の甘さ”が、ちゃんと伝わるのだわぁ。このチョコ、ほかのよりも……あったかい味がするのですぅ」

「そっか……うん、よかった」


 できあがったチョコを手早く小箱に詰めてそっと抱きしめ、夜風の中へと歩き出した。


 この間チョコを届けた城の訓練場の一角、火の灯る詰所の前にリオン様がいらっしゃった。


 いつも身にまとっている銀の鎧を外し、ひと息ついたその姿は、昼の勇ましさとは全然違う。それは少しだけ人間らしい、疲れと静けさをまとう横顔だった。その静けさに、僕の心臓が否応なしに高鳴る。


「こんばんは。リオン様……」

「真琴、こんな夜更けにどうした?」

「チョコを作ったんです……明日の遠征に、持って行ってほしくて。えっと……これはリオン様の“お守り”みたいなもの、です」


 僕が恐るおそる木箱を差し出すと、リオン様は受け取りながら微笑む。箱を開ければ、中には包み紙にくるまれた小さなチョコが四つ入っていた。形は少し不揃いだけれど、香りはいつも作っているものより深く、上品な甘さがある。


 箱から甘い香りが夜気にふわりと溶け、火の明かりさえやわらかく染める。


「これはすごいな。まるで花畑の中にいるようだ」

「《スイートセンス》の力が入ってます。食べた人の心を、落ち着かせる香りになるみたいで」


 リオン様はひとつ手に取り、包み紙を開いてゆっくりと口に含んだ。チョコが口内で溶ける間、沈黙が落ちる。そして、わずかに息を吐くように彼が呟いた。


「うん。とても優しい味だ。真琴……君の心がそのまま入っているみたいに感じられる」


 その言葉と彼が見せる笑顔に胸がドキッとして、思わず視線をそらした。頬がじんわりと熱くなっていく。


「僕は、こんなことしかできませんけど……帰りを待っている間に、また新しい味を作ります。リオン様のために!」

「約束か?」

「はい。次に食べてもらうときは、もっと“甘い”のをご用意いたします」


 堂々と宣言した僕のセリフを聞いたリオン様の蒼い瞳が、わずかに揺れたのが目に留まる。その視線は、戦場に向かう騎士ではなく――ひとりの男としての、かすかな感情の震えに思えた。


「……ならば、戻る理由ができたな」


 短く言って、リオン様は僕の手をやんわりと取る。突然のことで、息をするのも忘れた。離したほうがいいと、どこかで思ったのに――指が動かなかった。


 いつもは手袋越しで触れていた手――今は直に触れた指先から温もりが伝わり、体の芯まであたたかさが広がっていく。


「君の“甘さ”は、人を強くする。不思議なものだ」

「僕なんて、ただの菓子職人です」

「いいや。私にとっては――そうだな、勇気をくれる魔法使いだ」


 リオン様に魔法使いなんて言われたことで胸が跳ねて、言葉が出なくなる。ただ、その手をぎゅっと握り返した。フェリシュがふわっと光の粉を舞わせ、僕らの周囲を金色に染める。


「真琴、いまの、ぜーったい“恋の香り”なのだわぁ!」

「……フェリシュ、しーっ」


 小さな精霊の声に、慌てて唇に指を当てる。けれどリオン様は、そのやりとりを見て静かに笑った。


「夜が明けたら出発だ。真琴……帰ったら、またその甘味を」

「はい。絶対に!」


 その約束を最後に僕らは名残惜しげに手を離し、リオン様が見送る中、城門をあとにした。


 夜明け前の空に淡い光が射し始める。抱きしめた空箱の中に残る温もりが、まだ名前を知らない感情の甘さとして、いつまでも胸に残っていた。



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