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番外編 既婚者宣言を止められない夫を見る朝


 朝、まだ完全に目が覚めきらない時間。僕は台所でお湯を沸かしながら、背後の気配を感じていた。


 ――重い。それは物理的じゃなく、存在感そのものが重い。振り返ると案の定、リオンが立っていた。しかも無言のまま、真剣な顔をしていて左手は自然に前。指輪がきらりと光り輝く。


(……朝から、そのポーズなんだ)


「おはよう、リオン」

「おはよう、真琴」


 声が低くて落ち着いているのに、目が少し潤んでいる。多分、昨日もあまり寝てないんじゃないかな。


「今日、任務だよね?」

「ああ」

「……早いね」

「既婚者は早起きだ」

「朝からそれ言う?」


 顔だけ振り向いた瞬間、後ろから抱きしめられる。強くはないけど、逃がす気もない力加減。


「……真琴」

「な、なに?」

「私は……今日も既婚者だ」

「知ってる!!」


 思わず声が裏返る。リオンは、少しだけ首を傾げた。


「確認だ」

「確認の頻度がおかしいよ……」


 でも、腕は緩まない。むしろ、少し強くなる。


「任務先でな」

「……うん」

「他国の騎士に話しかけられたら、言う」

「何を?」

「既婚者です、と」

「言わなくていいよ!」

「言う」


 即答。しかも迷いゼロ。真剣な蒼い目で、何もない空間を見つめる。


(――あ、これはもう止まらないやつだ)


 ため息をついて、リオンの手に触れる。指輪の感触があたたかい。


「……ねぇ、リオン」

「何だ?」

「そんなに言わなくても、僕、逃げないよ?」


 一瞬。本当に一瞬だけ、リオンの表情が揺れた。


「……それでも」


 額を、僕の肩に預けてくる。


「言っていないと……不安になる」


(重い……でも……)


 大きな背中に腕を回す。


「まったく……かわいいなぁ」


 ぽろっと漏れた。しまった、と思った時には遅かった。リオンの体が、ぴくっと震える。


「……今、かわいいと言ったか?」

「言った……」

「もう一度言ってくれ」

「えっ」

「既婚者の特権だ」

「そんな特権ないから!」


 でも顔を上げたリオンは、耳まで真っ赤で。期待に満ちた目をしていて。


(……ああ、もう)


「……リオンは重くて、すごくかわいいよ」


 その瞬間、ぎゅうううううっ!!! っと強く抱きしめられた。


「うっ!」

「真琴……」


 声が震えてる。


「私は……重いと言われて……嬉しい……」

「末期だよ、それ……」

「君のものだ」

「うん……そうだね……」


 ため息と一緒に、笑ってしまう。


 リオンは満足そうに僕を抱きしめたまま、低く呟いた。


「今日も、全世界に言ってくる」

「何を?」

「私は既婚者だ」


(これ……止めるの、絶対に無理だなぁ……)


 でも玄関で、鎧を着けるリオンの背中を見て。指輪が光るのを見て。胸の奥が、じんわりあたたかくなる。


(……まぁ、こんなに幸せそうなら、別にいいか)


「いってらっしゃい、リオン」


 振り返った彼は、少しだけ微笑んで言った。


「行ってくる。……私の伴侶」


(……朝から心臓に悪い)


 今日もきっと、リオンの既婚者宣言は止まらない。


***

 山間部の砦跡。敵対勢力の残党が立てこもっているという報告を受け、私は単独で踏み込んだ。


 ――静かだ。気配はある。だが、覚悟が足りない。


「出てこい」


 低く告げると、瓦礫の陰から数名が姿を現した。剣を構え、こちらを警戒している。


「……アルセリアの騎士か」

「副団長だ」


 その名で、わずかに空気が揺れた。


「貴様の目的は?」

「貴国の輸送路を押さえる。それだけだ」

「無駄だ」


 一歩、前に出る。敵の一人が、私の左手に嵌めている指輪をじっと見たと思ったら、緊張を示すように喉を鳴らす。


「あ、その指輪は……」


(ああ、そうか。外交文書は、ここまで届いているらしい)


「私は既婚者だ」


 それだけ言ったら、敵が一瞬で硬直する。


「……ま、まさか……」

「本当に……」

「噂は……事実だったのか……」


 噂?


「何の話だ」


 訊ねただけなのに、相手は一歩後ずさった。


「“名前を呼んだだけで国が動く菓子職人”……」

「“副団長の命と正気を握っている存在”……」

「“彼の名を穢した者は、王国最強騎士が必ず来る”……」


 私は眉をひそめた。


(何だこれ……話がかなり盛られている)


「真琴のことか」


 その名前を口にした瞬間、敵が完全に青ざめた。


「出た……」

「名前を……出した……」

「終わった……」


 私に向けている剣が、明らかに震えている。いや、待て。


「何を怯えているんだ?」


 私は、本当に理解していなかった。


「ただの名前だ」

「“ただの”……?」

「“ただの”だと……」

「副団長……正気か……!」


 敵の一人が、半ば叫ぶ。


「貴様が……! その名を呼ぶ時点で……我々はもう!」

「?」


 意味がまったく分からない。


「私はただ、任務を早く終わらせたいだけだ」


 真琴が待っている、早く帰らねば。


「投降しろ」


 言いながら剣を下ろす。


「抵抗しなければ、命までは取らん」


 次の瞬間、全員が剣を捨てた。音を立てて、武器が地に落ちる。


「……降伏します」

「真琴殿に……よろしく……」

「副団長……どうか……穏便に……」


 私は、深いため息をついた。


(真琴、君は……どこまで行っている……)


 拘束を終えて撤収準備をしながら、私は無意識に指輪に触れた。


「……早く帰ろう」


 その夜。報告書には、こう記された。


 敵勢力、戦闘前に戦意喪失。

 原因:副団長が“真琴”の名を口にしたため。


 団長はこれを読んで、肩を震わせながら言ったそうだ。


「もうそれ、兵器だろ」


 違う。真琴は私の伴侶、それだけだ。


(――だから私は、最強なんだ)



***

 拘束を終えた後、私は砦跡の簡易詰所で報告書を書いていた。


 任務は完了・戦闘なし。想定より静かすぎる終結――静かすぎて、逆に不安になる。


 背後で、小さな物音がした。振り返ると、捕縛した敵兵たちが床に正座している。目の前には、紙と羽ペンとインク。なぜあるんだ?


「……何をしている」


 低く問うと、全員がびくっと跳ねた。


「し、失礼します副団長殿!!」

「許可を!!」

「どうか許可を!!」

「何の許可だ」


 敵兵の一人が、震える声で言った。


「……真琴殿へ……謝罪文を書かせてください……」


 私は、報告書を書く手を止めた。


「……誰に?」

「真琴殿です」

「どうか、書かせていただきたい!」


 全員が揃って懇願する。


「なぜだ?」


 心底、理解できなかった。


「我々は……知らずに……」

「真琴殿の……」

「ご主人を……敵に回しました……」

「それは……そんなに大罪か」


 次の瞬間、全員が涙目で声を揃える。


「大罪です!!!!!」


 しかも土下座、勢いがすごい。


「真琴殿は……」

「副団長殿の……」

「心臓であり……精神であり……」

「国家の宝であり……」

「待て」


 手で制して、何とか言葉を止めた。


「話が飛躍している」

「飛躍していません!!」

「むしろ控えめです!!」


 誰かが叫んだが、目の前の状況に私は額を押さえるしかない。


(……どこから、こうなった……)


「ちなみに、謝罪文の内容は?」


 嫌々訊ねると、敵兵は恐るおそる紙を差し出した。


 拝啓 真琴殿

 この度は、あなたのご主人である副団長リオン=ヴァルハート殿に剣を向ける可能性のある立場に立ってしまい、

誠に申し訳ございませんでした。私どもは、あなたという存在が世界の均衡に与える影響を軽視しておりました――


 私は、読むのをやめた。


「……長すぎる」

「削ります!!」

「違う」


 深く息を吐く。


「そもそも、真琴に謝る必要はない」


 全員が青ざめた。


「え……?」

「お怒りでしょうか?」

「まだ……足りませんか?」

「怒っていない」


 事実だ。


「真琴は、こういうのを受け取ると困る」


 ――絶対に。彼は慌てて、オロオロして「そんな大げさな……」と言って、でも最後に笑うだろう。


「……だが」


 少しだけ、言葉を選んだ。


「書くなら、簡潔にしろ」


 敵兵たちの目が、キラキラ輝いた。


「よ、よろしいのですか?」

「では……これで!」


 差し出された二通目。


 真琴殿

  あなたのご主人に敵対しようとしたこと、心より反省しております。どうか、副団長殿が無事であることをお伝えください。そしてこれ以上、怒らせないでください。


「……最後の一行はいらない」

「削ります!!」


(……教育が行き届きすぎている)


 回収した謝罪文を封筒に入れながら、私は思った。


(真琴に見せたら困るな……だが……)


 指輪に視線が落ちるだけで、自然と口元が緩んだ。


「……帰ったら、説明しよう」


 その夜。王国への報告書の追記。


※捕縛した敵兵が、真琴殿への謝罪文を自発的に作成。ちなみに、こちらは強要はしていない。


 団長のコメント。


「もう世界がバグってる」


 違う。世界が真琴を正しく理解し始めただけだ。


(――たぶん)

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