第二章 騎士の苦味と、ひとしずくの救い2
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次の日、アルセリアの街に降り注ぐ陽光が、石畳をあたたかく照らした。
王都の外れにある騎士団の訓練場へ向かう道すがら、地面の砂を踏む音と木剣が打ち合う甲高い響きが風に混じって届く。
そこへ、場違いなエプロン姿の男がひとり――まるで、戦場に迷いこんだ菓子職人のように僕は両手で大切そうに抱えた木箱を胸に、そろそろと歩いた。
(昨日、リオン様が見せてくれた“苦味”。 あれを知ってしまった以上、僕はもう何もせずにはいられなかった)
フェリシュは肩の上でふわりとリボンを揺らして、「真琴、がんばるのです!」と小さく励ましてくれる。
「ありがとう、フェリシュ。……僕、そんなに緊張してる?」
「だって真琴の体、いつもよりあったかいですもん」
小さな天使のような精霊が、僕の頬にちょんと触れる。その瞬間、心臓が軽やかに跳ね、訓練場に赴く緊張が少しだけ楽しみに変わった。
目的地に近づくにつれ、《スイートセンス》が静かに反応していく。甘く、力強い香り――鍛えあげた精神の芯にだけ宿る、澄んだ“真摯さ”の香気が鼻腔をくすぐった。
「来たな、真琴」
リオン様の低く響く声に、思わず顔を上げる。
陽光を背に立つ副団長の姿は、昨日よりもさらに威厳を帯びて見えた。白銀の鎧に反射する光が眩しく、胸がきゅっと締めつけられる。
「昨日の話、覚えているか? 君の“甘味”が皆の力になるかもしれない。今日はそれを試してみたい」
「はい。できる限り、やってみます!」
リオン様が頷き、訓練を終えたばかりの騎士たちに召集の声をかける。
僕は持っていた木箱の蓋を開いた。中には、一口サイズのショコラが整然と並んでいる。飾り気のないチョコの表面は陽の光を受けてきらりと輝き、ふわりと甘く優しい香りが訓練場全体を包み込んだ。
その香りに触れた瞬間、ピンと張りつめた空気が少しやわらぐ――まるで、冬の朝に灯された小さな焚き火のように。
「な、なんだこの香り……」
「体の疲れが、少し軽くなったような?」
ざわめく声があちこちからあがる。その反応に僕の心臓は早鐘を打ち、指先がわずかに震えた。
耳元でフェリシュが囁く。
「大丈夫。真琴の“甘さ”は、ほんとの気持ちからできてるのですぅ」
その声に背中を押された僕は、深呼吸をする。
(戦う人たちの心には、きっと僕が知らない苦味がある。それでも――甘さを忘れないでほしい)
そんな思いを胸に、できるだけ明るく声を張った。
「皆さん、召し上がってください。疲れた身体を、少しでも癒せたら嬉しいです」
騎士たちは次々にショコラを口に運ぶ。ひと口食べるたび、驚きが笑みに変わっていく。彼らの笑顔を見て、心に蜜のような甘みが染み、孤独だった日々が遠のいた。
リオン様もひとつを手に取り、ゆっくりと口に含んだ。ショコラが舌の上で溶けたとき、彼の周囲に淡い金色の光がふわりと舞い、空気がやわらかく揺れた。
騎士たちのざわめきさえ、その瞬間だけリオン様と僕だけの景色に変わる。それは数秒で消えたが、その間だけ世界が静止したように感じた。
《スイートセンス》が告げる――それは幸福の香気。チョコを食べた者の疲労を癒やし、心を穏やかに包み込む甘い魔法。
「……不思議なものだな。甘味で、ここまで空気が変わるとは」
「僕も信じられません。でも……リオン様が笑ってくれたなら、それで充分です」
言葉がこぼれたあと、自分でも驚くほど胸が熱くなった。
リオン様は静かに目を細め、その瞳の奥に一瞬だけ、冬の氷が溶けるような光を宿した。
「やはり君は、この国にとって“甘味の祝福”だ。次の遠征でも、その力を借りたい」
「えっ……僕が、ですか?」
「ああ。君の作るチョコは、戦う者の心を癒す。これは、ただの菓子職人の技ではない」
リオン様の言葉に優しい疼きが胸をくすぐり、抑えきれない微笑みが浮かんでしまう。
――この世界は自分が“選ばれた”のではなく、自分で選んだ役割がある。その確信が芽吹いた瞬間だった。
足元で、フェリシュがリボンをぱたぱた揺らす。
「ふふっ。真琴、とろけた顔をしてるのです」
「えっ……そ、そんな顔してた?」
「うん、リオンを見てるときだけ、すっごく甘いのです!」
事実を突かれて顔全部が熱くなり、思わず木箱の蓋を勢いよく閉じた。その仕草に、リオン様が珍しく声をあげて笑う。
「君の菓子だけでなく、その照れた顔も癒しだな」
冗談めかした言葉なのに、心が溶けるように温まるのを感じて思わず目を伏せた。
陽光の中で見た彼の微笑みは、チョコレートよりもずっと甘くて苦くて――。この胸の高鳴りの名を、僕はまだ知らない。ただ確かなのは、《スイートセンス》が告げるひとつの真実。
――この香りは、恋のはじまりの味がする。




