第二章騎士の苦味と、ひとしずくの救い
アルセリア王都の朝は、鐘の音とともに始まる。その音に目を開けると、窓から差し込む陽光が淡く木の机を照らしていた。
フェリシュが綺麗にしてくれた小さな工房で、新しい試作を前に僕は腕を組んでいた。
「……やっぱり、カカオの香りが少し違う」
本来のカカオ豆は、フェリシュが少しずつ分けてくれるものだけ。限りある材料だからこそ、僕はこの世界の味でチョコレートを生み出したかった。そのためにリオン様にお願いし、アルセリアの森に実る木の実をいくつか集めてもらった。
しかしながら、思っていた以上に難しい。その中でも使えそうなもの――代用している“ココノの実”は、苦味が強く香りに丸みがない。それでも《スイートセンス》で甘味の波長を微調整するとほんの少しだけ、あの懐かしいチョコレートの香りに近づいた。
「ねぇねぇ真琴。お顔がちょっと苦くなってるのですぅ」
ふわりと光の粒が舞い、湯気の上に小さな影が現れる。うさ耳のような飾りを揺らしたフェリシュが、まるで泡のように軽やかに浮かんでいた。
「フェリシュ……」
「昨日までのあなた、とってもいい香りだったのですぅ。なのに今朝のあなたは、少し“焦げ砂糖”みたいな香りなのですぅ」
「焦げ砂糖?」
「そぉ、迷いの香り。ねぇ真琴、あなたが本当に作りたい“甘さ”は、誰のためのもの?」
――前の世界では、誰にも選ばれなかった。だから今度は、苦さを抱えたまま立ち続けるこの人に、甘さを届けたい。
不意にリオン様の穏やかな笑みが、頭の中に浮かんだ。
フェリシュは僕の表情から答えを読み取ったのか、ピンク色の瞳を細めてやさしく微笑む。
「それなら、もう大丈夫なのですぅ。あなたの心が向かう先に、甘さは生まれるのだからぁ」
そう言って光の粒となり、彼女は朝の空気に溶けていった。残された温もりが胸に残る。
――リオン様に食べてほしい。
そう思うと、不思議と心が甘く満たされていく。彼の笑顔を思い出すたびに、胸の奥がやさしく疼いた。
それが原動力となり夢中で試作を続けていると、室内にノックの音が響いた。
「清水殿、いるか?」
聞こえてきた低い声に慌てて扉を開けると、銀の鎧に身を包んだリオン様が立っていた。
「リオン様! どうぞ中へ」
「いや、朝の巡回の途中で寄っただけだ。珍しいものが手に入ってな。これを受け取ってほしい」
差し出された包みには、桜色の果実がいくつも入っていた。
「これは?」
「“ルゼラの実”という。南方の森でしか採れぬ貴重な果物だ。菓子職人の君なら、使い道があるだろう」
「ありがとうございます!」
思わず頬が緩む。手に取った瞬間、甘酸っぱい香りが鼻をくすぐり、《スイートセンス》が反応した。
(この果実、酸味と甘みのバランスが絶妙……チョコと合わせれば、きっと――)
「リオン様、少しだけお時間をいただけますか? この果実を使って、新しいお菓子を試したいんです」
「私に味見を、ということか?」
(この甘さは、誰にでも渡すものじゃない――)
「はい。ぜひ、貴方に食べてほしいです!」
言葉が自然とこぼれる。
リオン様は一瞬だけ目を瞬かせ――やがて静かに微笑んだ。
「……光栄だな」
急いで火を灯して果実を刻み、チョコを溶かすと酸味が苦みを優しく包み込む。その静けさの中で、《スイートセンス》が彼の心から滲む“苦味”を感じ取った。
(――あれ?)
「あの、リオン様……少しお疲れではないですか?」
思いきって傍らに立つ彼に訊ねると、リオン様は目を伏せてわずかに息を吐いた。
「……鋭いな。疲れというより――古い記憶だ」
リオン様はほんの一瞬、胸元の鎧に触れた。その仕草が、言葉より雄弁に痛みを物語る。
「かつての防衛戦で、私は多くの部下を失った。その中に、妹のように育てていた少女がいた。止めたのに、彼女は戦場へ向かって……そして、私の目の前で散った」
その言葉に宿る痛みは、鋼の鎧よりも重かった。
僕は無言で鍋を下ろし、フェリシュが魔法をかけた調理台にチョコを流す。光を帯びたチョコが、やわらかく固まっていく。
「どうぞお召し上がりください。リオン様の心が、少しでも軽くなれば……」
リオン様は一粒を指先で取り、静かに口に含む。チョコが溶けていくにつれて、蒼い瞳がゆるやかに揺れた。
「ああ、不思議だ。初めは確かに苦かったはずなのに……気づけば、胸の奥のざらつきまで溶かされていくようだ」
「チョコは、苦味があるからこそ甘みが引き立つんです。人の心も、きっと同じで」
彼はしばし黙した後、かすかに笑った。
「ありがとう、真琴……この味、戦場では味わえなかった。君の作るものは、なんだか心を緩めてくれる」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じてドキドキしていると、窓の外をフェリシュの小さな光がすうっと通り過ぎた。
(――ねぇ真琴。今のあなた、とってもいい香りなのですぅ)
その声が、心の中で優しく響いた気がした。
――この人を、もっと笑わせたい。もう二度と、苦い記憶に縛られないように。
その想いを胸に秘めていたら、リオン様の言葉が続く。
「真琴、ひとつ頼みがある」
「なんでしょう?」
「明日の昼、訓練場へ来てほしい。君の作る“甘味”が、皆の力になる気がする」
「え……僕の甘味が?」
「ああ。戦う者ほど、私のように甘さを忘れてしまう。だが君の菓子なら――それを思い出させてくれるかもしれない」
やわらかく微笑むその顔に、胸がふっと温かくなる。
扉が閉まったあと、静かな工房の中で僕は胸に手を当てた。《スイートセンス》が小さく灯る。
(――リオン様の“苦味”を、もっと甘く変えていきたい)
それがきっとこの世界で僕にできる“救い”なのだと、心の底から思った。空気の中に、ルゼラとチョコの混ざった香りが、やわらかく漂っていた。




