第五章 ショコラを作る手、甘味店《ショコラトリエ・アルセリア》、開店!8
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ふたりの休みが重なった夜。工房は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。窓の外では2つの月が淡く輝き、差し込む光が鍋の中のチョコレートを銀色に照らしている。
とろり、とろり。木べらを回すたび、甘い香りがゆるやかに小鍋から立ちのぼった。
「リオン、混ぜすぎると分離するよ」
「そうなのか。結構難しいものだな……」
そう言ってリオンは木べらを僕に手渡し、そのまま背後に立つ。背の高い彼の影が僕を包み、気づけばその腕が僕の手をそっと包み込んでいた。
指先に重なる温もり。その熱が、手首から心臓へと伝わっていく。
「ちょ、ちょっと近すぎ」
「温度を保つためだ。……チョコも人も、冷えすぎては固くなる」
低い声が耳のすぐ後ろで囁かれる。息が触れた瞬間、背筋がぶるりと震えた。
鍋の中で、カカオがとろけていく。甘く、少し苦く、どこか切ない香り――それは、ふたりの間に流れる空気そのもののよう。
リオンの手が少し力を込める。
「……こうか?」
その力に導かれて、僕は彼の胸に背を預けてしまった。重なったところからリオンの体温が伝わり、息が詰まって指先が震える。
「リオン、もう……これ以上は――」
「真琴、動かないでくれ。今、温度が一番いい」
耳元で囁く声は、熱を帯びていた。チョコの溶ける音が、鼓動の音と混ざり合っていく。
どれほどの時間が過ぎただろう。ようやく火を止めると、ふたりの手の中でチョコは滑らかに艶めき、まるで息づいているようにやわらかな光を放っていた。
「できましたね」
「見事だ。君と混ぜたからか、ずいぶんと艶やかだ」
「そんな言い方、反則……」
顔を上げると、リオンの瞳が月光を映していた。淡い蒼の光が僕の頬を照らし、距離があと一呼吸のところまで近づく。その瞬間――唇が触れた。深くはない、けれど逃れられないほど確かな口づけ。ほんのり苦いカカオの味と、リオンの体温。世界が、ひとしずくの甘さで満たされていく。
「リオン……これはチョコの味?」
「いや、真琴の味だ」
その言葉に、胸の奥が跳ねた。視線を伏せた僕の頬に、彼の指がそっと触れる。
「今夜のチョコは、“ふたりの味”だな」
「そんなの……売り物にならないよ」
「いい。これは――私たちだけの秘密だから」
思わず笑って、リオンの胸に額を預けた。外では春の夜風が静かに吹き抜け、カカオの香りと恋の余韻が工房を満たしていく。
ふたりで作ったチョコはまだほんのりと温かく、その甘さはどんな魔法よりも確かに――心を溶かしていた。
キスの余韻が残る中、リオンは僕の腰を抱き寄せ、ゆっくりと工房の奥へと導いた。そこには小さな休憩スペースがあり、やわらかなクッションが敷かれたベンチが置かれている。普段は疲れた時に少し休む場所だけど、今夜は違う意味で使われそう。
「リオン、待って……ここで?」
僕の声は震えていた。心臓が早鐘のように鳴り、頬がすごく熱い。リオンは優しく微笑み、僕の肩を撫でる。
「誰も来ないよ、真琴。君が嫌じゃなければ……」
彼の蒼い瞳は真剣で、とても優しい。
キスのその先――僕はまだ誰ともしたことがない。童貞だなんて恥ずかしくて言えなかったけど、リオンならきっとわかってくれる。
「あのね僕、初めてで……わからないんだ」
小さな声で告白すると、リオンはそっと僕を抱きしめた。温かくて大きな胸板に顔を埋めると、カカオの香りが混じった彼の匂いが心地いい。
「わかった。ゆっくりいく、君のペースで。けして無理はしない」
彼の言葉に頷き、唇を重ねる。さっきより深く、舌が絡み合う。甘い唾液が混ざり、息が熱くなる。
その後、ふたりで息を荒げ、額を合わせてひとつになった。リオンは優しくキスをし、僕を抱きしめる。
「君の初めて、私が全部貰った。すごく嬉しい。愛してるよ、真琴」
甘い余韻に包まれた工房は、ふたりの秘密の場所となった。ふたりで作ったチョコの味は、永遠に忘れられない甘さだった。




