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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

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いじめ? いいえ、無作法ですわ。~最底辺パシリJKに転生した元悪役令嬢、切り裂かれたドレスを遮光カーテンと安全ピンで『パンク』なオートクチュールに改造し、美学だけでスクールカーストを粉砕します~

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/01/10

冒頭に主人公への嫌がらせ(いじめ)描写がありますが、メンタル最強の元悪役令嬢なのでノーダメージです。すぐにやり返しますので、安心してお読みください。

 

「あはは! 見てよこれ、びしょ濡れ!」


「超ウケるー。葉山さん、水浴びでもしたのー?」


 頭上から降り注ぐ、濁った冷水。


 鼓膜を揺らすのは、下品に手を叩く音と、耳障りで甲高い猿の咆哮――いいえ、笑い声だわ。


 鼻を突くのは、シンナーの混じった安っぽい香水と、清掃が行き届いていないカビ臭いタイルの匂い。


 そして、まとわりつく濡れたジャージの生乾きのような不快臭。


(……最悪ね。うちの屋敷の馬小屋だって、もう少し清潔だったわよ)


 寒気で指先が震える。


 一瞬、自分が誰なのかわからなくなった。


 私は葉山サクラ? いいえ、違う。私は……。


 全身を走る不快感と共に、脳裏に雷が落ちたような衝撃が走った。


 視界がチカチカと明滅し、二つの異なる記憶が濁流のように混ざり合っていく。


 その混乱を強引に鎮めたのは、腹の底から湧き上がる強烈な「怒り」だった。


 この私が、こんな下劣な扱いを受けるなど。


(……この体、なんて貧弱なの。猫背で、筋肉もなく、まるで栄養失調のネズミだわ)


 心臓の鼓動が弱く、早鐘を打っている。


 湧き上がってくるのは惨めな記憶。


 常に誰かの顔色を伺い、クラスでの序列は最下位。


 通称「パシリ」。


 パンを買いに走らされ、宿題を押し付けられ、嘲笑される日々。


 ――悔しい。


 ――惨めだ。


 ――誰か、助けて。


 そんな弱音を、私は鼻で笑い飛ばしてやった。


(……安心して、サクラ。貴女の無念、私がすべて引き受けて晴らして差し上げますわ)


 内なる魂にそう語りかけると、不思議と胸の震えが治まった。


 蘇る、本来の私の記憶。


 ベアトリス・フォン・ローゼンバーグ。


 ローゼンバーグ侯爵家の一人娘にして、王太子妃候補筆頭。


 妹分の聖女を害したという、身に覚えのない冤罪によって断罪された「悪役令嬢」。


(ああ、思い出した。私、処刑されたんだったわね)


 ギロチンの刃が重力に従って落ちる瞬間の、首筋を撫でる氷のような寒気。


 今、頭から浴びせられたバケツの水の冷たさが、奇妙にそれと重なった。


 けれど、決定的に違うことがある。


 あの時は抵抗できなかったけれど――今の相手は、国家権力でもなんでもない、ただの無作法な小娘たちだということ。


 私はゆっくりと眼鏡の位置を直す。


 レンズには水滴がつき、視界は最悪だ。


 貧弱な足がガクガクと震えている。


 肉体は限界に近い。今すぐにでもうずくまって震えたいと悲鳴を上げている。


 だが、私のプライド()がそれを許さない。


 ――お立ちなさい、ベアトリス。


 ――コルセットがなくとも、貴族の背骨は鉄でできているのよ。


 私は震える膝に力を込め、怒りという名の燃料アドレナリンを無理やり神経に流し込んだ。


 ガツン、と踵を床に打ち付ける。


 目覚めとしては、下の下だわ。


「ねえ、聞いてんの? トイレ掃除ご苦労様って言ってんのよ」


 個室のドアを蹴る音。


 ガン、と薄っぺらい金属音が響く。


 ……嘆かわしいこと。


 これがこの国の「貴族(スクールカースト上位者)」の振る舞い?


 あまりに稚拙で、野蛮。


 私がいた王宮での陰湿で計算高い足の引っ張り合いに比べたら、これは猿のマウンティング以下ね。


 私はゆっくりと息を吐き、濡れて額に張り付いた前髪をかき上げた。


 恐怖? 屈辱?


 いいえ。湧き上がってきたのは、無作法な輩に対する純粋な「呆れ」だけ。


 腕に力は入らない。


 今の私には、ドアを蹴破るような筋力はない。


 ならば。


 私はガリガリに痩せた身体の全体重を乗せ、勢いよくドアノブを押し込んだ。


 筋力がないなら、重力を使うまで。


 バンッ!!


 静寂を破る破裂音と共に、ドアが外へ向かって弾け飛ぶ。


「きゃっ!?」


 ドアの向こうにいた三人の少女――リーダー格の麗奈レナとその取り巻きたちが、予想外の勢いにのけぞる。


 彼女たちはスマートフォンという長方形の板を構え、動画を撮影していたらしい。


 他人の不幸を記録して喜ぶなんて、なんと下品な遊びなのかしら。


「……何よあんた。急に開けてんじゃないわよ」


 麗奈がすぐに気を取り直し、威嚇するように睨みつけてくる。


 厚塗りのファンデーション。


 校則を無視して短く切り詰めたスカート。


 だらしなく着崩したシャツ。


 ああ、なんて「無作法」なのかしら。


 ドレスコードも守れないような低俗な輩が、この神聖な学び舎(社交場)で幅を利かせているなんて、私の美学に反する。


 私は濡れたジャージの襟を正し、貧血によるめまいを意志の力だけでねじ伏せ、背筋をピンと伸ばした。


 ただそれだけの動作で、自然と顎が上がり、彼女たちを見下ろす形になる。


 猫背で怯えていた「葉山サクラ」は、もうどこにもいない。


「……ごきげんよう、皆様」


 口から出たのは、悲鳴でも謝罪でもなく、王宮で培った最上級の挨拶。


 場にそぐわない凛とした声が、狭いトイレの壁に反響する。


「は? 何言ってんのコイツ。頭打った?」


「言葉が通じないのかしら? 『ごきげんよう』と申し上げましたの。朝の挨拶は社交の基本でしょう? それとも、貴女方の辞書には挨拶という言葉も載っていなくて?」


 私は優雅に微笑んだ。


 ただし、目は笑っていない。


 かつて近衛騎士団長さえも竦ませた、侯爵家直伝の「氷の微笑」だ。


 麗奈たちの顔から、少しずつ嘲笑の色が消えていく。


 彼女たちは気づき始めている。


 目の前にいるのが、いつものサンドバッグではないことに。


 生物としての本能が、私の纏う空気に警鐘を鳴らしているのだ。


「な、何よその態度……! あんた、自分がどういう立場かわかってんの!?」


 麗奈が苛立ち紛れに手を振り上げた。平手打ちの構え。


 暴力ね。本当につまらない女。


 言葉で勝てなくなるとすぐに手が出る。最も野蛮で、知性の欠片もない解決手段。


 本来なら避けるべきだけれど、今のこの貧弱な体では反応速度が追いつかない。


 だから、動かない。


 避ける必要すらないと、心で断じる。


「おやめなさい」


 短く、鋭く言い放つ。


 命令ではない。


 絶対的な「事実」としての宣告。


 麗奈の手が、私の頬の数センチ手前でピタリと止まった。


 彼女自身もなぜ止めたのかわからないようで、戸惑いの表情を浮かべている。


 私の瞳に宿る、圧倒的な「格」の差に本能が気圧されたのだ。


 野生動物と同じね。自分より上位の捕食者を前にした時、体は勝手に竦むものよ。


「貴女の手が汚れますわよ。このような……汚水まみれの私に触れれば」


「っ……!?」


「それに、その動画。SNSに上げるおつもりでしょうけれど、私の濡れ姿なんて需要がないわ。もっと美しいものを撮るべきね。例えば……ご自身のその、恐怖で引きつった無様なお顔とか」


 私は一歩、前へ踏み出す。


 麗奈たちがたじろぎ、道を空ける。


 私は彼女たちが()()()()()()道を、あたかもレッドカーペットであるかのように堂々と通り抜けた。


「それでは、失礼いたします。次回の授業(お稽古)が始まってしまいますので」


 背後で「な、なによあいつ……!」「キモいんだけど!」という負け惜しみが聞こえたけれど、私は振り返らなかった。


 寒さで足元はふらつき、視界の端が白んでいる。


 けれど、背中だけは決して丸めない。


 敗犬の遠吠えに耳を貸すほど、私は暇じゃないの。




 ◇◆◇




 廊下に出ると、すれ違う生徒たちがギョッとして道を空ける。


 水滴を垂らしながら歩く姿は異様だろうけれど、私は悠然と歩を進めた。


 寒さで歯がカチカチと鳴りそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。


 ヒソヒソとした陰口、嘲笑する視線。


 それらすべてが、私にとっては心地よいBGMだ。注目されることには慣れているもの。


 教室のドアを開けると、クラス中の視線が一斉に突き刺さった。


 全身ずぶ濡れの、地味なパシリ女。


 普通なら、恥辱に顔を覆って泣いて、走り去る場面でしょうね。


 クスクスという失笑が波のように広がる。


「うわ、見ろよあれ」


「また麗奈たちにやられたんじゃね?」


 自分の席へ向かうと、机の上には定番の落書きがあった。


「死ね」「ブス」「消えろ」。


 黒のマジックインキで書かれたそれらは、あまりに字が汚く、美的センスの欠片もない。


(……なんて幼稚なのかしら。私の国では、彼らの年齢ではもう、命をかけた駆け引きを行っているというのに)


 私は深いため息をついた。いじめの内容が低俗すぎる。


 これならまだ、私のダンスシューズに、毒が塗ってある画鋲を入れた男爵令嬢の方が、創意工夫があったというものよ。


 鞄からハンカチを取り出し、椅子についた水滴(誰かが親切にも霧吹きをかけたらしい)を丁寧に拭き取る。


 動作の一つ一つを、優雅に、丁寧に。舞踏会の手つきで。


「葉山〜。机、大変なことになってるよー?」


 クラスメイトの一人が、ニヤニヤしながら声をかけてくる。


 私は優雅に椅子に座り、背筋を伸ばして彼女を見た。


「ええ、困ったものだわ。どなたか存じませんが、随分と前衛的な芸術的センスをお持ちのようで」


「は……?」


「文字のバランス、筆圧の乱れ……まるで幼児の書き殴りのようですけれど、これでも必死に自己表現なさったんでしょうね。言葉を知らない子供が、壁にクレヨンで感情をぶつけるのと一緒。……ふふ、涙ぐましい努力だわ」


 教室が静まり返る。


 私が泣くどころか、落書きを「幼児の未熟な作品」として批評し始めたからだ。


 呆気にとられる周囲をよそに、私は鞄から、小さな魔法瓶と紅茶のティーバッグ、そして小さな紙コップを取り出した。


 冷え切った体を温める必要がある。手足の感覚はもうほとんどない。


 本当はボーンチャイナのティーカップが欲しいところだけれど、今はこれで我慢しましょう。


「さて。少し喉が渇いたわね」


 魔法瓶の蓋を開ける。


 まだ湯気の出るお湯を、高い位置から空気を含ませるように注ぐ。


 ジャンピングを促すように。


 ふわりと、教室のカビ臭く澱んだ空気に、アールグレイの華やかな香りが漂った。


 濡れた髪をそのままに、眼鏡の奥の瞳を閉じて香りを楽しむ。


「おい、葉山……何やってんだよ、授業始まるぞ」


 男子生徒の一人が、恐る恐る声をかけてきた。


 私は片目を開け、彼に微笑みかける。


「お茶をいただいておりますの。何か問題でも?」


「いや、問題っていうか……お前、その格好……」


「水も滴るなんとやら、と申しますでしょう? 身だしなみについては後ほど整えますわ。今は、荒んだ心をこの芳醇な香りで鎮めるのが最優先なの」


 私は紙コップを、あたかも王宮の聖杯であるかのように両手で包み込み、一口啜った。


 熱い液体が食道を通り、凍えた内臓に染み渡る。


 ――生き返るわ。


 周囲の嘲笑や悪意が、急速に色あせていく感覚。


 私が「優雅」であろうとする限り、ここは薄暗い教室ではなく、私のサロンなのだ。


 ガララ、と乱暴にドアが開き、麗奈たちが戻ってきた。


 私の姿を見て、彼女たちは絶句する。


 いじめられて泣いているはずの私が、優雅にティータイムを楽しんでいるのだから無理もない。


「……何よあんた、その余裕ぶった態度」


 麗奈がツカツカと歩み寄り、私の机にドン、と手を突く。


 紙コップの水面がわずかに揺れた。


 私は眉をひそめ、揺れた水面を見つめる。


「麗奈様。お席にお戻りになってはいかが? 授業の(ベル)が鳴りますわよ」


「ふざけんな! 私を無視すんなって言ってんの! なんでアンタごときが上から目線なわけ!?」


「無視などしていないわ。ただ、貴女のその……品性に欠ける大声が、紅茶の風味を損なうと申し上げているの」


 私は眼鏡越しに、冷ややかな視線を彼女の瞳の奥へと突き刺した。


 その視線は、ゴミを見るような軽蔑ではなく、理解の及ばない未知の生物を観察するような冷徹さを含んでいた。


「……っ!」


 麗奈が思わず後ずさる。


 一瞬、彼女が何か言い返そうと口を開いたが、私の背後に広がる異様な圧迫感に喉を詰まらせた。


 威圧感に耐えられず、彼女は「……覚えてなさいよ」と捨て台詞を吐き、自分の席へと戻っていった。


 その様子を、取り巻きの一人、ミカが不安げに見つめていた。


 彼女は無意識なのか、ポケットから手鏡を取り出し、自分の唇をチラリと確認していた。


 その瞳に、かつての嘲笑はなく、微かな「迷い」の色が混じっていることに、私は気づいていた。




 ◇◆◇




 5時間目のけだるい午後。教科は「世界史」。


 教壇に立っているのは、40代半ばの男性教師・坂本。


 彼は典型的な「事勿れ主義」かつ「憂さ晴らし」で授業をするタイプだ。


 生徒への教育的関心はなく、ただ教科書を読み上げ、気に食わない生徒がいればネチネチと難癖をつけることで自身の優位性を保とうとする。


 坂本は黒板に『フランス革命』と書きなぐり、気だるげにチョークを置いた。


「……というわけで、ギロチンは必要悪だったわけだ。腐敗した貴族を排除し、市民が権利を勝ち取った。これが歴史の正義だ」


 ――正義、ね。


 その言葉が、私の古傷を小さく疼かせる。


 首筋に、あの冷たい刃の感触が蘇る。


 けれど、私は怒らなかった。


 ただ、この男の浅はかさに辟易した。


 歴史観もさることながら、私が気になったのは別のことだ。


 彼のワイシャツの袖口の黒ずみ。腹部のボタンが弾け飛びそうなだらしなさ。


 そして何より、生徒を見下すその濁った目。


 私は思わず、小さくあくびを噛み殺した。


 だが、それを坂本は見逃さなかったようだ。


「おい、葉山。……授業がつまらんようだな?」


 坂本が獲物を見つけたハイエナのように目を細める。


 濡れたジャージ姿の私を見て、格好のサンドバッグだと思ったのだろう。


「そんなに退屈なら教えてやろう。お前みたいな落ちこぼれが、もし革命期に生きていたらどうなるか。……真っ先に断頭台送りだ。社会の役に立たないゴミは掃除される。それが歴史の教訓だ」


 クラス中から、クスクスと忍び笑いが漏れる。


 教師が生徒を「ゴミ」と呼んで嘲笑う。


 それが、この教室の日常らしい。


 私はゆっくりと立ち上がった。


 濡れたジャージが重いが、背筋だけは槍のように真っ直ぐに。


「……先生。一つ、訂正させていただいてもよろしいかしら?」


「あ? なんだ、口答えか?」


「歴史の解釈について議論するつもりはありませんわ。私が申し上げたいのは、貴方のその『支配者としての美学』の欠如についてです」


 教室がざわめく。


 私の声があまりにも落ち着いていて、教師に対する怯えが一切なかったからだ。


「貴方は今、ご自身のストレス解消のために、立場の弱い生徒を貶めましたわね? 公平であるべき教室で、権力を笠に着て、私的な感情で他者を攻撃する……」


 私は一歩、教壇に近づく。


 かつて王宮で、汚職大臣を追及した時と同じ歩調で。


「それこそが、かつて民衆が最も憎んだ『腐敗した特権階級』の姿そのものですわ。……先生、ご自身が、貴方の嫌う『悪徳貴族』の真似事をなさってどうしますの?」


「き、貴様……!」


「上に立つ者には、それ相応の振る舞いが求められます。ノブレス・オブリージュ――高貴なる者の義務。……その薄汚れた袖口、チョークまみれの指先、そして生徒を憂さ晴らしの道具にする卑しい精神性」


 私はそこで言葉を切り、坂本の全身を上から下まで、冷ややかにねめつけた。


 そこにあるのは怒りではない。


 出来の悪い従僕を見るような、純粋な「評価」だ。


「あまりに――『無作法』だわ」


「な、な……っ!」


 坂本の顔が赤を通り越して土色になる。


 論理の矛盾を突かれたことよりも、自身の「品格」を否定されたことが、彼の中年男性としてのプライドを深く傷つけたのだ。


「だ、黙れ! 教師に向かって説教する気か! 内申点がどうなっても知らんぞ!」


 出たわね、伝家の宝刀「内申点」。


 自分の権威が揺らぐと、すぐにシステムという虎の威を借る。


「内申点? ええ、どうぞお好きになさいませ。ですが先生」


 私はふわりと微笑んだ。


「私の評価を下げる前に、ご自身の襟元を正されてはいかが?」


「な……?」


 私はわざとらしく、視線を彼の袖口の「黒ずみ」に向けた。


 つられて、クラス中の生徒の視線が、坂本の薄汚れた袖口と、だらしなく開いた腹のボタンへと集中する。


 ――汚い。

 ――だらしない。

 ――口先だけの大人。


 声には出さずとも、三十人の生徒の瞳が雄弁にそう語っていた。


 軽蔑の眼差し。それがこれほど集合すると、物理的な圧力となって人間に襲いかかる。


「ひっ……!?」


 坂本はたまらず後ずさった。


 自分が生徒たちを見下していたはずが、いつの間にか値踏みされ、見下される側に回っていることに気づいたのだ。


「威厳とは、与えられるものではなく、自らの行いで勝ち取るものです。……どうぞ、次はもう少し『マシ』な授業を期待しておりますわ」


 私が放った、王妃教育で培われた圧倒的な「威圧感」。


 それに加えて、教室全体を支配する冷ややかな空気。


 坂本は耐えきれず、顔を真っ赤にして何か叫ぼうとした。


 けれど、その時。


 ピロン、という電子音が教室の静寂を破った。


「あ、投稿完了。……先生、今の『悪徳貴族』のくだり、全部撮ってましたけど大丈夫ですか?」


 一人の生徒が、スマホを掲げてニヤリと笑った。


 それだけではない。


 見渡せば、教室の半数以上の生徒が、いつの間にか無言でスマホのレンズを教壇に向けていたのだ。


 そこに教師への敬意も恐怖もない。


 あるのは、獲物を追い詰める狩人のような、残酷な連帯感だけ。


「じ、自習! 今日は自習だ!」


 教師が生徒に論破され、醜態を晒し、腰を抜かした一部始終。


 それが現代の断頭台(SNS)に流されたことを悟り、坂本は悲鳴のような声を上げて教室から逃げ出した。


 教室は静まり返っている。


 生徒たちは見ていた。


 絶対的な権力者であるはずの教師が、たった一人の女子生徒の「品格」と、自分たちが作り出した「空気」の前に、無様にひれ伏す姿を。


 私は深く一礼した。


「授業の腰を折って申し訳ありません。ごきげんよう、先生」


 私は席に戻り、すっかり冷え切った紅茶(紙コップ)を一口啜った。


 渋みが増してまずい。けれど、胸のつかえは取れたわ。




 ◇◆◇




 休み時間。

 私は次の一手を打つことにした。


 ミカ。


 麗奈の金魚の糞として振る舞っている彼女。


 先ほどから彼女は、何度も自分の唇を気にしている。


 彼女が一人でトイレの鏡に向かい、リップを塗り直している時を見計らい、私は隣に立った。


 手にはハンカチ。鏡越しに彼女と目が合う。


「っ、な、何よ葉山……」


「その色、浮いておりますわよ」


 私は彼女の唇を指差した。


 流行りのショッキングピンク。


 色白ブルーベースの麗奈には似合うが、黄みイエローベースのミカには、肌をくすませるだけの悪手だ。


「はあ? これ麗奈とお揃いなんだけど! 文句あんの?」


「お揃い……ふふ、なるほど。忠誠心の現れとしては立派ですけれど、美しさの観点からは落第点ね」


「なっ……!」


「貴女、ご自身のお顔立ちをよくご覧になったことはあって? 貴女の瞳の色、骨格……とても理知的で素敵ですわ。なのに、なぜ麗奈様の『劣化コピー』に甘んじていらっしゃるの?」


 ミカの手が止まる。


 図星を突かれた顔だ。


 私は一歩近づき、彼女の耳元で悪魔のように、あるいは天使のように囁く。


「貴女の肌色には、もっと深みのあるオータムカラー……落ち着いたローズレッドがお似合いよ」


「髪も、そんな風に無理に巻かずに、タイトにまとめた方が知的に見えますわ。……本当は、貴女も気づいているのでしょう? 自分が『引き立て役』として消費されていることに」


「そ、そんなこと……」


「先ほどの教室での空気、感じましたでしょう? 麗奈様の権威など、私が少し風を吹かせば崩れ去る砂の城のようなもの。……いつまで、沈みゆく船にしがみついているおつもり?」


「輝くのに、誰かの許可はいりませんわ。必要なのは、自分自身を知る『教養』と、一歩踏み出す『誇り』だけ」


 言い捨てて、私はトイレを出た。


 去り際、鏡越しに彼女を見る。


 彼女は震える手でピンクのルージュを拭い取り、自身の素の唇を見つめていた。


 その瞳に、小さな反逆の火が灯ったのを確認し、私は静かに微笑んだ。


 種は蒔いた。あとはゆるりと、芽吹くのを待つだけ。




 ◇◆◇




 放課後。


 私は教室に残っていた。


 麗奈たちは早々にカラオケへと消えていったが、教室にはまだ数名の生徒が残っている。


 その中の一人、窓際で本を読んでいる図書委員の女子生徒、佐々木さん。


 分厚い眼鏡に、ボサボサの黒髪。


 背中を丸めて気配を消している、かつての私(葉山サクラ)のような存在。


 けれど、彼女が読んでいる本のタイトルを見て、私は思わず口元を緩めた。


『ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝』。


 そして、その傍らには、スケッチブックが置かれていた。


 チラリと見えたページには、繊細かつ攻撃的なパンクファッションのデザイン画。


(あら……ただの大人しい子かと思っていたけれど)


「ごきげんよう、佐々木様」


 私が声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、本を隠そうとした。


「は、葉山、さん……?」


「素敵なご趣味をお持ちですのね。反骨の精神(パンク)、嫌いではありませんわ」


「え……?」


「ふふ、驚かないで。……そのスケッチ、貴女が描いたの?」


 私がスケッチブックを覗き込むと、そこには驚くほど精緻なドレスのデザイン画が描かれていた。


 ただの模写ではない。


 構造線やダーツの位置まで細かく計算された、プロ顔負けの「設計図」だ。


 特に、ウエストを締め上げるボーンの配置や、ドレープの構造理解が素晴らしい。


「あ、見ないで……! 私、パタンナーになりたくて……でも、手芸部でも『趣味が暗い』って笑われて、幽霊部員だし……私なんかが、無理だって……」


 彼女はスケッチブックを抱きしめて俯く。


 私はその手を優しく、しかし力強く引いた。


「謙遜は美徳ではありませんわ。それはただの自己防衛。……この線の美しさ、私には分かります。貴女には才能がある。布の重力を計算し、肉体を美しく補正する『建築的』な目をお持ちね」


「え……?」


「ねえ、少しお話ししませんこと? 美しいものについて。……どうして、貴女のような静かな方が、これほど攻撃的な『パンク』に惹かれるのかしら?」


 私の問いに、佐々木さんは一瞬言葉を詰まらせ、それから小さな声で、けれどはっきりと答えた。


「……嫌い、だから」


「嫌い?」


「この学校の、上の人の言うことが絶対だとか、空気を読めとか……そういう、見えないルールみたいなのが、大っ嫌いだから。……だから、古い価値観を壊して、新しい美しさを作ったヴィヴィアンが、好きなの」


 佐々木さんの眼鏡の奥が、強く光った気がした。


 私は思わず微笑んでしまった。


 素晴らしい。


 彼女の根底にあるのは、私と同じ「誇り高き反逆心」だ。


 私は隣の席を引いて座った。


 最初は警戒していた彼女だが、私が前世の記憶に基づいたリアルすぎる貴族のドレス事情――特にコルセットによる骨格矯正や、クリノリンの構造について語り始めると、目を輝かせて食いついてきた。


「す、すごい……葉山さん、なんでそんなに詳しいの……? まるで本物を見てきたみたい……」


「昔取った杵柄、といったところかしら。……それより佐々木様」


私は彼女の眼鏡をそっと外し、長い前髪を指先でかき上げた。


 私の指が頬に触れると、彼女がビクッと身を震わせる。


「貴女のその美しい黒髪、隠していては勿体ないですわ」


耳元で囁きながら、懐から取り出したシルクのリボンで、彼女の髪をハーフアップに結い上げた。


 至近距離で見つめ合う形になり、彼女の顔がみるみる林檎のように赤く染まっていく。


 前髪を少し分けるだけで、隠されていた大きな瞳が露わになる。


「え、あ……」


 彼女が手鏡を見る。


 そこには、地味な図書委員ではなく、文学少女の如き儚げな美少女が映っていた。


「姿勢を正して。顎を引いて。……ええ、とても素敵よ。ダイヤモンドは、磨かなければただの石ころですもの」


「……これが……私……」


「人は、少しの努力で輝きを放てるのです。あとは、その努力を続けていく勇気さえあれば」


「……葉山さん……」





 ◇◆◇




 いつしか私の周りには、クラスのカースト下位にいた「目立たない生徒たち」の輪ができていた。


 私は彼女たち一人一人の個性を見抜き、アドバイスを与え、肯定する。


 夕暮れの教室。


 西日が差し込む中、私は机の中央で紅茶を啜る。


 その周りを囲む少女たちの目は、もう死んでいない。


 教室のドアから、忘れ物を取りに戻ってきたらしい麗奈が、呆然とこちらを見ているのが見えた。


 かつての自分が支配していたはずの教室が、知らない間に私の「サロン」へと塗り替えられている光景。


 さぞかし不愉快でしょうね。


 私は麗奈に向かって、優雅にティーカップ(紙コップ)を掲げ、音に出さず唇だけで告げた。


(ご・き・げ・ん・よ・う)


 私は彼女の反応を待たずに視線を外し、再び生徒たちの輪へと向き直った。


「それで佐々木様、先ほどのドレスの話の続きですけれど……貴女のその繊細な指先、素晴らしいわ。どうかしら? 次のミスコンに向けて、私の専属の仕立て屋さん(クチュリエ)になってくださらない?」


 私の提案に、佐々木さんは目を白黒させながらも、どこか誇らしげに、力強く頷いた。


 その後、私の周りには「虐げられた令嬢たち(地味な生徒)」が集うようになった。


 彼女たちを私の美学で磨き上げる日々は、さながら領地改革のようで退屈しなかったわ。





 ◇◆◇




 そして季節は巡り、秋。


 学園は「文化祭」という名の狂乱に包まれていた。


 本来なら耳を塞ぎたくなるような喧騒だけれど、今日ばかりは悪くない。


 なぜなら、ここが私の「戴冠式」の会場になるのだから。


 準備教室に向かう廊下で、私はミカとすれ違った。


 彼女は顔色が悪く、何かを思い詰めたように俯いている。その手は震えているようだった。


「……ごきげんよう、ミカ様」


 私が声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。


「は、葉山…………さん……」


「随分と顔色が優れませんわね。……迷っていらっしゃるの?」


「え……?」


「どちらの道を選ぶにせよ、後悔のないように。奴隷の鎖に繋がれたまま生きるか、自分の足で誇り高く立つか。……貴女に似合う『色』は、貴女自身が決めるものですわ」


 私はそれだけ言い残し、立ち止まらずに歩き去った。


 彼女がどうするかは、彼女自身の問題。


 私が手を貸すのはここまでだ。




 ◇◆◇




「ちょっとミカ! 何ボーッとしてんのよ! ジュース買ってきてって言ったでしょ!」


 物陰から様子を伺うと、麗奈はパイプ椅子にふんぞり返り、ミカを見下ろしていた。


 そして、ミカの手には銀色のハサミが握らされていた。


「ねえ、そのハサミでさ、ちょっとやってきてよ。葉山のドレス」


「え……? でも、そんなこと……」


「はあ? あんた私の言うこと聞けないわけ? 誰のおかげでグループにいられると思ってんの? ……使えねぇやつ」


 ミカはハサミを握りしめ、ガタガタと震えている。


 その脳裏に、先ほどの私の言葉が過っているのが見て取れた。


「……いやだ」


 蚊の鳴くような声。


「あ? 何?」


「いやだ……そんなこと、できない!」


 ミカは叫び、ハサミを床に投げ捨てた。


 金属音が廊下に響く。


「なっ……! あんた、逆らう気!? 今後どうなるかわかってんの!?」


「もういい! 麗奈(あんた)のパシリなんて、もううんざり!」


 ミカは涙目でそう叫ぶと、脱兎のごとく走り去っていった。


 取り残された麗奈は、顔を真っ赤にして地団駄を踏んでいる。


「むかつく! ムカつくムカつくムカつく! ……あの女、私の言うことを聞かないなんて……!」


 麗奈は床に落ちたハサミを乱暴に拾い上げた。


 その瞳に、暗い嫉妬の炎が燃え上がる。


 葉山サクラ。かつての地味なパシリ。


 それなのに、最近の彼女は妙に堂々としていて、クラスの注目を集め始めている。


 自分が主役であるはずの舞台を、じわじわと侵食されている感覚。


 それが、麗奈には許せなかった。


「……マジ、ムカつく。見てなよ、葉山……あんたの晴れ舞台、台無しにしてやるから! ゴミはゴミらしく、惨めに泣き叫んでろ!」




 ◇◆◇




 体育館の特設ステージで開催されるメインイベント、『ミス・コンテスト』。


 今年の最有力候補は、もちろん麗奈(レナ)


 そして、彼女への対抗馬として選出されたのが、私、葉山サクラである。


「……あら」


 本番三十分前。


 体育館裏の倉庫、臨時控室に入った私は、そこで待ち受けていた惨状に、小さく声を漏らした。


 ここは普段、演劇部や運動部が不要物を押し込んでいる物置だ。


 埃っぽい空気に、乱雑に積まれたパイプ椅子や大道具の残骸。


 その一角にあるパイプ椅子の上に置かれていた私のドレス――佐々木さんが夜なべして縫ってくれた、シンプルな真紅のドレスが、見るも無残な姿になっていた。


 スカート部分はズタズタに切り裂かれ、背中のファスナーは壊されている。


 鋭利な刃物で、何度も、執拗に切りつけた跡だ。


「ひっ……! 葉山さん、これ……!」


 付き添いの佐々木さんが悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。


「ど、どうしよう……私がトイレに行っている間に……! 鍵はかけたはずなのに……!」


 犯人は明白だ。


 切り口から滲み出るような悪意。焦りと嫉妬に狂った、哀れな小動物の顔が透けて見えるようね。


 ふらり、と私の視界が揺らいだ。


 壁に手をついて身体を支える。


 連日の練習と、この「葉山サクラ」の貧弱な体質のせいだ。


 ここ数日、本番の緊張でまともに食事も喉を通らなかった。


 眩暈がする。


 血糖値が下がり、手足が冷たい。


 今の私は、立っているだけで精一杯だ。


 ……ドレスさえあれば、コルセットのように体を支えられたのに。


 すべてが計算通りにはいかないものね。


「こんなボロ切れじゃ、もう出られないよ……! 棄権するしか……ごめん、ごめんなさい……! 私がもっとちゃんと管理してれば……!」


 佐々木さんが涙を流す。


 自分の作品を壊された悲しみよりも、私の晴れ舞台を台無しにされたことへの謝罪。


 なんてけなげで、愛おしい忠誠心。


「謝る必要などありませんわ。……佐々木様。ドレスが着られないなら、作り直(リメイク)してしまえばいいだけのことよ」


 私は呼吸を整え、機材置き場へと視線を向けた。


 倒れそうな体を、精神力だけで繋ぎ止める。


 ――負けてたまるものですか。


 こんな安い悪意に屈するほど、私の誇りは安くない。


「佐々木様、そこの黒い布を持ってきて。演劇部が捨てた『遮光カーテン』の余りね。それと、工具箱にある丈夫な革ベルトも」


「えっ!? カーテン!? あんな分厚くて重い布、葉山さんの今の体力じゃ支えられないよ! 重さでずり落ちちゃう!」


「ええ、だからこそ『構造』で支えるの。……貴女が持っている『工具箱』にあるカッターと、大量の安全ピン。それから、その革ベルトを出して」


 佐々木さんが目を見開く。


 彼女は、自分好みのゴシック衣装を作るため、普段から大量の安全ピンや金具を持ち歩いていたのだ。


「佐々木様、このベルトを私の腰にきつく巻いて。……もっときつく。息が止まるくらいに」


 私は腰骨にベルトを食い込ませ、それを土台アンカーにした。


 肋骨を締め上げる痛みが、逆に意識を鮮明にする。


「このベルトに、切り裂いたカーテンを安全ピンで固定するの。布の重みを肩ではなく、腰と骨盤で受け止める。ベルトを芯材にして、布地で即席のコルセットを作るのよ。……これなら、今の私の筋肉でも支えられるわ」


 かつてまとった儀礼用のローブや鉄のコルセットに比べれば、布の重さなど羽のようなもの。


 重いのは物理的な質量ではなく、そこに込める『覚悟』よ。


 そう、これは衣装であり、私の体を支える外骨格(アーマー)だ。


 切り裂かれた赤いドレスをインナーにし、その上から黒いカーテンを巻き付ける。


「佐々木様、ここを留めて。安全ピンで」


「でも……安全ピンなんて……無作法じゃ……」


「いいえ。これは『牙』よ」


 私は一本の安全ピンを指先で弾いた。


 かつて、領地の貧民街で見たことがある。


 貴族に抗い、自由を叫んだ若者たちが、ありあわせの金属で服を飾っていた姿を。


 あの熱量は、どんな宝石よりも激しく、美しかった。


「隠さなくていいわ。ピンを見せるの。等間隔に、スタッズ()のように打ち込んで。無秩序な暴力に対する、秩序ある反逆の証として」


 佐々木さんが息を呑む。


 しかし、次の瞬間、彼女の眼鏡の奥の瞳に、職人(アルチザン)の火が灯った。


 敬愛するヴィヴィアン・ウエストウッドの精神――「パンク」の真髄を、彼女は直感的に理解したのだ。


「……なるほど。破壊と構築(デコンストラクション)。……葉山さん、こっちを向いて。このドレープ、ただ留めるだけじゃ重すぎる。ここをワイヤーで吊り上げて、下の赤い生地を覗かせれば……!」


 彼女の手が高速で動く。


 私の指示を超え、彼女自身の感性が、ただのゴミだったカーテンを「衣装」へと変貌させていく。


 彼女の才能が爆発して、人としての輝きがより一層増していくのが分かった。


 安全ピンが布を貫くたびに、私の背筋がシャンと伸びる。


 締め上げられた布地とベルトが、震える私の背骨を物理的に補強していく。


 痛いほどに締め付けられた腰。


 だが、その痛みが「私はここに立っている」という証。


「……すごい。遮光カーテンの重みが、まるで高級なベルベットみたいに見える……。闇の女王様みたい……」


「ふふ。上出来よ、私の仕立て屋さん(クチュリエ)


「……えへへ」


 佐々木さんは照れくさそうに笑った。


 私は、完成した姿を鏡で見る。


 銀色の安全ピンが、黒い布地の上で宝石のように鋭い光を放つ。


 赤いドレスの裂け目からは、黒いカーテンのレイヤーが覗く。


 まるで傷口から流れる鮮血と、それを包み込む闇のように。


 それは、傷つけられたことを隠すのではなく、傷さえも攻撃的な装飾へと昇華させた「戦闘服(ドレス)」だった。


 何より、この服が私を支えている。


 けれど、まだ足りない。


 視界が少し揺れる。


 物理的な補強はできたけれど、この重いドレスを着てランウェイを歩くための、内側からのエネルギーが。


「佐々木様。……チョコレート、持っていて?」


「え? あ、うん。疲れた時用に……」


 佐々木さんがポケットから、溶けかけたブロックチョコレートを取り出した。


「頂くわ」


 私は包み紙を剥き、それを口の中に放り込んだ。


 強烈な甘さが舌の上で広がる。


 砂糖とカカオの塊。


 血糖値が急上昇し、脳に直接エネルギーが叩き込まれる感覚。


 ――動ける。


 震えが止まる。体温が戻ってくる。


 私は鏡の中の自分――青白い顔色で、しかし瞳だけが爛々と燃えている自分に微笑みかけた。


 さあ、参りましょうか。




 ◇◆◇




 体育館は熱気に包まれていた。


 スポットライトがステージを照らす。


「エントリーナンバー1番! 昨年のクイーン、麗奈ちゃんの登場です!」


 大歓声の中、ステージに現れた麗奈は、露出の高いピンクのミニドレスを纏い、愛想よく手を振った。


 しかし、その笑顔はどこか硬い。


 私の不在を確認しようと、キョロキョロと舞台袖を気にしている。


 MCが時間を稼ぐ。


「おや? 次の葉山さんがまだのようですね……。トラブルでしょうか?」


 麗奈がマイクを奪うようにして口を開く。


「あらあ、残念ねぇ。葉山さん、きっとプレッシャーに耐えられなくて逃げちゃったのよ。……それとも、何か『事故』でもあったのかしら?」


 会場に「逃げたのか?」という嘲笑の空気が広がる。


 麗奈の口元が歪む。勝利を確信した、醜い笑顔。



「おっと、姿が見えました! では、続きまして、エントリーナンバー5番! 葉山サクラさんの登場です!」


 暗転したステージ。


 静寂の中、ヒールが床を叩く、カツ、カツ、という硬質な音だけが響く。


 そして、スポットライトが一点を射抜いた。


「…………え?」


 誰かが呟いた。


 歓声は上がらなかった。


 ただ、異様な「沈黙」が会場を支配した。


 そこに立っていたのは、真紅の布地と、漆黒のドレープのコントラスト。


 無数に打ち込まれた安全ピンの金属的な輝きが、星屑のように、あるいは棘のようにキラキラと鋭く煌めいている。


 本来は光を遮るためのカーテン生地が、スポットライトの下では光を吸い込むような深いマットブラックを演出し、最高級のベルベットのような重厚感を醸し出していた。


 破壊と再生のアート。


 まるでパリ・コレクションのランウェイから抜け出してきたかのような、エレガントなパンク・ファッション。


 生徒たちは、目の前の光景を処理しきれずにいた。


 なんだあれは。


 目が離せない。


「……ごきげんよう、みなさま(民衆)


 マイクを通さずとも通る、凛とした声。


 私はゆっくりと、ランウェイを歩き出した。


 媚びるような笑顔はない。


 手を振ることもしない。


 ただ、顎を上げ、客席の一人一人を見下ろすように視線を流すだけ。


 腰に巻いたベルトと、コルセット代わりに締め上げた黒布が、私の背筋を極限まで美しく見せている。


 直前に摂取した高カロリーのチョコレートが、私の血液を沸騰させ、四肢に力をみなぎらせている。


 その構造と熱量に支えられ、私は重力を忘れたように歩を進める。


 観客の視線が、私の動きに釘付けになる。


 ざわめきすら起きない。


 皆が、息をのみ、魅入る。


「可愛い」ではない。


「美しい」でも足りない。


 ただ「圧倒的」な暴力的なまでの存在感。


 ステージの中央で、私は足を止めた。


 舞台袖で勝ち誇った顔をしていた麗奈が、幽霊でも見たかのように顔を引きつらせてへたり込んでいるのが見えた。


「な……なんで……ボロボロのはずじゃ……」


 彼女の目には、私が着ている「黒い布」が何であるか、わかっているはずだ。


 自分が破壊したドレスが、より美しく生まれ変わって目の前に立っている。


 その事実に、彼女のプライドは粉々に砕け散った。


 MCの男子生徒が、震える声で質問を投げかけてくる。


「え、えーと……葉山さん。そのドレス……すごい迫力ですが、コンセプトは?」


 私はマイクを受け取り、静かに答えた。


「『誇り』ですわ」


「ほ、誇り……?」


「ええ。どれほど卑劣な爪で切り裂かれようとも、私の品格までは傷つけられない。……真の美しさとは、纏う布の値段ではなく、困難に立ち向かう魂の輝きによって決まるものですから」


 会場にいる誰もが言葉を失っていた。


 その沈黙を破ったのは、一つの拍手だった。


 パチ、パチ、パチ。


 舞台の最前列近く。


 そこに、ミカが立っていた。


 赤く腫らした目。けれど、その瞳には強い光が宿っている。


 彼女はまっすぐに私を見つめて、手を叩き続けていた。


 その唇は、私が勧めた落ち着いたローズレッドに彩られていた。


 似合っているわ、ミカ様。


 貴女はもう、誰かの劣化コピーではない。自分の色を見つけた一人の少女よ。


 自分で、選んだのね。進む道を。


 その拍手は波紋のように広がった。


 佐々木さんが、クラスメイトたちが、教壇にしがみついていたはずの坂本先生でさえも呆然と口を開けて、やがて夢中になって手を叩き始めた。


 そして会場全体が、爆発的な拍手喝采に包まれる。


 それは、麗奈の時に起きたような黄色い歓声ではない。


 地鳴りのような、心からの感嘆と敬意のこもった熱狂。


 涙を流している女子生徒さえいる。私の姿に、何か心を揺さぶられたのだろう。


 私は歓声の中、優雅に一礼(カーテシー)をした。


 かつて断頭台の前でさえ崩さなかった、誇り高き礼節をもって。


 舞台袖を見る。


 そこには、敗北を受け入れられず、髪を振り乱して地団駄を踏む麗奈の姿があった。


「嘘よ……あんなに切り裂いてやったのに! なんで着られるのよぉぉぉ!!」


 そのヒステリックな絶叫は、静まり返った会場によく響いた。


 自ら犯行を暴露した彼女に、観客席からサーッと熱が引いていく音が聞こえる。


「え……今、『切り裂いた』って言った?」


「うわ、マジで? ライバルの衣装、壊してたの?」


「最低……」


 スポットライトの当たる私とは対照的に、薄暗い会場からは軽蔑の声が漏れ聞こえてくる。


 麗奈が思わず、「しまった」という顔をして青ざめる。


「ていうか、葉山のあの黒いドレス見た後だとさ……麗奈のピンクのやつ、なんか安っぽくね?」


「わかる、性格の悪さが顔に出てるっていうか」


「格が違いすぎでしょ」


 これまで彼女に向けられていた憧れの眼差しは、いまや汚物を見るような軽蔑と、憐れみへと変わっていた。


 その視線に耐えきれず、麗奈は「きゃあああ!」と悲鳴を上げ、その場から逃げ出した。


 可哀想に。


 自分が壊したドレスが、私を最も輝かせる最高のスパイスになるなんて、想像もできなかったのでしょうね。




 ――結果発表の時間。


 ドラムロールが鳴り響く必要もなかった。


「今年のミス・桜ヶ丘グランプリは……葉山サクラさんです!!」


 紙吹雪が舞う中、生徒会長からティアラを受け取る。


 スポットライトが私を包み込む。


「……ふふ、そう悪くない眺めね」


 私はティアラを頭上に掲げ、眩しそうに目を細めた。


 けれど、これはまだ始まりに過ぎない。


 私の野望は、こんな小さな学園のミスコンで終わるほど安くはないのだから。




 ◇◆◇



「葉山さん! 凄かった! すごく綺麗だったよ!」


「佐々木様。私、決めました」


「えっ……?」


「この国……いいえ、パリを獲りにいきますわよ。まずは……最高級の赤身肉フィレを用意させなくては」


「覚悟はよろしくて?」


「わ、私もっ!?」


「当然でしょう? あなたは私の、専属の仕立て屋(クチュリエ)なのですから」


「ふふ。私は、欲張りなんですの。貴女のこと、もう離しませんわよ?」


「え……ええぇぇっ!?」


 顔を赤らめる彼女を見ながら、私はドレスの下の、まだ細い腕をさすった。


 まだ少し、ドレスの重みで痛む。


 けれど、筋肉痛上等。


 元悪役令嬢の快進撃は、ここからが本番なのだから。

 


 さあ、世界を私色のオートクチュールに染め上げてあげる!

ここまでお読みいただきありがとうございました!


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『その聖水、ただの麻薬ですよね?』

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