第五十九話
ぷつりと、何かが切れた気がした。水の中に突き落とされ、奥底に沈んだような不思議な感覚。
音は聞こえるのに、どこか遠く感じられる。視界も変わらないのに、まるで膜を通しているかのような違和感があった。
(なんだ……これ……?)
そう言おうとしても、声が発せない。触覚も嗅覚もまるで消え失せたみてぇだった。
ノア様の手を取り、抱き寄せる"何か"。愛を囁く、あたしのものだったはずの声。
それとともに流れ込んでくる――ジュリアンナの記憶の断片。
(……っ!)
女としてのあるべき姿縛られる苦悩
ノア様に選ばれなければという焦燥
ガブリエルにむけた感情の否定
そして、禁術への恐怖と葛藤と……希望。
脳が焼き切れそうな程の感情。流れ込んでくるものに、脳が侵されていく。
全部、仕組まれてたのか……?
想像もしていなかったその事実。落ち着きたくても、息を吐くことも、舌を打つこともできなくて。
ジュリアンナの行動が映画みてぇに流れていく。あたしにできるのは、ただそれを見ることだけだった。
* *
あれからだいぶ経ったな。なんとか落ち着いてきたが……どうなってんだよ、これ。
ジュリアンナはあの後ノア様と別れ、辺境警備隊の宿舎へ向かっていた。
話し方も、癖も。あたしそっくりに寄せてやがる。ノア様もエイダも気付いてねぇ。状況が悪すぎる。
どうにかして、表にでられねぇのか……?
「……ジュリ。話は終わったのか?」
背中に投げられた聞きなれた低音に、どきりと鼓動が跳ねた気がした。
ジュリアンナはくるりと振り向く。その視界に入ったこちらへ歩いてくるヘンリーの姿。その表情はひどく強張っている気がして。
「先生! あぁ、無事にな。ノア様に選んでもらえた」
ジュリアンナがそう答えても、ヘンリーはただ押し黙っている。
「なんだよ、そんなにこっち見て」
「お前は……誰だ?」
びくりと、視界が跳ねた。
「何言ってんだよ、先生。半年も一緒にいたのにそれはねぇだろ」
……まさか、気付いたのか?
見た目も、声も全く同じ。わかるはずなんてねぇ。だけど、ヘンリーなら……あたしを一番に見てくれたこいつなら。
(ヘンリー……気付いてくれ……! こいつはあたしじゃない。ジュリアンナなんだ……!)
心の中でそう叫ぶ。聞こえないことはわかってる。でも、そうせずにはいられなかった。
探るようなヘンリーの視線がジュリアンナに突き刺さる。しばしの沈黙のあと、ヘンリーは軽く息を吐いた。
「……そうか」
ヘンリーは静かにそういって、目を逸らす。
……まあ、そうだよな。ジュリアンナだって見破るなんて無理だ。そう、わかってるのに。
あたしは流れる会話を、呆然と聴くことしかできなかった。
「何変なこと言ってんだよ、先生」
「すまない。少し、気になってな。……今後の方針に関して、一週間後ルーバンを交えて話したい。時間はあるか?」
「あぁ、かまわねぇよ。だが、辺境領の防御魔法はほぼ完成したろ? それにあたしが王妃になったら、今後関われることもほぼねぇと思うが」
あたしなら絶対言わないセリフだな。王妃になったらむしろ仕事増えんだろ。ここで、気付いてくれねぇかな……。
「復興に関して、まだ話さなければいけないことがある。今後王妃になるにしても知っておいた方がいいだろう」
淡々と答えるヘンリー。淡い期待が、打ち砕かれていく。
「……それもそうだな」
「では七日後の12時に、警備隊庁舎の第四会議室に来てくれ」
「先生の執務室じゃなくていいのか?」
「……あぁ。そちらの方が、都合がいい」
「わかった。……じゃあ、またな」
ジュリアンナはそのままヘンリーに背を向け歩き出す。
……このまま誰にも気づかれず、こいつの人生を眺め続けるしかねぇのかよ。
そんな絶望が、延々と胸の中で渦巻いていた。




