第四十三話
なんか……疲れた……。
あたしはゆっくりと軍部の廊下を歩いていた。その足取りはどこか重たい。
会議の後ガブリエルに茶に誘われ、ヘンリーに話したいって言われで本当に疲れた。特にヘンリー、急に積極的になりすぎだろ。
……っていやいやいや、なんであたしはそれを受け入れてるんだ? あたしが好きなのはノア様。そう、ノア様だ。揺らぐんじゃねぇ。
大きく息を吐いて右手で髪をかきあげる。なんとなく、頭が痛かった。
「あの……」
後ろからかけられた声に、あたしはぴくりと体を震わせる。
いつもなら、ルーバンが出てくるところだ。だがこの控えめな声は……。
後ろを見るとそこには――予想通り、ノア様が立っていた。
「ノア様……? どうしたんだ?」
「えっと……よろしければ、お茶でもいかがですか? 時間があればで良いのですが」
目を逸らしながら控えめにそう提案するノア様。ほんのりとあからんだ頬と震える長いまつ毛が繊細さを際立たせている。
普段だったら嬉しいその誘い。だが……
一瞬思い巡らせて……あたしは、昨日のルーバンの言葉を思い出した。
『今を見ることが、1番の近道ですよ』
今疲れてんのは自分の気持ちがはっきりしねぇからだ。それならここで蹴りをつけねぇと、結局先延ばしにするだけになる。
あたしはふぅ、と息を吐き、不安げにこちらを見つめるノア様と向き合った。
「ノア様から誘ってくれるなんて珍しいな。あたしがお前の誘いを断るわけねぇだろ?」
いつも通りに口の端を吊り上げると、ノア様はほっとした様子で胸に手を当てた。
「そう、ですよね……。もう準備はすんでいます。では、こちらへ」
ノア様はすっと手を出そうとして――すぐに、ぴたりと手を止めた。
「あっ……す、すみません」
おそらく、いつもお茶をする時の癖なんだろう。……エイダと一緒に、お茶をする時の。
あたしはぐっとその手を取って、ノア様の隣へ一歩踏み出す。
「エスコート、してくれるんだろ?」
ノア様はその声に目を丸くしてから、頬を赤く染めてこくりと静かに頷いた。
「ジュリが……それで、いいなら」
優しい手が、そっとあたしの手を包み込む。他の2人とは違う繊細な手。
「ダメなわけねぇだろ。……あたしが好きなのは、ノア様なんだから」
ノア様はその言葉にぴくりと肩を揺らしてから、困ったように眉をひそめた。
「……本当に、私でいいのですか?」
不安げに揺れる声。その声に、胸の奥がざわついた。
「どうしたんだよ急に」
「先ほどの会議の様子で、なんとなく、現状はわかりました。……ヘンリーもガブリエルも、おそらく貴女に惹かれている。そして……貴女自身も、また揺れているのでしょう」
鋭いその指摘に、あたしは無意識に息を呑む。
「……やはり、そうなのですね。私は貴女という婚約者がありながら、エイダの事を選びました。そんな私に……貴女に好かれる資格など、あるのでしょうか」
「当たり前だろ。あたしが好きなのは……最初から、ノア様だけで……」
そのはずなのに……何故か、喉が詰まってそれ以上言葉が出てこない。ノア様に触れた指先が、震えて止まらない。
ノア様は軽く唇を噛んで、寂しそうに目を伏せる。
「当然です。私は結局、変わる貴女を見ていることしかできなかった。この四ヶ月で貴女はどんどん強くなって、眩しくなっていく。私は貴女に守られて、貴女の強さを見ているだけで……婚約者らしいことは、結局何も出来ていません」
「それは……」
否定したかった。だけど、あたしは何も言えなくて。
「今更卑怯かもしれませんが……それでも私は……」
ノア様はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
「……いえ、なんでもありません」
「……黙るなよ、ノア様。お互い仮面をかぶるのはやめにしようぜって、あたしは最初に言っただろ?」
ノア様の正面に回って取った手をぐっと引き寄せる。
長いまつ毛に縁取られた青い瞳が大きく見開かれて揺れた。
「確かにあたしは揺れてる。でも、ノア様が少しでもあたしを欲しいと思ってくれてるなら……ここから、またお互いを知ればいい」
「ジュリ……」
か細い声が、鼓膜を揺らす。
「お前はどうしたいんだ、ノア様」
「私、は……」
ノア様は瞳を揺らし、喉を上下させ……あたしの手を、強く取る。
「貴女のことを……もっと、知りたいです。後悔、しないように」
初めて聞く力強い声に、あたしはふっと表情を和らげる。
「上等だ。半年までは、あと二ヶ月もある。お互いゆっくりと……どうしたいか、考えてこうぜ」
「……はい。よろしく、お願いします」
ふわりと微笑むノア様。その優しい声が、じんわりと胸を満たしていく。
どうしたいのかは、まだわからない。でも、揺れるのも……悪いことじゃねえのかもしれねぇ。
あたしは初めて、自分の不安定さを許せたような、そんな気がした。




