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第三十七話 執着

抱き寄せられた体、伝わってくる体温。

その全てがどこか現実離れしているのに。


体を揺らす程大きな自身の鼓動が、これが現実だということを痛いほどに表していた。


「誰にも渡さない。ジュリは俺のものだ」


どこまでも深い執着をたたえた甘い声が、あたしの鼓膜をゼロ距離で揺らす。あまりの衝撃に、ぐらりと世界が揺れそうになる。


「何、言って……」


ガブリエルが好きなのは、あたしじゃない――はずだった。

だから意識する必要なんてない。こいつはただ昔の幻想に囚われてるだけなんだから。


そう、思ってたのに。


あたしの肩に置かれたガブリエルの頭の重みが、ゆっくりと離れていく。


「ジュリ……」


視界を埋める真剣なガブリエルの表情。そのダークグリーンの瞳には、他の誰でもないあたしだけが映っていて。


こいつが見てるのは、あたしなんだ。過去のジュリアンナじゃない、今の、あたし。


ゆっくりと近づく長いまつ毛。伏せられていく、熱っぽい瞳。


あたしだけを見つめる、ガブリエルの美しい瞳。


吸い込まれてしまいそうなそれから、あたしは目を逸らすことができなくて。


そっと、唇が重なりかけた――その瞬間。


脳裏によぎった紫色。それがあたしの心を急激に現実へと引き戻す。


「っやめてくれ……!」


喉に必死に力を入れて、声を絞り出す。唇を押し除けた手は、カタカタと弱々しく震えていた。


あたしが好きなのは、ノア様だ。そのはずなのに。


なんで……ヘンリーの顔が出てくるんだよ。


月明かりに照らされたあの赤らんだ頬が、潤んだ瞳が。あいつに、重なって見えるなんて。


顔を伏せ、必死に短く息をする。流行る鼓動があたしの思考をかき乱す。


「あたしが好きなのは……ノア様だ。ノア様だけなんだ……!」


自分に言い聞かせるように、あたしは何度もそう繰り返す。


ガブリエルは口元に触れたあたしの手を取り、その手首にすっと頬をすり寄せた。


その顔に浮かぶ、何処までも薄暗い笑み。その微笑みにぞわりと背筋に電流が走った。


「それでも俺はジュリを愛してる。最後にジュリの隣に立つのは俺だ。他の誰にも、ジュリの隣は譲らない」


手首を掴む手が、ぐっと絞められる。


「どんな手を使っても、必ず手に入れる」


獲物を睨む肉食獣のような鋭い眼光が、あたしの瞳に突き刺さる。


その圧に押されるように、どっと胸の鼓動が跳ねた。


あたしが好きなのは、ノア様のはずだろ……?


今までずっと、ノア様のために生きてきた。あたしの強さを認めてくれるのはノア様しかいない。そんなノア様の隣に立ちたい。そう思って生きてきたはずなのに。


なんであたしの心臓は、こんなにうるせぇんだよ……!


あたしだってノア様に似たような事を言ったんだ。なのにあたしだけ拒むなんてフェアじゃねぇ。


わかってるのに、言葉が出てこない。ただただ、ガブリエルの姿を見ることしかできない。


ガブリエルはあたしの言葉に目元を緩ませ、そのまま手の甲にキスを落とす。


「……逃げるなよ、ジュリ」


手の甲に伝わる柔らかな唇の感触と、何処までも固いその決意。


相反するその二つに、心がざわりと乱れ出す。

あたしは逃げるようなヘタレじゃねぇ。そう言ってやりたいのに。


込み上げてくる自己嫌悪と不安感が、言葉を掻き消したようで。


その圧倒的な熱量に飲み込まれかけたその時――こつりという微かな靴音と共に、ふわりと柔らかな風が吹いた。


「おや、先程から反応がないので何事かと思ったのですが……お邪魔してしまいましたか?」


風にのって届いたルーバンの優しい声が、澱んだ空気をさらりと撫でる。


こいつ、いつの間に……!?


気配を感じさせないその登場にあたしは大きく目を見開いた。


「そう思うならあとにしてくれ」


忌々しげに眉をひそめるガブリエル。一方ルーバンは肩をすくめ、いつも通りの曖昧な笑みを浮かべる。


「そういうわけには参りません。ヘンリー様より、お二人を無事に送り届けるよう仰せつかっております故」


「ジュリはあとで俺が馬車まで連れていく。もうボスもいないんだ、わざわざ待つ必要ないだろ」


ルーバンはガブリエルの言葉に軽く目を見開いて、わざとらしく口元に手を当てた。


「ジュリ、ですか……。それならばなおさら引けませんね。魔物に襲われる可能性は低いですが、夜は危険がつきものです」


口元に讃えられた微笑みとは対照的な、どこまでも冷たい赤い目。その視線はあたしの手首を掴むガブリエルへと注がれている。


「狼が出ないとも限りません。どうかご理解いただけますと」


ガブリエルは不満そうに息を吐いてから、そっとあたしの耳元に唇を寄せた。


「俺は本気だ。それだけは、忘れないでくれ」


腕から離れていく力強い手に、あたしはぴくりと体を震わせる。


どうやって忘れろっていうんだよ、あんなの……。


心の中で舌打ちし、逆側の手でゆっくりと掴まれていた腕をさする。触れられていた部分が疼くような気がして、どうしても心が落ち着かなかった。


あたしはふらふらとおぼつかない足取りで、出口と思わしき方向へと歩き出す。そうでもしないと、熱に浮かされて脳が溶けてしまいそうだった。


「……悪りぃな、ルーバン」


ルーバンの横を通り過ぎるその瞬間、あたしはぼそりとそう呟いた。やつは僅かに目を見開いてから、どこかで既視感のある軽妙な笑みを浮かべる。


「いえ、私は何も。……強すぎる光は様々な方の視界を奪います。あるものは焦がされ、あるものは盲目となる。どうか、ご留意ください」


普段なら悪態をつきたくなる遠回しなその言い方。しかし今のあたしはそれに応えるほどの気力すら持ち合わせていなかった。


あたしは……一体、どうしちまったんだ……。


ノア様だけを思っていた。ノア様だけが、私の人生だった。


その気持ちが、自負が、ガラガラと音を立てて崩れていく。


自分でもわからない感情に、揺れに、反応に。

あたしはただ、地面を見つめることしかできなかった。

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