第三十六話 ガブリエルの崩壊
ぽたりとガブリエルの手の甲に落ちた雫。それが、妙に心をざわつかせた。
「……お前、まだそんなこといってんのかよ」
あたしはため息をついてからガブリエルのすぐそばに座り、その肩に優しく手を置いた。
「守れる奴が守ればいいんだよ。男だの女だの、んなくだらねぇ事に囚われたら生きづらくて仕方ねぇだろ」
「でも……俺が男らしく近距離で戦える人間だったら、姉さんにこんな怪我させなくて済んだのに……」
メソメソと泣くガブリエル。あたしは眉をひそめ、ガシガシと頭を掻く。
「今回はお前が弓使いだから上手くいったんだろ。さっきも言ったが、あのサイズの相手に近接2人はいらねぇ。バランスってもんがあんだろうが」
「でも……」
「でもじゃねぇよ。あたしはお前がいたから勝てた。それが事実だ。お前が支援してくれなきゃ、吹っ飛ばされた時にあたしはとどめを刺されてた。お前が魔物に致命傷を与えてなかったら、あたしはあれを仕留めきれなかった。そうだろ?」
ガブリエルは肩を震わせ、あたしの言葉を聞いて頷く。
「あたしはお前に守られた。だから、お前の事を守りたいと思った。……それじゃ、ダメなのか?」
ガブリエルは肩に置かれたあたしの手をとり、それを自らの頬に寄せる。頬に触れた手に、じっとりとガブリエルの涙がにじんだ。
「姉さんはこんな情けない俺でも、男らしくなくても……良いって、言ってくれるのか……?」
濡れた瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。何処と無く熱っぽい視線に、あたしは一瞬息をのんだ。
「……当たり前だろ。情けなかろうが男らしくなかろうが、お前はお前だ、ガブリエル」
ガブリエルはダークグリーンの瞳を大きく見開く。
「誰かが作った"あるべき姿"に合わせようとして苦しむなんて、バカバカしいと思わねぇか?」
そういうレッテルはこの世に五万と存在する。あたしだってそれに囚われたことぐらいある。だが、結局息苦しいだけで、得られるもんなんて何一つとしてなかった。
どうしようもない過去を捨て去るように、あたしはハッと短く鼻で笑う。
「お前はどうしたいんだ? なぁ、ガブリエル」
短く繰り返される呼吸にあわせ、薄い唇がかすかに動く。しばらく思案してから、ガブリエルは覚悟を決めるように唇を引き結んだ。
そのまま静かに喉を鳴らしーーあたしを、ぐっと抱き寄せる。
「は……?」
腰に回された力強い腕と、服越しの硬い胸板の感触。ふわりと鼻腔をくすぐる柔らかな匂い。その全てが、あたしの理解の範囲を超えていた。
「俺はっ……もう、"あるべき姿"に囚われたくない。情けないところも全部、姉さんに受け入れてほしい……! 姉さんにっ……男として、愛してほしい……!」
「ガブリエル……?」
胸の奥底を吐き出すような、慟哭にも似たその言葉。あたしはその勢いに気圧される。
「俺、ずっと男らしくいようって、弟として姉さんを守らなきゃって、ずっと、ずっと思ってた。……でも、もう無理だ。俺は姉さんを守りたい。けどそれと同じくらい、姉さんに守ってほしい。そうやって支えあってーーー男として、姉さんの隣に立ちたい」
力強いそのセリフにどきりと鼓動が跳ねた。
「な、何言ってんだよガブリエル。お前が好きなのは"淑やか"なあたし、だろ?」
こいつが好きなのは今のあたしじゃねぇ。淑やかだった過去のジュリアンナだ。
そうわかっていても、何故か頬が熱くて。
「あたしは、もう昔みたいに振る舞うつもりは……」
「わかってる。確かに俺は前の姉さんに戻って欲しいと思ってた。変わっていく姉さんが、俺から離れていくその姿が……怖かった」
あたしの言葉を遮るように耳元で放たれる、震えたガブリエルの声。
背中に回されたその手は、カタカタと弱々しく震えていた。
「でもそれは違った。姉さんが変わったなら、俺も一緒に変わればいい。俺は姉さんが好きだ。昔から変わらないその優しさも。今の姉さんの強引さと力強さも。全部――愛してる」
抱きしめる腕にぐっと力が入る。背中に指が食い込むほどに強いその力。
「俺はもう我慢しない。型になんかはまってやらない。姉さんのことを――弟だからって、諦めたりしない」
何処までも深い闇を湛えたその声に、背筋にぞくりと悪寒が走る。なのに何故かそれが、嫌じゃなくて。
なんであたしは……こいつを、振り払えねぇんだ。
「絶対に俺のものにしてみせる。誰にも渡さない。他の誰かに取られるなんて、絶対に許せない。姉さん……いやーージュリ」
名前を呼ぶその声に、あたしはごくりと喉を鳴らす。
「俺は、お前を愛してる」
頭の中に響き渡るほど強い心臓の音が、あたしの理性をどくどくと揺らす。体が炎に飲み込まれたのかと錯覚するほどに、体が熱くて仕方なかった。
「ガブリエル……?」
酷く弱々しいその声は、虚空に吸い込まれて消えていった。




