第十三話 魔人と呼ばれた男
「かかってこいよ、デカブツ」
霞む視界の先で、クマの姿が陽炎のようにゆらめく。
あたしはそれと同時に駆け出そうと足を一歩前に踏み出しーーーそのまま体をゆらしてがくりと膝から崩れ落ちた。
音を立てて体が地面に落ちる。足に力が入らない。土を掴む指先すら、ブルブルと震えて使い物にならなかった。
クソがっ……!
その一言すら、喉に詰まって。
ドスドスと迫り来る足音、全身を揺らす衝撃。
あたしは体をこわばらせ、ぎゅっと瞼を強く閉じる。
その時だった。鋭い風を切る音が世界を薙いだのは。
……は?
その音がしたのはあたしの耳元ではない。僅かに残った力を振り絞りゆっくりと前方に視線を向ける。
見えたのは力強い背中と、ゆらりと風になびく艶やかな黒髪。
「せん、せい……?」
ヘンリーは剣についた赤い液体を払いゆっくりとこちらを振り向く。
その向こう側にみえる、事切れた魔物の姿。
まさか、今の一撃で?
その事実を認識した瞬間、目の前の男が凄まじく異質な生き物に見えた。
『魔人 ヘンリー・フォスター』
その二つ名がふっと頭をよぎる。
……これじゃ、どっちがモンスターかわかりゃしねぇな。
乾いた笑いが、喉の奥で微かに漏れた。
ヘンリーは魔道具を手に取り、静かな声で話し出す。
『負傷者一名。中級モンスター、一体撃破。』
その視線がゆっくりと私の後方にいるクマに向けられ、次の瞬間大きく見開かれた。
『……いや、2体撃破だ。』
言い直したその声は震えていて。それが如実に敵の強さを物語っていた。
『おそらく敵はこれで最後だ。俺はこのまま救護にあたる』
ヘンリーは短く報告を終えると私のそばに来て膝をつく。
あたしはそちらを向くために肘を支えにして上体を起こそうとした。
「治療する。そのまま寝ていろ」
ヘンリーは私のふくらはぎの上に手をかざす。
「治癒魔法」
そう唱えると傷が淡い緑の光に包まれみるみるうちに塞がっていった。焼けるような痛みなどまるで最初からなかったように、傷ひとつない皮膚が現れる。
戦いだけじゃなく回復もお手のもの、か。チートだな。
「ありがとな。……情けねぇ。あんなクマ一体相手にこのザマだ」
視線を落とし、ぼそりとつぶやく。
エイダだったら中級モンスターぐらい余裕で切り捨てただろう。なのにあたしは一体相手にしただけで倒れて、結局ヘンリーに助けられた。
エイダでも1人で中級を倒すまでは半年かかってた。そう考えると上出来だ。これから強くなりゃあいい。
そう考えればいいだけなのに。
胸の中で不安が黒く澱む。無力感が喉を締め、舞う土煙に目の前がじわりと滲んだ。
「情けないことなど何もない」
力強いヘンリーの声。それすらも空虚に聞こえて。
「お前は逃げなかった。それは強者にしかできない振る舞いだ」
ヘンリーは私を仰向けにし、そのまま上半身を抱えて抱き起こす。その手があたしの体にわずかに食い込んだ。
ぼやけた視界の先に見えるヘンリーの顔。その顔は、心なしか強張っていて。
「だが、次は逃げろ」
揺れるその声には、どこか悲痛さが滲んでいて。
「それは……上官命令か?」
ヘンリーはその言葉に瞳を揺らす。
「……お前の師匠として、だ」
「はっ……。なら、仕方ねぇな」
どこか含みのあるその言葉に、あたしは唇の端を吊り上げる。
相変わらず、不器用な男だな。
「お前は十分強い。何故そこまで強さを求めるんだ?」
眉をひそめそう尋ねるヘンリー。想定していなかったセリフにあたしは言葉に詰まった。
「何故、か」
初めて向けられるヘンリーからの個人的な質問。でもその答えは最初から決まっている。
「ノア様のためだ。それ以外に理由なんてねぇよ」
あたしの答えはずっと変わらない。これまでも、これからも。
それを聞いたヘンリーはふっと私から視線を逸らす。
「それなら尚更だ。殿下はお前が居なくなることを望んでいない」
「居なくなるつもりなんて毛頭ねぇよ。化けてでも、ノア様の隣にいてやるさ」
あたしはノア様のため強くなる。それは変わらない。
だが、ヘンリーにこんな顔をさせない程度にはーーーもう少し、力を抜いてもいいのかもしれない。
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