揺らぎ
俺が毎日足を運ぶ居酒屋には、月に2、3回「みなと」がいる。前はよく来ていたらしいが、最近は地方への派遣バイトが多く都内にあまりいないらしい。21歳のみなとは睫毛の長い黒髪ボブのどこにでもいそうな美人だ。毎回俺に会うたび、「生きてたかじじぃ」なんて声をかけてくる。連絡をとりあう仲ではないが、いつも1人で来るみなとに会えば毎回みなとの隣は俺の席だ。
先輩の誘いは断らない。人前では笑顔でいる。何を言われても言い返すどころか自分からいじられに行く。なおかつ時間を守ることが、兄から学んだ良い環境を作る材料だ。それは部活動や職場で使える。仕事や部活動など集団で集まる場所は、何をするかより、誰とするかで同じ環境にいる期間が変わってくる。周りを見れば、1度転職した経験のある人の方が、新しい職場が続いてるような気がした。どんなに環境が悪くても、どこかしら自分に反省点を持って次に活かしているのだろう。そうして見ると、人間というのは失敗から学ぶ生き物なんだと思う。
大学生の時にバイトをしていた板前寿司の経営を任され、もう30年くらいになるだろうか。酒の入る店で働いているせいか、外で飲む時は大体周りに気を配るようになり、従業員に酒を惜しみなく配り乾杯をして、暇なときは従業員と会話をして盛り上げて帰る。きれいな飲み方だ、従業員にも優しい、良い客だと思われるのが俺の楽しみでもある。褒められると気持ちが良いもので、そういった居心地の良いこの店を好んで毎日のように通っている。俺は単純だ。
「「ひろし」、明日から中学生だな、何部に入っても良いが、先輩の言う事ちゃんと聞けよ」
「兄ちゃんと同じサッカー部に入ろうかな」
「サッカー部か、入りたいなら止めないが厳しいぞ」
「キーパー以外ならなんとか」
「まぁ、先輩に可愛がられた方が得だから、頑張れよ」
「うん」
懐かしい夢だ。もう50年も前の兄との会話だ。そんな話をしたのに、俺は中学に上がるとバレー部に入っていた。特別背が高い訳ではなかったが、俺は兄の望み通り、先輩には可愛がられていた。特に理不尽なことを言われた記憶はないが、部活動の環境は良かった方だと思う。
今日もいつもの居酒屋に立ち寄る。今日は接待相手のお気に入りのスナックで飲んでいたせいで、店についたのは深夜2時半過ぎだ。ウィスキーの匂いが足取りをふらつかせていたのも遅くなった原因だろう。店に入ると、見慣れた常連の端にみなとの姿があった。いつも通りキツめのタバコを吸いながら烏龍杯を飲んでいる。常連客達に挨拶をされ軽く返し、みなとに話しかけた。
「あの、お隣よろしいでしょうか」
従業員達の静かな笑い声が聞こえたあと
「おう、生きてたかじじぃ、気持ちわりぃから1席開けろ」
笑いながらそういうみなとの言う通り、俺は1席開けてみなとの隣に座る。
「いつか負かしてやるからな」
笑いながらみなとに言い返すが
「勝負にもなんねぇよ下等生物がよ」
みなとが笑いながら返す。口は悪いが言葉の引き出しが多いみなとは、とても21歳の大学生とは思えない。みなとは従業員に
「好きにおかわりして良いですから、どうぞゆっくり飲んで下さい」
いつも通り従業員と乾杯をしている。
「俺も優しくされたいなぁ」
とみなとの方を向くと
「会話してやってるだけでもありがたいと思え」
なんて笑いながら言いやがる。愛称なので悪い気はしない。そんな仲なのだから。
みなとと出合ったのはもう半年ほど前だろうか。常連の集まる中、1人でカウンターで飲んでいるみなとに声をかけ、適当に自己紹介をした後
「今の若い子は何が好きなんですか」
なんて、自分でも歳を感じるような質問をした。
「あんまり流行りとか分かんないですけど、歴史とか文化に沿った映画が好きですね、あとは、サスペンスとか、人間が怖い話とか」
意外な答えが返ってきた。みなとは続けた。
「雑学なんかも好きですよ、まぁ、可愛く言えばギャップ萌えです」
その後も会話は続き、クラッシックの曲や絵画1つ1つにどんな思いが込められているか、この単語はどんな由来から来ているかなどを楽しそうに語っていた。この子は見た目こそ若いが、本当に大学生なのだろうかと疑ってしまうほど古典的な物が好きだと言っていた。
話の切りが良いところでみなとは席を立ち
「お会計お願いします」
と言った。
「話し相手になってもらったし、俺につけといて」
若い子とただで話せたのだから安いものだとは思ったが
「あ、大丈夫です、仮とか作りたくないんで」
みなとは可愛げのない答えを返してきた。その日からみなとに会えば、毎回会話をするようになった。
「長沢さん、聞いてます?」
「あ、あぁ、ごめん、少し考えごとをしていて」
俺は昔のことを思い出していた。
「酔っ払ってるだけなんじゃないですか?」
常連の高橋にそう言われ、俺の方が酒は強いので少しムカついたが
「ちょっと仕事のことでね」
と、軽く返した。
みなとが帰ったあと、高橋と会話をしながら酒を飲んでいたのだが、みなとの言葉が気になっていた。
「心を壊してる人は気を使う、乗り越えた人は気を使えて笑いも届けられる、そんな人達にたくさん会ってきた、じじぃも歳だからいろいろ経験したんじゃない?」
何か引っかかるような感覚は酒のせいだろうか。
「特におもいつかないな」
その場ではそう返したが、俺は、果たして乗り越えたのだろうか。
兄が亡くなって2ヶ月。宿題も出ていない春休みを、俺は重い空気の家で過ごしている。4月から中学生になる俺は母親に
「橋本浩史」
から
「長沢浩史」
になることを聞かされた。両親は隠していたかもしれないが、俺にはなんとなく分かっていた。兄の遺書になった1枚の紙を、兄が亡くなる数週間前に俺は見つけていたのだ。もしも俺がそれを見つけたときすぐ両親に見せていたら、兄は助かったかもしれない。そんな話を俺は誰にも言えなかった。俺が殺したようなものだと言われるのが怖かったんだ。その紙の最後に
「俺と顔の似ているひろしには、橋本を名乗ってほしくない」
と書いてあったことを知っていた俺は、名前が変わるというのに母親に何も聞かなかった。
俺は兄とは別の中学へ進学した。母親の旧姓を付けた、長沢浩史として。
俺は今日もいつもの居酒屋に立ち寄る。今日は少し騒がしい。奥のテーブル席で見たことのない男性2人が、酒の酔いが回っているせいか声が大きくなっているらしい。
カウンターに腰かけた俺に聞こえてきたのは
「同級生に男から女になったやつがいるんだけど、男のときにそういう目で見られてたかと思うとぞっとするよなぁ」
という言葉だった。性転換なんて今どき珍しくもないが、そういった人から恋愛感情を抱かれたことは多分無いので、その男性の気持ちは分からなかった。
「子供は作れないんだよな、幸せになれるのかな」
お子さんのいない家庭も多いだろうに、なんてデリカシーがないのだろう。
「名前ってどうなるの?」
性別を変えればほとんど人が名前を変えると聞くが
「それが、男でも女でもいそうだからってそのままなんだよ」
「へぇ、名前は?」
「斎藤湊」
店は一瞬の沈黙を走らせた。
俺は奥のテーブル席に座っていた男性に
「君達、何歳?」
と聞きに行った。
「今年21歳です」
元気な声で返ってきた。
「ご出身は?」
「長野の信州の方ですね、おじさんは?」
長野の信州。みなとと同い年。
「成田の方です」
俺はそう答えて、テーブル席の客に礼を言いカウンターに戻ろうとして方向を変えたが、いつからいたのだろう。どこまで聞いていたのだろう。みなとの姿があった。
みなとは俺と目があってるのに何も言わなかった。みなとは店員に向け
「今日は帰りますね」
とだけ言って店を出ていった。次に会ったときに、俺は偏見もないし、誹謗中傷することもないと伝えよう。そう思っていたが、みなとは数ヶ月経っても店に現れなかった。
いつぶりだろうか、あの店に行かないのは。
俺は接待で札幌のゴルフ場に来ている。適当なお世辞と笑顔で乗り切り、ホテルにつくとすぐにベッドに横たわった。気力を使ったからなのか歳のせいか分からないが、動く気にはなれなかった。しばらく天井を見つめていると、携帯の着信が鳴った。あの店の店長だ。今日は行けないと連絡しようと思い電話に出た。
「長沢さん、みなちゃん来てたよ」
「え」
俺は思わず起き上がった。
「最近みなちゃんのお父さんが手術したみたいで実家の方に行ってたみたい。みなちゃん頭良さそうだから単位大丈夫だったんじゃないかな」
俺はほっとした。俺のせいで来なくなったのではないかと思っていたからだ。
「店長、明後日帰るから都内に来たらまた毎日行くよ」
少し明るく返事をしたのが伝わったのだろう。
「またお待ちしてます」
優しい声だった。
そして俺はまた毎日のように通っている。
「おう、じじぃ、生きてたか、久しぶりだな」
あれから2週間。いつもの店にいつもの常連。その端にみなとがいた。
「よかったよ、心配してたから」
思わず口にしてしまったが、触れないほうが良かっただろうか。
「まぁ会いたくねぇ同級生がいたらもめるのもダルいしさっさと帰るよ」
みなとは笑顔だ。
「あの、みなと、ごめんねあの時俺」
言葉が詰まってるとみなとは
「じじぃごときで感情揺れねぇから安心しろよ、お前人かどうかも怪しいのに」
相変わらず口は悪いが、笑顔を見せるみなとを見て安心した。
「今日は俺出すから好きなの飲みな」
せめてもの詫びだと思ったが
「いらねぇよじじぃ、あとちけぇ、1席開けろ」
やっぱりいつも通りのみなとだ。
「心を壊してる人は気を使う、乗り越えた人は気を使えて笑いも届けられる、そんな人達にたくさん会ってきた」
みなとはそう言った。
みなとは乗り越えてきたのかもしれない。
特に聞くことはなかったが、そんな気がする。
予定のない妊娠。期待外れの性別。病弱な体。
髭剃りは面倒なのに、声変わりは苦しいのに、便利なのに成長していかない体と言われ続けた。運動は苦手だ。お兄ちゃんはできるのに。そう言われ続けて僕は勉学に励んだ。お兄ちゃんはできないのに、僕の成績が上がってもお母さんは喜んでくれなかった。僕が病気なことをお父さんは気にしていた。お母さんを責めていた。世間体はそんなに大事?息子が男らしくないのはそんなに卑下されるものなの?僕は必死にバイトした。お母さんに喜んでほしかったんだ。僕が女の子で産まれてきたら、お母さんは喜んでくれるかな。




