Ep.2 君が『友』と呼んでくれるよう…… (3)
乾杯をしたグラスを傾けつつ、エルードは私を見てにこっと笑った。
何と言うか、『読めない』笑顔だ。
私たち王族は、仕事柄、沢山の人間と顔を合わせ話をする機会がある。
そういう場での振舞い方、話し方なども学ばされる。
下手な事を言い、相手を侮辱してしまうなどあってはならないし、交渉の場で言質を取られ不利を強いられる事もあってはならないからだ。
そしてその際、相手の仕草や表情から、相手の感情や考えを読む術も教わる。
例えば手足の小さな仕草、目線、表情の作り方。そんな所から、相手がどういう人物かを読み取る術だ。
だが、目の前にいるエルードは、私が学んだそれら一切に当て嵌まらない笑顔だ。
卑屈さもなく、かと言って不遜でもなく。だが『屈託ない』と表現するほど無垢でもなく。
何を考えているのかも分からなければ、彼がどういう人物なのかも分からない。
一つ言えるのは、恐らく一筋縄ではいかない曲者だ、という事くらいだ。
「さて、ではカール」
他人に呼び捨てにされる事などほぼないので、少々どきっとしてしまった。
「何だろうか?」
「君は今、『病気療養中』ではなかったかな?」
責める口調ではない。ただ確認するような口調だ。
「そうだな。……君は私の父からそう聞いたのだろうか?」
「まあ、そうなるかな」
微妙に返事を濁したエルードに、軽く頷く。
マクナガン領内にある、王家直轄地だ。王家の直轄地なのだから、王族がそこへ出向く事に何の問題もない。
だが、そこへ行く為には、マクナガン領内を通行する必要が絶対にある。
なので、城の内務の方か何かから、マクナガン公爵に通達がいっていてもおかしくない。というかむしろ、いっていなかった場合に問題がある。
そして公爵に話がいっているなら、その嫡子が聞かされていてもおかしな事は何もない。
「もう体調は大分いいのかな?」
「こちらに来た頃に比べたら、かなり良くなったね」
『いつ戻るのか』に関しては、今はまだ考えていない。
戻らねばならない事くらい分かっている。
今は初夏だ。
年内に戻らなかった場合、それは王位継承権の放棄と同義となる。
けれど、私はまだ帰城の時期を決めかねている。
「『帰らない』……などという事は、ないね?」
相変わらずの読めない笑顔で、ずばっと核心を突かれてしまった。
「ない。……と、思う」
言い切れない自分が、何だか情けなかった。
情けなさから軽く視線を伏せてしまった私に、エルードが小さく息を吐いた。
呆れられてしまっただろうか。
ちらと視線をエルードに向けると、エルードはグラスのワインを一気に飲み干した。
「ほら、何をしている。さっさとそれを空けてしまえ」
私の手付かずのグラスを指さすエルードに、少し面食らう。
空けてしまえ、と言われてしまったので、私はグラスの中身を一気に干した。
えらく口当たりの良い酒で、一気に飲んでしまったのを勿体なく思ってしまった。
「よし、行くか」
私を促し立ち上がると、エルードはグラスを運んでくれた女性に「残ったワインは好きにしてくれ」と告げ歩き出した。
「行くか……と言われても、何処へ行く気なんだ?」
歩き出したエルードを追いかけ、私も歩き出す。
エルードは声を掛けて来る民たちに手を振って応えながら、それでも歩調を緩めない。
「祭りを一周するのさ。さっさとしないと、日が暮れてしまう」
「あ……、待ってくれ!」
すたすたと足早に歩くエルードを、私は慌てて追いかけるのだった。
エルードの案内で街を一周し、陽が傾いてきた頃、エルードは私を「最後の仕上げ」と言いながら公園へと連れてきた。
丘……というより、かなり低い山、だろうか。
その上に、とても広々とした公園があった。
頂上を切り拓いて広場にしていて、遊歩道が整備されており、売店のようなものもある。売店の付近にはやはり露店が並んでいる。
登ってくるのにそれなりに体力が必要だった事から、露店はただの水を振舞うものや、ちょっとした軽食を振舞うものが多い。
木製のタンブラーに入った水を一杯貰い、人心地着く。
つい先日まで寝たきりだった身に、丘程度のものとはいえ山登りはそこそこ堪える。
「……お身体は、大丈夫ですか?」
僅かに心配げな侍従に、私はタンブラーを露店の店主に返しつつ笑った。
「流石に疲れたかな。けれど、大丈夫だよ」
停めてある馬車に帰り着くくらいの体力なら、恐らく残っているだろう。
その後の事は知らないが……。
「さあ、カール、こっちだ」
同じだけ動いているというのに、エルードは非常に元気だ。羨ましい……。私も体力づくりをもう少し頑張らねば……。
エルードはやはりすたすたと、非常に速い速度で歩いて行ってしまう。
それを私はまた、小走りで追いかけるのだった。
広い公園の奥には、街を一望できる展望台があった。
恐らく恋人たちの人気の場所なのだろう。寄り添い合う男女が非常に多い。……目のやり場に困る。
エルードは余り人のいない一角へ歩いていくと、足を止めた。
そこからは、領都の街並みが一望できる。
山登りの最中に陽は落ちてしまい、今はまだ残照で明るいが、もう少ししたら夜がやってくる。
そんな時間なので、眼下の街並みにはぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「領都はどうだったかな?」
エルードの隣に立った私に、眼下の明かりを眺めながらエルードが訊ねてきた。
一つ、また一つと、あちらこちらに明かりが灯ってゆく。
「とても賑やかで、驚いた。行き交う民が、皆笑顔で……。初めて訪れた私にも、馴染みの客にも、同じ笑顔で接してくれて……、新鮮で、嬉しかった」
素直な感想だ。
王都でも、城下へ『視察』へ行く事はままある。
王都の人々も、皆が笑顔で私を迎えてくれる。
けれど、この街の人たちとは、笑顔の『質』が違う。
「……まあ、私が身分を隠しているからかもしれないが」
王太子であると知れたら、今日のような人懐こい笑顔は向けられないだろう。
王都のように、敬う者、へつらう者、媚びる者などが出て来るだろう。
「身分に関しては多分、彼らは大して気にはしないだろうな」
「そうだろうか……?」
「私に対する、人々の態度を見ていなかったか? 『坊ちゃん』なんて、仇名みたいなものだ」
言われて、思わず小さく噴き出してしまった。
確かに、街の人々のエルードに対する態度は、領主の息子で次期公爵に対するものではありえない。
皆が彼を『エル』『エル坊』『坊ちゃん』などと呼び、敬語など全く使わない人間の方が多い。
「もしも君が己の身分を明かしたとして、変わるのは言葉遣いくらいのものじゃないのかな」
「だとしたら、気楽で良いな」
呟くように返事をして気付いた。
そう。気楽だったのだ。
誰も私を『王太子』として見ない。
私を「殿下」と呼ぶ者もない。
ああ……。まだ、城へは帰れそうにないな……。
私に対し敬意をもって「殿下」と呼びかけてくれる者を想い、少しばかり憂鬱になってしまうようでは……。
「カール」
呼びかけられ、知らず俯けていた顔を上げた。
そこには、エルードが「仕方ない」という風に笑っていた。
「顔は、なるべく上げなさい。俯いていては、視界が狭くなる。……さあ、あそこに見えるのは何だい?」
エルードが手で示したのは、眼下に広がる街並みだ。
宵闇が濃くなり始め、街の明かりが大分増えている。
きらきらと瞬く明かりは、まるで星空のようだ。
「マクナガン公爵領の、領都……」
眼下に見える光景は星空ではない。先ほどまで自分が居た街並みだ。
「正解だ。では、あの明かりは?」
「家々の、街灯の明かり……だろう?」
それくらい、幾らなんでも分かる。
「では、家に明かりが灯るという事は?」
「外が暗くなり、光量が乏しいからでは?」
この質問は何だろう?
「正しいが、外れだ」
エルードは言うと、先ほどより更に増えた街明かりを見て小さく笑った。
「あの明かりは、『それを灯す人が居る』という事だ。『そこに息づく人が居る』。……では、私たちの為すべき事は、何だろうか?」
私たちの……。
彼は『マクナガン公爵領の領主』で、私は『次期国王』だ。
その、為すべき事は……。
「あの明かりを、守る事……。絶やさず、継いで行く事」
「うん。正解だ」
あっという間に周囲は暗くなり、対照的に眼下の明かりはとても明るい。
「君が今日すれ違った者や言葉を交わした者なんかが、あの明かりのどれか一つに居る。私たちがやらねばならない事は恐らく、今日と同じように明日が来ると、彼らに信じさせてやる事ではないかな」
今日と、同じように……。
「まあ、君の目指す『君主』の像が、どういったものかは私には分からんが」
けれど少なくともエルードは、そういう風に考えているという事だ。
今日と同じように、明日が。
それは生活していく上で、基盤となるものに大きな不安がないという事だ。
個人の生活水準によっては、明日をも知れぬ暮らしにならざるを得ない者は居るだろう。けれどそういう者であっても、『明日、国がなくなるかもしれない』とは考えずにいられるようにするという事。
そして可能であれば、明日への不安を抱く者の数を、限りなく減らしていくという事。
ああ、何だか……。
「……途方もない仕事だな……」
そして、終わりもない。
それを背負うのか。
「だが、勘違いしてはいけない」
静かな声で言われ、私は隣のエルードを見た。
彼は、私を真っ直ぐに見据え、微笑んでいた。
「君は……いや、貴方は、決して一人ではない」
エルードの口調が変わった。
今のはきっと、臣から主への諫言だ。
一人ではない、と言われても。
「……実感として、何もないがな……」
思わず、弱音がぽろりと漏れた。
今の私には何もない。
かつての王たちのように、唯一と呼べる友も、愛する伴侶も。
婚約者は居れど、彼女とは諸々の事情の上に成る政略的な関係であるので、情はあれど愛はさほどない。……向こうがどう思っているのかも分からないし。
「カール」
僅かに呆れたように呼びかけられ、私はまた、知らず俯けていた視線を上げた。
そこには、声音の通りに呆れたように笑うエルードが居た。
「君の都合の良い日に、我が家へ招待したいと思うのだが、どうかな?」
「公爵邸へ……?」
公爵邸は、領都の中心街から外れた場所にある。
王都ならば王城、領都ならば領主の館を中心として街を形作るのが一般的なのだが、ここはそうではない。何か理由があるのか、ないのか……。
なので私は、マクナガン公爵邸を未だ見た事がない。
「別に、構わないが……」
「ならば後日、遣いを出そう。……そうそう。家へ来る際には、その似合わない鬘と眼鏡は不要だ」
似合わない……。
鬘は確かに、自分でも違和感しかなかったけれど。眼鏡は少し気に入っていたんだが……。
「似合わない、かな……」
「似合わんね」
笑いながら言うと、エルードはこちらへと手を伸ばしてきた。
何をするかと見ていると、その手はそのまま私の掛けていた眼鏡を取った。
「髪色を変えようが、顔を隠そうが、君は君だ。『他の誰か』や『別の何か』には、なれはしない」
見透かされてしまい、また視線を俯けてしまった。
「こんな小さなガラス一枚隔てただけでも、恐らく見える世界は違ってくる。君はまず、君自身の目で『世の中』を見るといい」
エルードは持っていた眼鏡の蔓を折りたたむと、私の手に眼鏡を握らせた。
「……さて、すっかり陽も暮れた。今日はここまでにして、帰ろうか」
そう言ってエルードは歩き出したが、私は手に握らされた眼鏡をぼんやりと見ていた。
「カール!」
先を行っていたエルードが、振り返って声を上げた。
その声に、手元を見ていた視線を上げる。
「顔を上げろ。足を動かせ。ほら、帰るぞ!」
「……ああ」
急かすような言葉に、私はのろのろと歩き出したのだった。
* * *
数日後、エルードから書状が届いた。
きちんとマクナガン公爵家の家紋の入った封蝋が押されており、封筒にも便箋にも公爵家の紋が入っていた。
別に疑っていた訳ではないが、本当に彼が『エルード・マクナガン』なのだな、とおかしな実感があった。
内容は、家に招待したいので、都合の良い日を教えてくれ、というものだ。
私はそれに、王太子の紋の入ったレターセットで返信を書いた。
鬘も眼鏡も不要という事は、エルードは『王太子カール・エディアル・ベルクレイン』を招待しているという事に他ならないからだ。
『王太子』か……、と、少々気分が重くなるのを感じた。
更に数日後。
離宮まで迎えに来てくれた公爵家の馬車に乗り、私はマクナガン公爵邸へと向かった。
領都の中心街を抜け、少し行った場所に公爵邸はある。
華やかな領都とは違い、公爵邸付近は閑静な林だ。民家などもない。
道だけは綺麗に整備されているが、大きな邸がどんと建っている以外、特に何もない場所だ。
到着した私を、公爵、公爵夫人、エルード、使用人一同が出迎えてくれた。
「ご無事のご到着、何よりでございます」
「ありがとう」
まあ、離宮からここまで、馬車で二時間程度だ。何かあったら、逆に驚くが。
社交辞令の定型文句に突っ込んでみても仕方ない。
互いに挨拶を交わし、公爵夫妻はエルードに「後は任せたぞ」と言ってその場を辞していった。
「ではこちらへどうぞ、殿下」
私を促し、エルードは先に立って歩き出した。
途中で足を止め、その場に控えていた男性に声を掛ける。
「ジョーイ、私の執務室まで茶を頼む」
「承知しました」
丁寧に礼をする男性は、先日の祭りの場でワインの栓を開けてくれた男性だった。
彼は侍従か何かだったのか。
「くれぐれも、常識的に考えて、王太子殿下にお出しするに相応しい茶で頼むぞ」
噛んで含めるような口調で言うエルードに、ジョーイと呼ばれた男性は一つ頷いた。
「公爵家の常識的に考えて――」
「待て。既に要らん一言が入っている」
「『常識』の部分ですか?」
きょとんとしたジョーイに一つ溜息をつくと、エルードは玄関ホールの奥に控えていた男性を見た。
「アルフ! 手を煩わせてすまんが、茶を淹れてくれ!」
「畏まりました」
丁寧に美しい礼をする男性は、恐らく執事か何かなのだろう。
テールコートの男性は、控えている侍女やその他の使用人たちに何事か指示を出すと、ジョーイを連れ立って歩いて行った。
エルードに案内されたのは、彼の執務室だった。
部屋の奥に大きな机が置かれ、その上には山のような書類と書籍が積まれている。
「執務が忙しいのでは?」
私の言葉に、エルードは私が見ていたものに気付いたようだ。
机へと歩み寄り、積み上げられた紙の山をぽんと叩いた。
「これらは急を要さないものばかりだ。積み上げておかないと忘れてしまうから、こうして目につく所に置いてあるだけさ。……どうぞ、座ってくれ」
部屋の中央にある応接セットのソファを示して言うエルードに、私は素直に従った。
目の前にあるテーブルに、ふと目を留める。
重厚ながら優美さもある、素晴らしい品物だ。
「このテーブルは、マクナガン公爵領の工房のものか」
「ああ。君が今座っているソファも、あの執務机もそうだ」
言われて見てみると、確かに同じ工房の物のようだ。
派手さはないが、しっかりとした造りで重厚感がある。
「やはり、自領の生産物を優先して買い上げたりしているのか?」
そういう領主は少なくないだろう。
自領の産業の保護として、優先的に買い上げ、それを宣伝する為に他の貴族へと贈ったりする。
けれどエルードは、私の言葉に楽し気に笑った。
「いや、していないな。私たちが買わずとも、買い手ならそれなりに居るだろうし」
……それもそうか。
このテーブルなどは、恐らくマクナガン領にある有名な工房の品だ。
とても品質が良い事で知られ、そのシンプルながら洗練された重厚な美しさで、貴族のみならず学者などにも好まれる。
「こいつらは、七十年ほどずっとここにある連中だ。工房立ち上げ当初、当時の職人たちとウチの当主とで試行錯誤した試作品だそうだ」
私の向かいに座ったエルードは、自身が座るソファの座面をぽんと叩いて笑った。
「やたらと頑丈なもので、買い替えの手間なんかがかからず重宝しているよ」
侍女たちがやって来て、テーブルに茶と菓子をセットして出て行った。
部屋の中は、エルードが人払いを望んだので、私とエルードの二人しか居ない。まあ、ドアの外には護衛騎士が立っているが。
「さて……」
お茶を一口飲み、エルードはカップを置くと、こちらを見てにこっと笑った。
「今日は君に確認したい事があってね」
確認?
何だろうかと首を傾げた私に、エルードはやはり読めない笑顔で言った。
「君はいずれ、王都に帰るんだよね? ……遅くとも、今年中には」
何故、知っているのか。
驚くと同時に、軽く混乱してしまった。
私が城を離れている事は、貴族であれば誰もが知っているだろう。
そしてマクナガン公爵家の人々は、私が静養先として選んだのだから、城からある程度の話はいっているだろう。
だが。
年内に戻らねばどうなるか――という話は、流石に誰も知らない筈だ。
「国王陛下から、父に宛てて書状をいただいたんだよ。金獅子の離宮を使うから……と。しかもそこに滞在されるのが、ただの王族の縁者や、単なる一王子ではなく、王太子殿下だ。くれぐれもよろしく頼む、とね」
それはそうだろう。
そこまでは理解できる。むしろ当然の事だ。
「その書状に書かれていたんだよ。君の症状や、陛下の出された『今年中』という条件の話なんかがね」
「何故……」
そんな大事な事を、国内の一貴族であるマクナガン公爵に漏らすのか。
そこから王位簒奪などの話になったなら――。
と考え、ふと冷静になった。
そんな話には、ならないな。
マクナガン公爵家だからだ。
他の貴族と大した交流もせず、政治に興味も示さず、一年の殆どを領地で過ごす。
社交を行わず、けれど独自の産業と多額の税収で国に貢献する。
この家の者に何かを漏らしても、ここから先へと続く道はないに等しい。
「王家が秘そうとしている事柄を、表に出すつもりなど私たちにはないからね」
そういう事だ。
「それだけ、君たちが信用されているという事か」
「まあ、そうかもしれないが、ちょっと違う」
エルードはまた茶を飲むと、小さく笑った。
「国が荒れる事を私たちが望まない、と、陛下はご存知だからな」
「そもそも、国が荒れる事を望む者の方が少数なのでは……?」
そして、それに積極的に加担するようであれば、それは単なる国賊なのでは?
「国が荒れていた方が儲かる職種、というものは幾らでもあるけれどね」
「ああ……、まあ、それはそうだな」
武器や防具を作る職人たちは、その代表格だ。そういった物を扱う商家もそうだろう。そして武具類の元となる金属を産出する鉱山を有する者たちや、全ての生活の基盤となる食料を売買する者たち……。
国が荒れ、政治機能が麻痺すると儲かる者は幾らでも居る。
「だがね、この『マクナガン公爵領』という土地は、国が荒れたとしても何の益も損も生じないんだ」
エルードはそう言うと、私に向け何かの帳簿のようなものを差し出した。
「それは一例だが。この領で最も大きな商会の取引記録だ」
受け取ってみると、確かにある商会の取引記録の台帳だった。
マクナガン領で最も大きな商会で、国でも十指に入る規模の商会だ。
ぺらりと捲ってみる。
この商会の主な取引品目は、工芸品と家具類だ。それこそ、私が今座っているソファを作った工房などが取引相手だ。
見てみると、仕入れは当然全てがマクナガン公爵領内の工房で、販売先も領内のレストランやホテル、私が今滞在している離宮のように領内にある貴族の別邸などが多数だ。
……いや、多数というか、販売先の殆どが領内だ。王都の商会も取引相手に居るが、それは極少数でしかない。
「領内で生産したものを、領内の商会や私たちが買いあげる。そして領内へ卸す。家具類などだけでなく、ほぼ全ての産業がそうして回っているのが、このマクナガン公爵領だ」
帳簿から目を上げると、エルードがにこっと笑った。
彼の笑顔は、そこにどういう意味があるのかが分かり辛い。
「君は国内の主要な貴族の財政状況なんかは把握しているね?」
「『主要な』というなら、そうだな」
碌な領地も持たず、商売にも手を出していないような貴族までは無理だが。
「では、我がマクナガン公爵領については、どれくらいの知識がある?」
マクナガン公爵領は……。
頭の中の資料を捲る。
「領土は国内一広く、国土の約二割。産業は多岐に渡り、公爵領からの税収は国の年間の税収の三割を超える。人口は王都に次いで多く、人口当たりの犯罪率は国内で最も低い……」
そう。
『人口』という一点を除いて、このマクナガン公爵領という土地は、ほぼ全ての項目に『国内一位』という冠が付く。
改めて、とんでもない土地だ。
唯一、一位を譲っている人口だが、王都は人口は多いが未就労者・失業者が少なくない。人口に対して、働き口が少ないからだ。
他に、貴族が多いので、それを相手にする仕事は一定以上の学や礼法を修めていなければ就けない、という理由もある。
だが、この公爵領は未就労者や失業者の割合もとても低い。
それだけ産業が多いという事もそうだが、何より、職人を育てる為の独自の教育施設などの存在が大きいのだろう。
国として真似たい施策がいくつもある。
「勝手に真似てくれて構わんよ」
笑いつつ言ったエルードに、少々驚いた。
「だがそれらは、マクナガン領独自の施策であって……」
「別に、秘匿なんぞしていないからな。『良い』と思ったものは取り入れればいい。それを私たちは、咎めたりする気はない」
なんと豪気な発言か。
『やり方』が確立されるまで、試行錯誤も当然あっただろうに。そして、『試行錯誤する』という事は、それだけの時間と金がかかるものというのに。
それを、「勝手に真似て良い」とは。
「さて、我がマクナガン公爵領は、今君が述べてくれた通りの土地な訳だが。その土地の、ほぼ全ての産業が、領内だけで回っている。それでも利益は発生し、税はきっちりと納めている。……では、もし『国』という枠組みがなくなったなら、どうなるだろうか」
国が、なくなったなら……。
通常であれば、『領』というものは、まず『国』からの庇護を受けているものだ。国から下賜された爵位を持った領主が、やはり国から賜った領地を治める。
領内の運営がうまくいかない場合は、国からの梃入れもあり得る。
運営資金が不足している場合、それを貸し出す公庫もある。
領地で独自の法令を施行もできるが、それも国法である「領地法」の範囲内での自由だ。
税率の制定にしても、領地法並びに租税法で定められた範囲での裁量権しか与えられていない。
それら枠組みを、全て取り払ったとしたら……。
「私の予想では、半数以上の領地が立ち行かなくなるだろうと踏んでいる」
エルードの言葉に、素直に頷いた。
「私もそうではないかと思うよ」
まず、『領主』に不向きな者が淘汰される。自らその座を退くか、領民によって斃されるか、いずれかの方法で。
そして『法』というものを理解できぬ者が上に立てば、そこは文字通りの『無法地帯』となる。
領地を運営する資金は勝手に湧き出るものではない。それを理解出来ぬ者が上に立てば、簡単に財政が破綻し、人が生きるに厳しい土地となる。
そういった、『枠組みあっての自由』から解き放たれた際、立ち行かなくなるであろう土地は、エルードの言う通りで約半数程度だろう。
「ではマクナガン領はどうだろうか。少なくとも私には、国が滅ぼうがこの領地が滅ぶ未来は見えないのだが」
それも確かにその通りだ。
むしろ枠組みがない方が、ここは更なる発展が見込めるのではなかろうか。
「もしも国がなくなるような、そんな事態になったとしたならば……」
エルードは軽く言葉を切ると、私を真っ直ぐに見て笑った。
その表情は、まるで旧知の友にでも向けるような、穏やかで懐こいものだ。
「私たちは常に『ここ』に居る。幾らでも頼ってくれて構わない」
常に、ここに……。
「マクナガン公爵領とは、そういう場所だ」
『そういう』?
指示語の中身が分からず目を細めた私に、エルードが僅かに楽しげに笑った。
「つまりは、君たち『ベルクレイン王家にとっての最後の砦』、または『逃げ込んでも許される場所』だな」
私たちにとっての……。
「初代から、そういう心持で運営されてきたのが、このマクナガン公爵領だ」
「初代から……」
あの、破天荒に過ぎる初代公から……。
ああ、けれど。
初代マクナガン公爵は、型破りで奔放な言動ばかりではあるけれど、常に弟を案じていた。それは確かだ。
己の両手が血に塗れようとも、弟の代わりに傷を負おうとも。
それらを恩に着せるでもなく、また苦に思うでもなく、常に笑ってそこに居た人だ。
……やっぱり、初代王はいいな。
安心して背を預けられる人が居て。最後の最後に縋るべきものがあって。
それがあったからと、無条件で強くなれるものではないだろうけれど。
それでも、心の持ちようは変わってくるのではないだろうか。
少なくとも、今私が抱えているような寄る辺ない漠然とした不安は、薄らぐのではないだろうか。
「まあ彼らは、『血縁』という強い絆があったが故ではあるだろうが」
エルードは私を見ると、やはり少しだけ楽しそうに笑うのだった。
「私たちマクナガン公爵家の者は、常に君たち王家を見ている」
見ている、とは?
「……監視……というような意味だろうか?」
「いや、どちらかというと『観察』だな。ただ遠巻きに眺めている、と言った方がいいだろうか」
……『公爵』という地位にある者が、王家を『遠巻きに』眺めるのは、どうなのだろうか……。本来、私たちに最も近い地位にあるというのに……。
いや、それでこその『マクナガン公爵家』か。
エルードはお茶を一口飲むと、小さく息をついた。
「少し、この『マクナガン公爵家』というものの話をしようか」