Ep.2 君が『友』と呼んでくれるよう…… (2)
いやぁ……、初代王の『お兄さん大好き』、ここまでくると軽く引くよね……。
病床で歴代王の手記を読み始め、初代王の分を読み終えての感想がこれだ。
そんな感想を持ったまま、二代目の王の初めのページを開き、思わず笑いで噴き出した。
『父の伯父上好きには、正直どういう顔をしたらいいか困る。』
そうだろうね! お気持ち、お察しします、二代目陛下!
初代王の手記はとにかく、「あの時、兄がこう言った」「兄が言うには……」「兄がこういう事をして」「兄が」「兄は」「兄を」だ。
引く思いはあるけれど、少しだけ羨ましくも思う。
歴代の王たちが、この白紙の書に綴ったものは、様々だった。
ある者は後に続くいずれ王となるべき者への激励を、ある者は己の半生記を、ある者は自分を支えてくれた者たちへの感謝を……。
けれど皆一様に、締めの言葉は『不甲斐ない自分でも王としての責務は全うできたのだから、きっと後に続く者にもそれは可能なはずだ』という激励だった。
中には、今の私同様に、「自分で良いのだろうか」「自分などに出来るのだろうか」と、ただひたすらに自問を繰り返す王も居た。それも、一人や二人ではない。
ただ彼らは、信頼できる友を得たり、愛する伴侶を得たりして、少しずつ『出来るかどうか、ではない。やらねばならないのだ』と前を向くようになるのだ。
……羨ましいな、と、心から思った。
初代王にマクナガン公爵が居たように。数多の王たちに、無二の存在がある。
残念ながら、今の私にはそれはない。
王とは孤独なもの。
言わんとしている事は、充分に理解しているつもりだ。
けれど、この手記集の中に、真に孤独であった王など一人もない。
……いや、一人だけ、延々と実に二十ページ近くも料理のレシピだけを綴っている王が居た。彼に関してだけは、何も分からないに等しいが。
私はこの手記を、実に一週間以上かけて、ゆっくりと読んだ。
読み終える頃には、少しだけ体調がましになっていた。
一緒に来てくれた侍医の診察によれば、城を離れられた事が良かったのではないか……との事だった。
そうかもしれない。
ずっと心の奥にあった焦燥が、少しだけ大人しくなっている。
城を離れられた事、そして、この手記。
その二つが、私の心を少しだけ軽くしてくれたようだ。
これを持たせてくれた父上に感謝せねば。
それから更に一週間後。
私は起き上がれる程度まで回復した。
ただ、寝たきりのような生活を長く続けていた為、体力がすっかり落ちてしまっていた。
まずは慣らすところからはじめましょう、と侍医に言われたので、私は宮殿内をうろうろと散歩する事を日課とした。
王たちの手記の中に、酷い孤独に苛まれていた王の手記があった。
大人たちから紹介される『ご友人』に馴染めず、周囲の誰もが自分の顔色を窺っているように感じ、誰の事も信じる事が出来なかった王だ。
彼はある日、毎日毎日、同じ表情でただ淡々と仕事をこなしてゆく使用人に、ふと目を留めた。
彼ら、彼女らは、毎日ただ僅かに微笑んで、自分の為に茶や食事を用意してくれ、衣服を用意してくれ、寝台を整え、部屋を清潔に保ってくれる。
彼らが何を思っているかは、表情からは全く読み取れない。
けれど、彼らの笑顔は『ご友人』連中のそれとは明らかに質が異なる。
王は自身で、『後から考えてみたら、まあ、使用人たちにとっては仕事でしかないからな。飯の種と思えば、愛想笑いの一つや二つ、いくらでも浮かべてくれるだろう。』と記している。
しかし王は、その時に気付いたのだ。
彼らだって『人』じゃないか、と。
その言葉を「何を当たり前のことを」と言える人は、きっと幸せだ。
実際私は、その言葉に「そう言われたら、その通りだな」と気付かされたのだから。
別に彼らを『人ならぬ何か』だと思っている訳ではない。
けれど実際、私たちと彼ら使用人との間には、身分や立場などの違いがある。
彼らは就業中に無駄口をきかないよう躾けられるし、私たちも彼らがそこに居る事を特段気にしないよう躾けられる。
『彼らとて人であり、私がいずれ王となった後に庇護せねばならない国民の一人一人なのだ』
とても当たり前の事だ。
だが私はその手記の王同様、その『当たり前』を見落としていた。
『国民』とは城下に居るもので、『城内の人間』とは官僚や貴族たち。
その括りしかなかったので、『城の使用人』は、そのどれもに属さない存在となっていた。
けれど使用人とて、城下に家族の居る『国民の一人』だ。
それに気付き、私はきっと『見落としている当たり前』がもっと多く存在するのだろうな、と考えるようになった。
それにしても、こんな当然の事に気付くのが、王となってからでなくて良かった。
安堵すると同時に、とてもぞっとしたものだ。
なので私は、宮殿内をウロウロするついでに、目についた使用人たちに話しかけるようになった。
……まあ、余り話しかけすぎて、彼らの邪魔になってしまってはいけないので、名前を尋ねたり出身を尋ねたり程度の話しか出来ないのだが。
宮殿に移ってひと月経つ頃には、そこに居る使用人全員の名前と出身を覚えられた。
まあ、私一人しか居ない宮殿だ。
使用人も総勢で二十名程度しか居ない。
全員の顔と名を覚え、来歴なども知れるようになると、自ずとそれぞれの個性も見えるようになってきた。
ああ、そうか。
こうして、人と人は関係性を築いていくのだな。
見落としていた当たり前を、また一つ見つけた。
* * *
「祭り」
「はい。明後日から、領都でお祭りなのだそうです」
侍女は手際よくポットに茶葉を入れながら言った。
「茶葉は二杯ではないのかい?」
ティースコップでポットに茶葉を二杯分入れ、侍女はそこに更にもう一杯分を追加したのだ。
確か以前、別の侍女に教わった時は、スコップにきっちり二杯だった筈……。
侍女は私の言葉に「ふふ」と少し楽しそうに笑った。
「通常は二杯でございます。ですが、今日のお茶は特別なお茶でございまして」
侍女が言うには、今日淹れているお茶は、遠方の国から輸入したとても希少な品物なのだそうだ。
通常の紅茶と違い、茶葉を多めに入れてやらないと、味も香りも立たないのだそうだ。なのに、この茶葉がとれる場所は非常に限られており、生産量は非常に少ない。
希少性から価格が上がり、『重量単価が非常に高いのに、通常よりも多く消費せねば味がない』というとんでもない代物となっているらしい。
「ですのでこれは、殿下のような高貴なお方のお口にしか入らぬお茶となっております」
「君は、飲んだ事は?」
「ございません」
当然のように返すと、侍女はポットに湯を注いだ。
ふわりと、花の香りを思わせるような、幽かな甘みを含んだ香りが立ち上る。
「飲んだ事はございませんが、とても良い香りがいたしますでしょう? わたくしは、この瞬間がとても好きなのです」
「うん。確かに、良い香りだ」
頷いた私に、侍女はまた小さく笑った。
「さ、殿下はどうぞお席へ。わたくしが心を込めてお淹れしたお茶でございます。どうぞごゆっくりとお楽しみくださいませ」
「うん、ありがとう」
時折こうして、使用人たちの仕事を見せてもらうようになった。
初めはそれこそ、本来そんな場に居る筈のない私が居る事で、使用人たちもがちがちに緊張していたのだが、人間とは慣れるものだ。
まるで幼子のように「あれは何だ?」「これは何をしているのだ?」と質問する私に、彼らは手を止める事無く答えてくれるようになった。
すごいすごいと、やはり子供のように感心する私に、「やってごらんになりますか?」と恐らく簡単なのであろう仕事を任せてくれる者も居た。
けれど当然だが、私にはそれすら上手く出来なかった。
上手く出来んものだなぁ、と零したら、実に簡単そうにするすると芋の皮を剥いている料理人が笑った。
「それで良いのではありませんか? 料理は私ら料理人の仕事。洗濯は洗濯メイドの、荷運びはポーターの、皆それぞれの仕事でございましょう。そして、殿下のお仕事は、そのどれでもありませんでしょう?」
確かに、その通りだ。
私の仕事――『やらねばならない事』は、この国の舵取りだ。
ふと、初代マクナガン公爵の言葉を思い出した。
王様は、『完璧で何でも一人で出来る』人間である必要なんざねぇよ。
ああ、本当にその通りだ。
『何でも一人で出来る』訳がない。
実際に、今この宮殿で働いてくれている二十名弱の皆が居なければ、私は今日の食事すらままならない。
ああ、もう、本当に……。
『当たり前』の事というのは、世の中に沢山あるものだなぁ。
侍女の淹れてくれたお茶をいただきながら、その場に控えている護衛の騎士に話しかけてみた。
「何やら、近日中に祭りがあると聞いたが……」
「そのようですね」
騎士は微笑んで頷く。
「その祭りとは、何の祭りなのだろうか」
訊ねると、騎士は僅かに楽しそうに笑った。
「『特に意味のない祭り』だそうです」
……うん?
基本的に、祝祭日というものは、何か意味のあるものである筈だ。
例えば、春に王都で開催される『百花祭』は、春の訪れと社交シーズンや年度の開始を祝ってのものだ。
年の暮れの『星雪祭』は、去る一年に感謝と、来る一年が良きものであるよう祈るもの。『建国祭』は我がベルクレイン王家の初代王が即位した日を記念したもの。
他に、地方ごとに感謝祭や収穫祭、教会主導の降誕祭や聖夜祭などなど、それぞれに必ず意味はある。
余程、怪訝な顔をしていたのだろう。騎士は私を見て、くすくすと笑った。
「私も話を聞いて驚いたのですが……。特に来歴などもなく、ただ『今月は祝日がないから、祭りでもやるか!』と始まったものなのだそうです」
えぇ……。
いや、確かに、今月は国の定める祝祭日はないけれど……。
「今年が記念すべき三十回目だそうです」
意外と歴史がある!!
「街へお出かけになられますか?」
笑いながら訊ねてくる騎士に、私は少々迷った後で頷いた。
「少し、眺めに行こうかな」
言った私に、騎士は「承知いたしました」と微笑んで礼をした。
当日。
私は侍従が用意してくれた衣服を着け、頭には鬘を被り、一応顔を隠すために眼鏡を装着した。
衣服は普通の町民のような品物で、侍従にどうしたのか訊ねたら、昨日街の衣料品店で購入してきたとの事だった。
仕事を増やしてしまったようで申し訳ないと言ったら、「いえ、これも仕事の一つでございますよ」と笑われた。
その侍従と、護衛の騎士たちも、ただの町人のような服装だ。
なんだか、それだけで非日常感があり楽しい。
領都の中心街は、市などが立っている為、馬車で乗り付ける事が出来ないそうだ。
近くまで馬車で移動し、馬車はその辺りにあった宿屋に置かせてもらう事にした。
そこからは徒歩の移動だったのだが、全く苦にならないくらい、色々な所に色々と不思議なものがあった。
街道沿いの酒場が、店の中ではなく外にテーブルを並べ、酒と料理をふるまっている。
そのテーブルには「『何でもない日』じゃねぇよ! 今日、俺の誕生日なんだよォ!」とクダを巻く青年。それに周囲は楽しそうに笑いながら、「おめでとさん!」などと声をかけている。
パン屋は店の外にワゴンを置いて、その上に『ご自由にどうぞ!』と小さく小分けした袋入りのクッキーを置いている。
それを少年が両手で鷲掴もうとして、商店のおかみらしき女性に「一人一個だよ!」と叱られている。
「そんなんどこにも書いてねーじゃん!」と言った少年に、おかみは店内からペンを持ってくると、『ご自由に』と書かれた板の隅に『一人一つまで!!』と書き添えた。
至る所に大道芸人が居り、ある者はカードを使ったマジックを、ある者はジャグリングを、ある者は手に持った花を消したり出したり……と、皆様々に人々を楽しませている。
ある民家には『優しく声を掛けてね♡』と看板があり、通りすがりらしい男性が「お! 可愛いね!」とその家に向かって言った。すると、家の中から女性の声で「ありがと♡ 貴方も素敵よ!」と返事があり、男性は楽し気に笑うと歩き去った。
道端にテーブルと椅子を用意し、顔にヴェールをかけた女性らしき人物が座っている。
怪しげな風貌からして占いかな?と思ったら、テーブルの脇に立てかけてある看板には『あなたをホメます。とにかくホメます。ホメ殺します。』と書かれていた。
不思議に思って眺めていると、一人の女性がやって来て椅子に座った。
「あらぁ、あなた最近、綺麗になったんじゃない!? その最高に上手に出来たサイレージみたいな色の髪、とっても素敵だわぁ! シンプルな衣装も、あなたの美しさを最っ高に引き立ててる! 羨ましいくらいイケてるわぁ!」
……成程。確かにこれは褒め殺しだ。
「わぁ、可愛いワンちゃん! こぉんな可愛い子、あたし初めて見たわぁ! 背中の毛玉がチャーミングよぉ!」
通りすがりの犬まで褒めている楽し気な声を聞きながら、更に歩く。
すごい。
すれ違う人が、皆楽しそうに笑っている。
食堂か何かの前を通りがかったら、店員らしい女性に「お兄さん、男前ねぇ! ハンサムさんには、コレあげる!」と串焼きの肉を貰ってしまった。
侍従が「一応、お毒見を」と言うので渡したら、一口食べて「あ、ウっマ」と呟くので、だったら寄越せよと少し恨めしい目で見てしまった。
その視線に気づいた侍従はバツが悪そうに笑うと、「問題ないようです。どうぞ」と串を返してくれた。
スパイスが効いて美味しい串焼肉を食べつつ歩いていくと、領都の中心街の広場に出た。
マクナガン公爵領の領都というのは、非常に計画的に作られている。
この広場を中心として放射線状に大きな街道が伸び、ほぼ等間隔の同心円状に道が敷かれている。
そして、民家・商店がバランスよく配置され、管轄区域が被らないよう警邏の駐屯所がある。
薄暗い路地のような道はほぼ無く、道幅は広く見通しが良い。
国内随一の犯罪件数の低さも納得だ。
人口当たりの犯罪率となると、他の追随を許さない低さだ。
その平和な領都の広場には、『意味のない祭り』とは思えないくらいの露店や掘っ立て小屋が並んでいた。
よく見てみると、露店の大多数は無料で品物を振舞っているようだ。そして幾らかある有料の露店も、申し訳程度の料金しか設定していない。
掘っ立て小屋では芝居を上演しているらしいが、子供の小遣い程度の金額でチケットを購入すれば、一日何公演でも見放題と看板を掲げている。
「皆、料金などを徴収しないようだが……」
「そうですね。殆どが無料のようですね……」
侍従も驚いている。
「お兄さんたち、観光の人?」
いきなり近くから声をかけられ、驚いてそちらを見ると、一人の中年女性が笑っていた。
「ああ。祭りをやっていると聞いて、眺めに来たのだが……」
「ちょうどいい日に来たねぇ! ラッキーだったね」
楽し気に笑う女性に、侍従が辺りを見回しつつ訊ねた。
「露店は料金などを取らないのですか?」
「今日は特別ね」
女性の話によると、この『何の意味もない祭り』は、そもそも『何にもなくてつまらないから、無理のない程度に皆で持ち寄って集まって騒ごう』というだけのものだったそうだ。
持ち寄りなのだから、当然、それを商売などにしようなどとは考えない。
言い出したのは当時のマクナガン公爵で、公爵家から持ち出した酒と料理をこの広場で振舞っていたらしい。
そこに「それじゃあ自分も」と参加する人が一人増え、二人増え……と、見る間に規模は膨れ上がり、数年後には領都を挙げての大規模な祭りになっていたそうだ。
「今も、基本は『持ち寄り』だからね。この祭りは『金を取っても、利益は出すな』って、領主さまからもお達しが出てるんだよ。それが無理なら、露店なんて出す必要もない、ってね」
「……それでよく、ここまで露店が立つものだな……」
王都のきちんとした祭りにも匹敵しそうな華々しさだ。少し圧倒されてしまう規模なのだ。
私の言葉に、女性は楽しそうに笑うと、少し誇らしげな笑顔で広場を見回した。
「だって、楽しいだろう? みんなで集まって、年に一度のバカ騒ぎなんて。そんで、それを同じように『楽しい』って思うバカが、これだけの数居るんだ。楽しすぎて笑っちまうだろう?」
女性の言葉通り、広場には楽し気な笑顔の人以外が居ない。
皆、笑っている。
「確かに、楽しいな」
私の言葉に、女性はやはり誇らしげに「そうだろう?」と笑った。
女性と手を振り合い別れ、広場をぐるっと一周する事にした。
ほんの少し歩いただけなのに、立ち並ぶ露店からあれもこれもと様々な物を持たされてしまった。
侍従に至っては、頭に良く分からない獣の耳の付いた帽子を被せられている。
「はー……、何と言うか、皆、人懐こいですね」
意外と耳付きの帽子の似合っている侍従に、笑いつつ頷いた。
露店の人々も、そこいらを歩いている人々も、皆気さくで人懐こい。
私たちにも昔からの馴染みであるかのように声をかけてくる。
そしてそれに嫌味がない。
皆笑っていて楽しそうなので、何だかつられてこちらも笑顔になってしまう。
広場の一角に、やたらと人だかりの出来ている場所がある。
何だろうと覗いてみると、どうやら遠方の的にナイフを投げる遊びをやっているようだ。
看板が立っていて『五連続的中で豪華賞品!!』などと書かれている。
この『的中』とは、的の真ん中に当てる事のようだ。
今ナイフを投げた男は、真ん中から僅かに外してしまい、「ハイ、二連続ね~」と言われている。
的中の回数ごとに賞品が決まっているようで、一回と二回は『参加賞 たわし』と書かれている。
三回連続で『寝ぼすけ雄鶏 一日飲み放題券』、四回で『領都共通商品券』、そして五回で『ディーズリー 最高級ワイン一箱』。
賞品は数に限りがあるらしく、『たわし』の下に『残り五つ。無くなり次第、飴玉に変更』と書かれている。……というか、たわし、出過ぎなのでは……。
「何故皆、たわしなのでしょう……?」
侍従も同じことを思ったらしい。
その呟きに、すぐそこに立っていた男性が楽し気に笑った。
「挑戦するヤツが、全員酔っ払いだからな。真っ直ぐ飛ぶだけ、御の字だ」
このゲーム、危ないな!!
「おー! やるかね、坊ちゃん!」
進行役の男が楽し気な声を上げた。
周囲も指笛を吹いたり、「待ってました!」と歓声がとんだり、非常に盛り上がっている。
人垣から出てきたのは、一人の青年だった。
パッと見た雰囲気では、私と歳がそう変わらない印象だ。
身形からいって、裕福な家の者なのだろう。上等そうな衣服を身に着け、髪もきちんとセットされている。
そして何より、驚くほどに綺麗な顔立ちだ。
「私が五回連続当てても、ワインは貰えるのかな?」
シャツの腕をまくりながら、楽し気な口調で言った青年に、人垣から笑いが起こった。
「手前で持ってきて、手前で持って帰ったんじゃ、世話ねぇわ!」
「ははは! 確かに! それじゃあ、商品券狙いで行こう!」
「いや、エル坊は商品は辞退しろや」
周囲の人々も「だよなー」などと笑っている。
青年は進行役の男からナイフを受け取ると、所定の位置へ行き、えらく無造作にナイフを放った。
ナイフはストンと小気味良い音を立て、的の真ん中に突き刺さった。
進行役の男がそれを引き抜くと、青年は次をまた無造作に放った。それもまた、真ん中に突き刺さる。
「……凄いですね」
ぼそっと、護衛騎士が感心したように呟いた。
「君なら、何連続くらいいけるだろうか?」
訊ねると、騎士は軽く首を傾げ目を細めた。
「的に当たれば良い方かと……。投擲の訓練などはありませんので……」
「成程」
人垣からは「はーずーせ! はーずーせ!」と大合唱が起きている。
青年はそれに楽しそうに笑うと、三本目のナイフを放った。
ナイフはやはり、的の真ん中を射抜く。
人垣からは「あぁ~!!」と何故か残念そうな声が上がった。
「坊ちゃん、ここで外してこそ、エンターテイナーというヤツですよ!」
的のナイフを引き抜きつつ言う進行役に、青年は楽し気に「はは」と笑った。
「残念だが、私は芸人でも役者でもなく、次期領主だ」
またナイフが的の真ん中に突き刺さる。
「だっから、領主サマが俺らの上前はねてどーすんだ、っつー話だよ!」
怒鳴るように言った男に、青年はにやっと笑った。
「そう言うなら、五連続で的中を出せばいいのさ」
青年の言葉に、人垣から「御尤も!」などと歓声が飛んだ。
というか、『次期領主』と言ったか?
ならばあの青年が、今まさに五連続で的中を出した青年が、エルード・マクナガンか……!
五連続で見事な腕前だったというのに、人垣からはブーイングが起こっている。
けれど、ブーブーと文句を垂れている人々も笑顔なので、半分以上が冗談なのだろう。
青年は進行役の所へ行くと、ワインの入った木箱からボトルを一本取りだした。
「一本だけもらうよ。減った分は、後で誰かに何か届けさせよう。何が届くかは、私にも分からんが」
見ていると、青年はこちらへ向かって真っすぐ歩いてくる。
そして私のすぐ傍まで来ると、私の腕を軽く引いた。
「観光に来られた方かな? あちらでワインでもどうかな?」
言いながら、私の腕を引いて歩き出す。
少々戸惑っていると、青年は私たちだけに聞こえる程度の声で言った。
「ここは危険ですので、どうぞあちらへ。……酔っ払い共は、手元が怪しい」
あ。
彼は私が誰か、気付いている。
気付いていて、危険から遠ざけようとしている。
侍従もそれを理解したのだろう。警戒するように青年を見ていた視線を和らげ、小さく「お手数おかけします」と礼を言った。
人垣を離れ、誰が用意したものか広場の片隅にあるテーブル席に着くと、私は青年に軽く頭を下げた。
「すまない。世話をかけた」
「いえ。……まあ、護衛騎士がついているのですから、そう危険もありはしないかもしれませんが……。ジョーイ、ナイフか何かあるかい?」
青年が声を掛けたのは、その場に居た一人の男性だった。
「ああ、ボトルを貸してください。開けりゃいいんでしょ?」
「お願いするよ」
青年はワインのボトルをジョーイと呼んだ男性に渡すと、私を見て軽く笑った。
「酔っ払いのバカ騒ぎより、もう少し穏やかなものをご覧になられる事をお薦めしますよ。怪我でもされたら、洒落にならない」
「……そうだな。申し訳ない」
確かに、ナイフがすっぽ抜けたりするような事があったなら、怪我をしてもおかしくない。
そしてそれが故意でなかったとしても、『私に怪我を負わせた』となると、それをやった人物は間違いなく咎められる。そして私を危険から遠ざけなかった侍従や騎士もまた、処罰の対象となるだろう。
「……少々、浮かれていたようだ。自戒として胸に刻もう」
私の不用意な行動で、周囲が罰せられるのは避けたい。
「是非、そうなさってください」
「坊ちゃん、開きましたよ」
ナイフ一本で器用にボトルの栓を抜いた男性が、ボトルを青年に手渡した。
「ありがとう。……ミア! グラスを二つ、用意してくれないか?」
近場に居た女性に声を掛けると、女性は楽し気に笑った。
「エル様にお貸しできるような上品なグラス、ウチにあったかしら?」
「品の上下なんぞ、どうだって構わんさ。きちんと洗ってあって、入れたものが漏れないなら、ボウルでも皿でも構わんよ」
「グラスくらいあるわよ! それとも、マグの方がいいかしら?」
「だから、何でもいいさ」
女性は「ちょっと待ってねー」と言うと、ややしてどこかからグラスを二つ持って戻って来た。
「はい、どうぞ」
女性が持ってきてくれたのは、とても綺麗な細工のロックグラスだった。
「……ワインボトルを持ってるのが分かってるのに、わざわざこれか……」
呆れたような青年の声に、ワインの栓を抜いた男が笑った。
「大方、こっちの方が多く入るとか、そんなとこなんでしょうね」
「だろうな」
言いつつ、青年はグラスにワインを注いだ。
とても香り高い、濃い深い赤のワインだ。グラスに注いだだけなのに、ここまで香りが漂ってくる。
後に知った事だが、このワインはえらい希少価値を持つ、とんでもない代物だった。
毎年マクナガン公爵から国王へ、きっちり十箱のみ献上されるそうだ。そしてそれ以外には、市場などに一切出回らない。献上品はエチケットに王家の紋と国章が入れられている。
若くても味や香りがとても良く、熟成を重ねると更に深みが増す。城のセラーには、毎年最低五本は眠らせておくらしい。それを誰がどのタイミングで開けるかは各々の判断らしいが、父は「恐ろしくて手を付けようと思った事もないな」と苦笑していた。
市場に出ない事から、特に値はつけられていない。もし市場に出たとしても、きっと到底手の出ない値が付けられるであろう事は、想像に難くない。
重要な国賓を招いた夜会で少量振舞われる他、特別な勲功のあった者に国王から下賜されたりする品物だ。受け取った者も大抵、開けずに保管してしまうので、『誰も味を知らない幻のワイン』とまで呼ばれるらしい。
青年はグラスを片方、私の正面に置いた。
「どうぞ。なんなら、侍従の方に毒見を兼ねたテイスティングでもしてもらいますか?」
「いや……、その必要はないだろう。……ところで、君は……」
互いに暗黙の了解で話していたが、名乗りもしていない。
青年もそれに気付いたようで、「ああ」と小さく声を漏らした。
「マクナガン公爵家嫡子、エルード・マクナガンと申します。この場で膝を折って礼をする……というのは、殿下の御意思に反するでしょうから、どうぞこれでご容赦を」
軽く会釈をするように頭を下げたエルードに、私は軽く頷いた。
「ああ、充分だ。私は今は君が察してくれた通り、『名乗る』という事は避けたいので、どうかカールと呼んでもらえないだろうか」
「承知いたしました、カール様」
その言葉に、「ん?」と思ってしまった。
「ちょっと待ってくれ。公爵家嫡子である君に遜られてしまうと、結果として私の身分が晒されてしまうのと同義なのではないだろうか……?」
公爵家の者が自らを下に置く相手など、恐らく王家くらいしかない。
私の言葉に、エルードは驚く事に小さく舌打ちをした。
というか、舌打ち!?
別に咎める気持ちはないけれど、面と向かって舌打ちなど、初めてされたぞ!?
「意外と……なんて言ったら失礼か。聡い王子様だなぁ」
うん。物凄く失礼だ。
何だか胡乱な目をしていたのだろう。
エルードが私を見て楽し気に笑うと、置いておいたグラスを手に取り、目の高さに掲げた。
「何て顔をしてるんだか。さあ、とりあえず乾杯といこうか!」
口調が、一気に砕けたものになった。
気付くかどうかを、試されていたのだろうか?
エルードの意図は良く分からないが、私もグラスを持ち上げ掲げた。
「何に乾杯を?」
訊ねると、エルードはやはり楽し気に笑った。
「そりゃあ、この『何でもない日』の『何て事ない出会い』に、だろう。……乾杯!」
この『何でもない日』の『何て事ない出会い』は、私の中で『とても特別な日』の『特別な出会い』になるのだが、それはもう少し後の事だ。