Ep.1 公爵令息エドアルド・アリストと、その周囲の人々。(2)
玄関にあるノッカーを、コンコンと鳴らしてみる。
公爵家の別邸とはいえ、こちらに金目の物など大してないし、重要な書類等もない。なので、本邸のように門衛や私設騎士などが常駐しているという事はない。
なので、私の来訪を邸内の者に伝える術がこれしかないのだ。
……誰も出てこないな?
今日こちらを訪ねる事は伝えてあるので、誰も居ないという事はない筈だが……。
もう一度、ノッカーを鳴らす。
暫く待つと、ようやく「お待たせいたしました」の声と共にドアが開いた。
ドアを開けてくれたのは、管理人のアドルフだった。
「お待ちいたしておりました。どうぞ、中へ」
ドアを大きく開け、中を示す。
それに従い邸内へ足を踏み入れ、少々驚いた。
元々、さほど飾り立てたりなどはしていない邸だ。そもそも領地の端にあり、この地方への何らかの用事がない限り使用しない邸なので、ここへ客人を招く事もほぼないからだ。
その玄関ホールが、以前より更に閑散とした印象になっている。
正面突き当りには確か、名窯の壺があった筈だ。他に、絵画も何点か掛けてあった筈。
「アドルフ……、あそこにあったエイメンの壺はどうした?」
訊ねると、アドルフは僅かに眉を寄せた。
「……旦那様の命で、売却いたしました……」
ああ……。全く、あの人は……。
ならば、私の記憶にある他の美術装飾品の類も、同様の道を辿ったのだろう。訊くまでもない。
「邸内の備品を売り払った事は、兄上には?」
「ご報告済みでございます。ロバート様からは、捨て置け、とだけ……」
安定の、兄上ですね……。
まあ確かに、美術品なども我が家の資産ではあるが、こちらにあるような品々は本邸に比べたら大した金額の物ではない。
勝手に売り払われたとて、さほど痛むような懐事情でもない。
というか父は、まだ兄を怒らせ足りないのだろうか。
公爵家からの絶縁でも待っているのだろうか。
アドルフの案内で、邸内を歩く。
使用人もアドルフを入れて六人しか居ない邸だ。とてもしんとしている。昼下がりの貴族の邸とは思えない静けさだ。
「父は今、どうしている?」
アドルフに訊ねると、アドルフは僅かに言い辛そうに瞳を伏せた。
返事を待つと、ややしてアドルフが小さく息を吐いた。
「……お休みになられております」
寝ている?
「どこか体調でも悪いのだろうか?」
「いえ……。ここ数カ月の、旦那様の通常の生活でございます。……朝方に床にお就きになり、夕刻まで休まれます。そして少量のお食事を召し上がられ、以降は自室にてお酒をお召に……」
うわぁ……。
絵に描いたような没落の仕方じゃないか……。
壺や絵画を売ったのは、酒代が足りなかったからか……。
その生活の改善を……などと兄に言っても、無駄だろうな。いずれ身体を壊すのが目に見えているのだから、それからでないと恐らく兄は動かないだろうな。
私を先導するように歩いていたアドルフが、一つの部屋の前で足を止めた。
「お嬢様、エドアルド様がお着きになられました」
扉をノックしつつアドルフが言うと、少々の間の後、部屋の中からドアが開けられた。
「……エドお兄様……?」
細い声。
あの、根拠の全くない無意味な自信に溢れていた妹は、何処へ行ったのか。
細く開けられたドアの隙間から、妹は目だけでこちらを窺うように見ている。
「ロ……ロバートお兄様は、ご一緒ではありませんよね……?」
「ないよ。私一人だ」
明らかにほっとしたような吐息が聞こえた。
気持ちは分かるが、もう少し堪えなさい。
腹芸の一つも出来ない所は、相変わらずのようだ。
この妹は、良く言えば素直なのだ。……まあ、それより『愚か』という方が正しいのだろうが。
令嬢としての振る舞いを理解していない。それ以前に、『貴族とは』という点から理解していないが。
「……どうぞ、お入りください」
私を招き入れるよう、大きくドアを開けてくれる。
妹の部屋へ入り、少々驚いた。
妹は王都の邸を出る際、自室にあった様々な装身具や小物、ドレスなどを大量に持ち出していた筈だ。
それらがこの部屋には見当たらない。
唯一、ベッドサイドにお気に入りの少女の人形があるくらいだ。
妹の身形も、王都に居た頃と大違いだ。
常に「どこの夜会に出るつもりか」と問いたくなるようなドレスを着用していたのが、いっそ質素とも言えるワンピース姿だ。アクセサリなども付いていない。
長かった髪も、肩の下あたりで切り揃えられている。
「……随分、変わったね」
言うと、妹は小さく笑った。
「そうですね。ドレスなんかは一人では着られませんから、こういった服装が楽で良いです。髪も、手入れに人手と時間がかかるので、切ってしまいました」
……本当に、随分と変わった。
「ドレスやアクセサリなんかは、どうしたんだい? 見当たらないが……」
「大半は、売ってしまいました」
とてもさばさばとした口調で、笑顔で言う。
これは本当に、あの妹だろうか……。
「今のわたくしは、茶会などに出る事もございませんので。アクセサリなどはまだ保管してありますが、ドレスなんかはサイズも流行もありますから」
「確かに、そうだ」
はい、と頷く妹は、やはり穏やかな笑顔だ。
あの癇癪持ちの生意気な小娘は、どこへ行ったのだろう。
「売った金なんかは、どうしているんだい?」
「全て、保管してございます。……お兄様にお渡しした方がよろしいでしょうか?」
「いや、いいよ。それはお前が持っていなさい」
「はい」
妹のドレスなどは、相当の金額がかかっている。
妹の言う通りに流行などはあるが、それでも一級品の素材で制作された品だ。それなりの額で売れるだろう。
「父上にとられないよう、隠しておきなさい」
言うと、妹がくすっと僅かに楽し気に笑った。
「お父様はわたくしがドレスを売った事にすら気付いていません。それに、お金はアドルフにも相談して、絶対に見つからない場所に隠してありますから、大丈夫です」
「それは安心だ」
装飾品を売り払うような父だ。
妹の手元にある程度の纏まった金銭があると知れたら、間違いなく取り上げるだろう。
ああ、本当に……。
あの父は、妹にとって良い事など何も齎さないな。
使用人に茶を運んでもらい、妹の部屋で質素なテーブルを挟んで向かい合うように座る。座るソファも、本邸にあるような物ではない。
粗末なものではないが、高級品でもない。
「……ロバートお兄様は、わたくしの事をお怒りでしょうか……?」
お茶を一口飲み、妹がぽつっと呟くように零した。
お怒り……ではないな。
良くも悪くも、誰かに対して『感情が動く』というのは、関心があるからだ。
兄は妹に対して、既に関心を失っている。無い物は、動きようもない。
「特に怒っていたりはしないよ」
まあ、本当の事を全て正直に話す必要などない。
妹は私の言葉に少し安堵しているようだが、『怒り』と『無関心』では、一体どちらがマシなのだろうか。
……睨まれないだけ、無関心がマシな気がするな……。何と言っても、相手はあの兄だからな……。
「ここから出たいという事だが……、何処へ行きたいなどの希望はあるかい?」
「特には」
ふるふると首を振ると、妹は瞳を伏せた。
「お父様と離れられるのであれば、それで……」
あれだけ父に懐いていたというのに、変われば変わるものだ。
妹の話では、父はこちらに送られた当初、酷く荒れていたらしい。
父の視点からするならば、それまで何とも思っていなかった己の息子に、突然牙を剥かれた心持だったのだろう。飼い犬に手を噛まれる、とでも言おうか。
尤も、それは『父の狭く歪んだ視界』にそう映っていただけの話だが。
誰のおかげで贅沢な暮らしが出来ていると思っているのか。
学院へ通えていたのも、誰のおかげと思っているのか、と。
……双方、どう考えても父のおかげではない。
それに、言うほど『贅沢』な暮らしなどしていない。『普通の貴族の生活』の範疇だ。父に限っては、贅の限りを尽くしていたようだが。
それにしても、元となる財を築いたのは父ではなく、祖父やそれ以前の当主たちだ。
兄や私が学院へ通っていたのは、紛う事無く私たち自身の努力の賜物だ。
あの学院は、殊『学問』という分野において、一切の不正を許さない。当然、金で買える学位など、あそこには存在しない。社会的な肩書も意味を為さない。
というか、兄に対して言いたい事があるならば、本人にぶつけてはどうだろうか。
恐らくというか確実に、とても生き生きとした良い笑顔で兄が対応してくれるだろうに。
私は知らなかったが、父は何度も、兄に宛てて手紙を書いていたらしい。当然、全て握り潰されたようだが。
兄に取り付く島がないと分かると、邸の執事に宛てて。
……それも、全て兄に握り潰されたようだ。
最終的には母に宛てても手紙を送ったようだ。
返事はあったようだが、内容は推して知るべしであろう。女性というのは、一度見限った相手に対しては、とことんまで冷ややかな対応をしてくるものだからな……。
私にはそういった書状などは届いていないが、兄が握り潰したのか、それとも父にとって私は取るに足らない存在だったのか。
まあ、どちらでも構わない。
父に親としての愛を乞うような歳は、とうに過ぎ去ってしまったし。
面倒が降りかからず済んで何より、と思ってしまうあたり、私も兄の事ばかりは言えない程度には問題がありそうだ。
とにかく、王都に居る公爵家の主要な人物には、全員相手にされないと父は理解したようだ。
次に父は、己が公爵であった頃に自分を取り巻いていた連中に宛てて手紙を送った。
当然だが、一通の返事もなかった。
……うっきうきの兄に、完膚なきまでに叩きのめされた家なんかもあるからね。我が家と関わりたくない気持ちは、さぞ大きかった事だろう。
父だけならば、煽てればいくらでも踊る御しやすい相手であっただろうが、彼らは今は父の背後に兄を見る。
迂闊に手を出せば、倍以上になって返ってくると知っている。
それは近寄りたくもないだろう。
思いつく限りに手紙を送り、結果は一通の返信もなし。
何の伝手も無くなった父は、それまでの荒れようから一転、口数も無くなり自室へ籠るようになったそうだ。
己自身に何の求心力も人望もないと思い知ったのだろうか?
自室へ籠り、要求するのは酒ばかり。
せめて食事を……と勧めた使用人を怒鳴り、部屋から追い出し、ドアには施錠までする始末だ。
そして、思い出したように妹の部屋のドアを叩くのだそうだ。
初めのうちは、妹も父を不憫に思い相手をしていたという。
けれど、酒臭い父の口から吐き出されるのは、兄や王家に対する怨嗟の言葉のみだ。
妹は「何故誰も、このような酷い状態の父を助けてくれないのだろうか」と思ったらしい。
その疑問に答えてくれたのは、妹の世話を頼んだ侍女だった。
彼女は子爵家の三女で、下位とはいえ貴族の令嬢である。故にそれなりの教育を受けている。
というか、妹より余程、『貴族令嬢として』上出来な女性だ。
彼女は妹に対して、『妹と父が一体何をしてしまったのか』を懇切丁寧に語ってくれたそうだ。
妹が理解出来るまで、何度も、何度も。
後でその侍女に、その際の礼を伝えに行った。
きっと彼女がしてくれた事は、本来ならば私たち家族がしなければならなかった事だからだ。
彼女は私の言葉に、少しだけバツが悪そうに苦笑した。
「いえ……。エドアルド様にお礼など言っていただけるようなものではございません。ただ、わたくし個人が腹が立ったのです」
腹が立つ、とは?
「我が家は決して裕福とは言い難い子爵家です。それでも何とかやりくりし、公爵領に比したら狭小な領地をどうにか管理し、領民がより豊かに生活できるにはどうしたら良いか、わたくしたちがもう少しでも生活に余裕を持つにはどうしたら良いか……と、毎日頭を悩ませて生活しております」
彼女の生家は、確かに少々困窮している。
理由は簡単だ。
はっきり言ってしまうと、領地経営の才がないのだ。
以前一度、執事に相談を受け、彼女の生家の子爵家に経営法のアドバイスをした事がある。執事が私に相談してきたのは、彼女の生家の余りの経営の下手っぷりを見かねての事だった。
「筆頭公爵家などという我が家とは雲泥の差のある大貴族様であっても、エドアルド様もロバート様も奥様も、我が家の者と変わらずそれぞれの為すべき事を日々考え、実行されておいでです」
まあ、それはそうだろうな。
事業ややっている内容、規模などに違いはあっても、基本的に彼女の家と大差はないだろう。
「ですがお嬢様と旦那様は、その成果をただ享受し、成果となる前の『過程』に一切関与されません。だというのに、公爵家のどなた様よりも消費する金銭は多く、文句も多い」
「つまり、『自身の立場が分かっているのか』という事かな?」
言うと、彼女は苦笑しつつ頷いた。
「申し上げづらいのですが……はい。仰せの通りにございます」
彼女の生家は、困窮はしていても『貴族』だ。
その矜持と意味を忘れていない。
爵位の高低に関わらず、彼らは尊敬すべき『貴族』である事は間違いない。
「君が、妹の側に居てくれて良かった」
『貴族』というものの意義を理解する彼女が。その正反対ともいえる妹の側に居てくれて。
私の言葉に、彼女はとても綺麗に礼の姿勢を取った。
「勿体ないお言葉、恐悦に存じます」
彼女に「カーテシーの姿勢が美しいね」と告げると、彼女は僅かに照れたように頬を染め微笑んだ。
格式の高い夜会などに出席する事はないが、デビューの大舞踏会の為に一生懸命に練習したのだそうだ。それも昨年終え、「カーテシーなど、もう披露する場もないかと思っておりました」と楽し気に笑っていた。
その彼女に何度も何度も諭され、妹も徐々に理解し始めた。
己の何が間違っていたのか。
父の何が間違っていて、何がおかしいのか。
大茶会でやらかした後、王妃陛下から言い渡された『一年間の登城の禁止』という罰。
それを当初は「どうしてそこまで!」と思っていたらしいが、やってしまった事を考えると、それが大分優しい措置である事にも気付いた。
だというのに、その後、陛下に不平不満を言う父に同調した。
「余りに愚かで、恥ずかしい行いでした……」
顔を伏せ小さな声で言う妹は、本当に恥じているらしく僅かに頬が赤い。
ようやくこの妹も、『貴族令嬢として』のスタートラインに立ったようだ。
……大分遅いが。まあ、遅すぎるという事もなかろう。
「フローレンス、どうする? 王都の邸へ戻るかい?」
今の妹ならば、王都の邸でも普通に暮らせそうだ。
「正直申し上げまして……、王都へは、余り……」
言い辛そうに言葉を濁した妹に、私は先を促した。
「王都の邸へ戻りましたら、社交を行わねばなりませんでしょう……? 茶会などに参加しても、そこに居る他のご令嬢方は、以前のわたくしを覚えておいでの方ばかりですので……」
ああ……。まあ、それはそうだろうね。
王家主催の茶会で掴み合いの喧嘩をする令嬢など、前代未聞だ。
その当事者を忘れる事は、かなり難しいだろう。
妹にとっては、王都での社交など針の筵に他ならない。
「あと……、お母様やロバートお兄様に、合わせる顔がなくて……」
……うん。
母はともかくとして、兄には確かに、会わない方が良さそうだ。
「ロバートお兄様は、わたくしを政治利用しようとお考えでいらっしゃいますか……?」
「いや。それはないな」
というか、以前までの妹が酷すぎて利用しようにも出来ない、が正確なところだが。
貴族令嬢の政治利用とはつまり、政略の下での婚姻だが……。
王妃陛下の不興を買った妹を欲しがるような、奇特な家はそうないだろう。
現に今も、妹への婚約の申し込みなどは一件もない。
「でしたらわたくしは、もう暫くは王都から離れた場所で、静かに暮らしていきたいと思います」
「うん。分かった。……他に要望なんかはあるかい?」
「一つだけ。……グレイスを、私と共に連れて行ってもよろしいでしょうか?」
グレイスとは、例の子爵家三女の侍女だ。
「こちらとしては構わないが、一応、彼女の意志を確認して、かな? 取り敢えず、急いで家なんかを手配するから、それまではお前は領都の本邸で暮らしなさい」
「はい。ありがとうございます」
深々と頭を下げる妹に、私は「妹に頭を下げられるなど、初めてだな」と思ったのだった。
その後、領都の端に小さな家を用意し、妹はそこでグレイスと二人で暮らしている。
一応、領都の警備に当たっている騎士たちに、定期的に見回ってもらうよう頼んである。
特に働かずとも暮らしていけるだけの金銭は仕送っているが、妹はレースを編んだり刺繍を刺したりして小銭を稼いでいるようだ。
それら日々少しずつ稼いだ金で、母の誕生日にショールを贈ってくれた。洋品店で購入したショールに、妹が刺繍を刺したものだった。
受け取った母は、自室で一人泣いていたそうだ。
兄の誕生日にも何か贈ろうとしていたらしく、私宛に「ロバートお兄様は、何を差し上げたら喜んでくださるでしょうか?」と手紙が届いた。だが、残念ながらそんなもの、私も知らない。
無難に、刺繍を施したハンカチなどで良いのでは?と返しておいた。
案の定、受け取った兄の反応は非常に薄かったが、捨てずに持っていてはくれているようだ。使っているところは見た事がないが。
私には「グレイスと二人で、一生懸命選びました!」と、ネクタイとポケットチーフのセットが送られてきた。
高級店の品物で、流石に妹の刺繍などは入っていなかった。
私には刺繍は入れてくれないのかい?と、礼状に戯れに添えてみたら、「あんな高級なお品に、わたくしなどが手を入れてしまっては台無しではないですか!」と憤慨した返事と、妹の刺繍入りのハンカチが送られてきた。
あんな高級なお品、か。
かつて妹が持っていたドレスの、最も安い一着にも満たない額の品物なのにね。
成長したものだな、と嬉しくなり、母にもそのエピソードを話して聞かせた。
母も嬉しそうに笑いながら、そっと目元の涙を拭いていた。
私は兄から領地の管理を任されていたので、一年の内数か月程度、領地に滞在する事となる。
その際、ちょくちょく妹の様子を見に行っていた。
妹は日々、刺繍を刺したり、レースを編んだり、あんなに嫌っていた読書に励んだり、料理を作ったりと、何かと忙しそうに、けれど楽しそうに暮らしていた。
様子を見に来た私に、手製の菓子をふるまってもくれた。
形は少々歪で、焼き加減にもムラのあるスコーンだったが、素朴な味で美味しかった。
その菓子を、見回りに来てくれる騎士たちにも差し入れていると、笑いながら教えてくれた。
そして先日、兄の婚約が決まった際、妹に宛てて手紙を書いた。
婚約者である王女殿下と、私たち家族とで顔合わせがあるが、出席するかい? と。
返事には「王妃陛下の御前に出る勇気がありませんので、申し訳ありませんが、欠席させてください。ロバートお兄様には、おめでとうございますとお伝えください」と書かれていた。
その手紙を受け取り、まあそうだよな、と思うと同時に、「欠席出来ていいなぁ!」と思った。……心の底から思った。
* * *
そうこうしている内に、城へ到着してしまった……。
兄にとっては、毎日通っている職場でしかないだろう。母にとっても、今更驚く事などない場所だろう。
だが私は違う。
基本的に、私は城など縁のない人間だ。
公爵家次男ではあるが、早々に兄が爵位を継いだ為、今の私には社会的な地位はないに等しいのだ。
それをいい事に、夜会などは殆ど出席していない。
最後に城の夜会に出たのは……、……二年、前? いや、一年半……? ちょっと思い出せないくらい以前の事だ。
兄は王太子殿下の側近ではあるが、私は殿下と直接お言葉を交わした事は数える程しかない。しかもそれも、挨拶程度の言葉数だ。
両陛下となど、一度もない。
ついでに、リナリア殿下ともない。
城の侍従の方に案内され、城の自慢の大庭園へと通された。
晴れ渡った青空に、庭園の緑が良く映える。片側に大きくせり出す城のヘーベル翼の純白も美しく、圧倒される景観だ。
そしてその大庭園に、とても美しく設えられたテーブルセット。周囲には、王族を警護する護衛騎士たち。
護衛騎士が控えているという事は、本当にこの場に王族の方がおいでになるという事だ。彼らが護衛する対象は、王族と準王族、そして国賓のみなのだから。
うわぁー……。本当に、これから王族の方々とお会いするのかぁ……。
席へと促されたが、落ち着かない。
テーブルセットをざっと見る。クロス、カトラリー、ティーセット、全てが恐ろしいくらいの一級品だ。
間違っても粗相など出来ない……。
妹よ……。
良くもこの場で喧嘩など出来たな……。その度胸が羨ましいよ……。
ふと、あれ?と思う。
私たちが座る椅子が三脚。そして他に空席は二つ。
一つはリナリア殿下だろう。残るはもう一つだ。
国王陛下か王妃陛下か、どちらかお一方だけお見えになられるという事か。
少しだけ、緊張が緩んできた。……それでも、緊張している事に変わりはないが。
ややして、「殿下方がお出ましになります」と侍従の先触れがあった。
席を立ち、礼をして待つ事暫し。
数人の足音がし、それが間近で止まる。……ていうか、誰がおいでになられたんだ!? 侍従、そこんとこ教えといてくれよ!
「どうぞ皆さま、お直り下さい」
静かな、『鈴を振るような』という形容にぴたりと合った、澄んだ美しい声だ。
頭を上げるとそこには、リナリア王女殿下と、その一歩後ろに王太子殿下がいらした。
……眩しい兄妹だなぁ……。
お二人とも、お顔立ちは非の打ちどころなど一点もなく整っている。すらりとした長身で、手足も長い。
王女殿下はほっそりと嫋やかでいらっしゃるし、王太子殿下は痩身であられるが貧相な印象は全くない。
兄も私も、見目は良い方と自負しているが、このお二方の前では霞むどころか話にすらならないなぁ。
「まずはどうぞ、お席へ」
リナリア殿下のお言葉に、侍女や侍従の方々がさっと動き、私たちを座るよう促してくれる。
あっという間に、テーブル上にお茶の支度が整った。城の使用人というのは、やはり一貴族家の使用人とは訳が違うんだな……。
「夫人、それにエドアルド」
王太子殿下にお声をかけられ、母と二人で軽く頭を下げる。それに「いや、顔を上げてくれ」と殿下のお声。
「本来この場には、王妃陛下……母が臨席する筈であったのだが、急な執務が入ってしまったのだ。わざわざ来てもらったのに、両親が不在である事、申し訳ない」
「いえ。とんでもない事にございます」
母が少々慌てたような口調で言い、また頭を下げる。
ていうか殿下、軽ぅく謝罪などされないでください!
却ってこちらが恐縮してしまいます!
頭を下げる母に、殿下は小さく笑うと「顔を上げてくれ」と仰る。
殿下……、今年で十八歳であられたよな……。
私より三つも年下か……。なのにこうも落ち着いておられるのか……。
これが『王族』というものか……。
「お二方とこのような場でお話するのは、初めてですわね。リナリア・フローリア・ベルクレインと申します」
ふわりと微笑まれるリナリア殿下に、母と私もそれぞれ簡単に名乗る。
「今回の事は急な話で驚かれたかもしれません」
はい。驚きました。
半端なく驚きました。
……とは思っても、口には出せないけれど。
「目の前で経緯を見させられても驚くのだ。後から報告だけされる側は、その比ではなかろうよ」
呆れたような殿下のお言葉に、更に驚いてしまう。
ていうか、……えぇ!?
王太子殿下の目の前で!? 何してんの、王女殿下も兄上も!
「これといった前触れもなく、リーナがいきなりロバートに『己を伴侶と選んでくれ』と言い出したかと思ったら、数分後には話が纏まっていた……。私は一体、何を見させられているのだろうかと思ったな……」
「妹の門出を、祝福してくださいませんの?」
「いや、めでたいとは思っているよ。……お前もロバートも、縁談の話になる度に機嫌が急降下するからな。それがなくなるのは、素直に有難い」
溜息をつかれる殿下に、『ああ、やっぱりか……』と思ってしまう。
やはり、このリナリア殿下というお方は、兄とよく似ているのだろう。
縁談の申し込みが舞い込む度、兄の機嫌は悪くなるのだ。しかも『緩やかに下降』ではない。墜落する勢いで急降下するのだ。
先方からの書状を眺め、無表情で舌打ちをする兄は、本気で近寄りたくないレベルで怖い。
「ロバートも、最近は機嫌が良さそうで結構な事だ」
「お陰様で」
にこっと笑った兄に、王太子殿下が呆れたように小さく息を吐かれた。
殿下は今度は母を見ると、苦笑するように微笑まれた。
「夫人、王妃陛下より伝言を預かっている」
「何でございましょうか?」
軽く首を傾げた母に、殿下は一度ちらりとお隣のリナリア殿下をご覧になられた。
「リーナは知識は人一倍あるが、いささか『経験』に乏しい。これまで王女として暮らして来た娘であるが故、『一貴族として』の振る舞いや常識などに疎いところもあろう。夫人には是非、それらを『義母として』指導、鞭撻してやって欲しい……との事だ」
王太子殿下のお隣で、リナリア殿下が「宜しくお願いいたします」と頭を下げている。
母も殿下方に向け頭を下げた。
「わたくしの方こそ、殿下の師となるには不出来でございましょうが、宜しくお願いいたします」
母は頭を上げると、苦笑するように笑い、僅かに目を伏せた。
「自身の娘の教育は、上手く出来ませんでしたもので……。わたくしに『誰かを導く』など、烏滸がましいというものでしょうが……」
「貴女が育てた長男は、私にとっては片腕程度にはなっているのだが……、それでは不足だろうか?」
母の気持ちを軽くする為だろう。僅かばかりおどけたような声で仰る王太子殿下に、母は伏せていた視線を上げた。
「いいえ、殿下。……お言葉、有難く存じます」
微笑む母に、王太子殿下も軽く笑われた。
「それにさほど気負う事もない。リーナなど、中身はロバートと大差ない。『娘』と思わず『息子』と思えば良かろうよ」
ああ……。確定だ。
兄と王女殿下、双方をご存知の王太子殿下がそう仰るのだ。
やはりこの二人は、似たものなのだな……。
そこへ侍従がやって来て、王太子殿下の耳元に何か囁いた。殿下はそれに頷かれると、椅子から立ち上がられた。
「申し訳ないが、私は執務に戻らねばならないようだ。折角来ていただいたというのに、慌ただしくて済まない。後はのんびり、茶でも楽しんでいってくれ」
王太子殿下はそう仰ると、城の方へと歩いて行ってしまった。
残った私たちは、リナリア殿下と四人、お茶を楽しみながら他愛ない会話をするのだった。