Ep.2 君が『友』と呼んでくれるよう…… (5)
私に手を貸してくれると言ってくれたエルードに甘える事にし、「領都の街を案内してほしい」とお願いしてみた。
エルードはそれを、笑顔で了承してくれた。
王都では、市井の民と触れ合う事などほぼない。折角の機会なので、普段出来ない事をしてみようと思ったのだ。
私の方には日々の『都合』などないのだが、エルードはそうはいかない。
なのでエルードに合わせ、数日後に会う約束をした。
誰かと会う約束を、『楽しみな気持ちで待つ』というのは、初めての経験だ。
それまでの私にとって、誰かとの面会の約束などは、大抵が気乗りしないものであったからだ。
余程浮かれて見えたのだろう。
侍従に「ご友人とのお約束が楽しみでいらっしゃるのは分かりますが、もう少々落ち着かれてはいかがですか?」と苦笑されてしまった。
ご友人。
私とエルードは、『友』なのだろうか。
いや、そもそも『友人』とは何だ? 『知人』より親しみのある間柄なのであろうが、その定義するところとはなんだろう。
……エルードに、訊ねてみようか。
大笑いされる気がするが。
約束の日。
そもそも雨天・荒天の少ない我が国であるので、この日もすっきりと良く晴れた天気であった。
変装などをしていった方が良いのだろうか……とも考えたのだが、どうせまた「似合わない」と言われるのが関の山かと、小細工をせずそのまま出かける事にした。
まあ一応、服装だけは常の物より質を落としてある。
遠目から見てすら、いかにも『貴人です』と大声で喧伝するかのような服装は、恐らくあの街には似つかわしくないであろうと思ったからだ。
待ち合わせ場所は、領都の中心部にある広場だ。
先日の祭りでは、多数の露店が建って人がひしめき合っていたあそこだ。
到着してみたが、まだエルードの姿はない。……まあ、時間より少し早いからな。
広場はあの日とは違い、平和でのんびりとした光景だった。
広場の中心に、大きな噴水がある。
北側に山林を有し、長大な河川が領を縦断するこの地は、水資源がとても豊富だ。豊富過ぎて、何年かに一度は河川の氾濫が起こるくらいだ。
大きな噴水は、いかにもこの地らしい構造物だ。
……しかし、噴水の中心部の彫像が、何だか不思議だな……。
一番下の土台の部分には、多数の花が彫刻されている。それはまあいい。見た事のない花が多いが、きっと職人たちが趣向を凝らしたのだろう。
その花の上に、熊。何故、熊。しかも魚を咥えた、いかにも獰猛そうな熊の姿だ。
熊の背後には、大きな木。葡萄の木らしく、枝を左右に大きく伸ばした先に、葡萄の房が実をつけている。まあ、葡萄というかワインは名産だしな。
その葡萄の樹上にはふっくらとした体形の女性の像が、ゆったりと腰を下ろしている。が、その女性の手には立派な剣が握られている。
武具を持つ女性の像というのは、ないものではない。が、そういうものは大抵が神話や過去の逸話になぞらえて、戦女神の像であったり戦乱の際に活躍した女性軍人の像であったりするのだが、どう見ても服装がそこいらの一般の女性だ。
そして彫像の一番上には、立派なテーブルセットに年老いた男性二人が向かい合わせに座り、チェスを指している。
……雑多すぎる。
一体なんだ、あの彫像は……。
彫像にしろ絵画にしろ、普通は何かテーマがある筈なのだが……。
ただ何故だろうか。
あの雑多で意味の分からない雰囲気が、この『マクナガン公爵領』にえらくぴったりだと感じてしまう。
雑多で意味不明な彫像の上部から水が噴き出しており、雑多で複雑な形状の彫像のあちこちで水が撥ね、細かな飛沫がキラキラと陽の光を反射している。
噴水としては、美しい部類であるのは間違いない。
……意味が分からない、という一点を除いて。
「不思議な意匠の噴水ですが、美しいですね」
言う侍従に頷く。
中央の像はとても立派で、複雑な造形も見事なものだ。……全く意味は分からないが。
その不思議な噴水の周囲には、縁に腰かけワインを片手にチェスを指す老人たち、読書をしている青年、ただ日向ぼっこをしているらしき男性、座り込みお喋りに興じる女性……と、様々な人がそれぞれの過ごし方を満喫している。
実に平和で、良い光景だ。
エルードに指定された待ち合わせ場所は件の噴水であるので、私もその縁に腰かけた。
日差しが少し暑いくらいだが、背後から噴水の飛沫と水の冷気が漂ってきて心地よい。
成程。ここは日向ぼっこには最適だな。
暫く座ってぼんやりとしていると、エルードが歩いてきた。
立ち上がった私に、エルードは笑うと「待たせたかな?」と言ってきた。
「いや。私が早く着き過ぎただけだ。それにここは、とても気持ちが良い。のんびりと待つには丁度良い場所だな」
「そうか。気に入ってくれたなら何よりだ」
「エル様、ちょっとそこ、退いてください」
いきなり声をかけられそちらを見ると、年若い女性が立っていた。
突然声をかけてくるのも驚くが、「退け」と言ってくるのにも驚く。
……本当に、ここの人たちは、エルードの身分なんかを気にしないのだな……。いや、『そう接しても大丈夫』という信頼あっての行動か。
エルードは「ああ、すまないね」と女性に謝ると、私の手を引いてその場から数歩離れた。
女性は真剣な目で、噴水をじっと見ている。
「一体、何なんだ? あの場所が、何かあるのか?」
「ああ……、まあ、とりあえずは見守ろうじゃないか」
エルードは笑いつつ言うと、噴水を睨みつける女性を指さした。
「彼女の健闘を祈ろう」
健闘を? 祈る? 何が?
見ていると、女性は掛けていたエプロンのポケットから、何かを取り出した。コイン……だろうか。
それをぎゅっと両手を組み合わせるように握りしめ、目を閉じ、何事かをぶつぶつ言っている。
ややして女性は目を開けると、コインを握りしめた右手を大きく振りかぶり、コインを力いっぱいに噴水に向かって投げつけた。
「えぇ……?」
……何をしているのだ?
コインは流れ落ちる水に飲まれ、そのまま噴水の中に落ちてしまったようだ。
「あぁー!! イケると思ったのにぃ!!」
えらく悔しそうに地団太まで踏む女性に、エルードだけでなく、チェスを指していた老人たちや、日向ぼっこの男性なども笑っている。
「マイナ、素直にクマちゃんサイドから投げりゃいいんだよ」
老人の言葉に、女性はべっと舌を出した。
「それじゃ意味ないの! だってあたし、クマちゃんサイド、攻略完了してるもの!」
「だからっていきなり、牛殺しのメイサイドは無謀だろ」
「それくらいの意気込みで、叶ってほしい願いがあるって事よ!」
「……何なのだ?」
この一連の行動は。
「噴水にコインを投げ込んで、あの像まで届くと願いが叶う……かもしれない、とか言われているんだよ」
……随分とあやふやな謂れだが。
「ほら。あのクマの像がある辺り、あの辺は落ちてくる水の量が少ないだろう? だから、あの辺から投げると、大体が像まで届く」
エルードに言われ見てみると、確かにクマが居る辺りは、落ちてくる水がまばらで、水に遮られていない箇所も多い。
それが先ほど聞いた『クマちゃんサイド』というものか。
「で、今彼女が投げたこちら側は、一番水の量が多い。あの水を突っ切ってコインを噴水に当てる事が出来れば、願いも多分叶うんじゃないか?とか言われている」
だから、何でそうあやふやなんだ……。
「因みに、言い出したのは、酔っぱらった我が家の祖父だ。なので信憑性はほぼない。……が、何故か皆、コインを放り投げに来る」
エルードは噴水に近寄ると、私を呼んだ。
呼ばれて行ってみると、エルードは噴水の中を指さした。
「ほら。ちょっとした貯金箱状態だ」
噴水の中には、様々なコインが沈んでいる。コインに交じって、何かのメダルや陶製のボタンのようなものも落ちている。
「冬になるとこの噴水も止めるのだが、その際に掃除をするんだ。その掃除の時に、この小銭も一斉に回収される」
「回収したコインは、どうするのだ?」
見た限り、結構高額なコインもあるようだ。中には他国の通貨まである。
全部集めたら、それなりの額になりそうだ。
「この広場の整備に使われるよ」
エルードは言うと、広場の一角を指さした。
そちらには、石造りのテーブルと椅子のセットがある。遠目に見ても、細工の美しい品物だ。貴族の庭園にあってもおかしくなさそうな品物である。
「あれなんかも、この噴水のコインで設置された物だ。他にも、剥げた石畳の補修や、街灯、遊歩道の整備なんかにも使われるね」
「成程……」
無駄になる事がないと分かっているから、ああも躊躇いなくコインを放り投げる事が出来るのか。
「そういえば、この噴水のモチーフは何だ? 雑多で良く分からないのだが……」
訊ねた私に、エルードが楽し気に笑った。
「モチーフは『マクナガン公爵領』……かな? まあ確かに、見れば見る程訳の分からない像だが、何故こうなったかという理由は、きちんと当時の公文書として残っている。興味があるなら、見てみるかい?」
「そうだな。多少、興味はあるかな」
「では後日、資料を貸そう」
そう言って締めると、エルードは歩き出した。
「さあ、カール。今日は君に、是非とも見せたいものがあるんだ。こっちだ」
言って、スタスタと歩いていくエルードを、私は速足で追いかけた。
「見せたいもの、とは?」
「詳しくは、到着してからにしよう。ほら、さっさと歩け」
エルードの歩調は、特に急いでいる風でもないのに速い。追いかける私は、どうしても小走りのような格好になってしまう。
「もうちょっと……歩調を緩めてくれないだろうか……」
少し息が上がってきた。情けない。
あの祭りの日のちょっとした登山以来、少しずつ運動する量を増やしてはいるのだが。それでもまだ数日しか経っていない。体力など、一朝一夕でつくものではない。
国政は激務なのだから、体力はあるに越した事はない。
分かってはいても、どうしても身体を動かす事が億劫で、後回しにしてしまいがちではある。これまでの生活を振り返っても、休日は部屋でのんびりと過ごす事が断然多かった。
運動は苦手な訳ではないのだが、積極的に「さあ、やるか!」という気にならないのだ。どうしても面倒くささが先に立ってしまう。
それよりも、一冊でも多く本を読みたいと思ってしまう。
別に悪いという事はないのだろうが、もう少し運動する時間を増やそう。特に今は、体力も以前より格段に落ちてしまっている事だし。
「ああ、すまない。病み上がりだったな」
エルードは気付いたように言うと、歩調を落としてくれた。
申し訳ないやら、情けないやら……。
「君は運動なんかは得意ではないかな?」
揶揄うような口調で言われ、思わず視線を俯けてしまう。
「得手・不得手というより、それをする時間と労力を考えてしまうと、結果として他の事を優先してしまう……という感じだろうか」
「成程」
エルードは納得したように頷くと、私を見て軽く笑った。
「だが、君はもう少し体力をつけた方がいい。何をするにも、まずは健康な肉体がなくては話にならん」
「……その通りだな」
全くもって、エルードの言う通りだ。
「カール!」
呼びかけられ顔を上げると、エルードが呆れたようにこちらを見ていた。
「顔は上げろ。しっかり前を見ろ。足元ばかり見ていては、己が今何処を歩いているのかも分からんだろう」
「ああ……」
それもその通りだ。
『当たり前』を指摘される事の、なんと多い事か。
本当に、エルードから見た私は、幼い子供と大差がないのではなかろうか。
しかも相当に頭でっかちな子供だ。そこいらの無垢な子らより、扱いは面倒くさいだろう。
情けなさからまた俯きそうになり、慌てて「そうではない」と己を正す。
俯くのではなく、正面を見て、そこに居る己をきちんと見なければ。
折角、『当たり前』を腐らずに指摘してくれるエルードがそこに居てくれるのだから。
昼下がりの街中を、歩調を少し落としてくれたエルードに案内されながら歩く。
先日の祭りの喧騒とはまた違う、人々の日々の営みの喧騒が、喧しく騒々しいのだが、不思議と穏やかに響いている。
『活気がある』という言葉がぴったりだ。
商店の店主らは、通りがかる人々に気さくに声をかけている。声をかけられた者は、やはり気さくな笑顔と声でそれに応える。
子供らのはしゃぐ声、それを叱る女性の声、その光景に楽し気に笑う大人たち。
とても平和で、良い光景だ。
そして、彼ら一人一人が、この街の何処かで暮らしている。
私が先日あの山の上で見た明かりのどれかが、彼らの家なのだ。
確かにこの光景は、守り、慈しみ、継いでいかねばならない掛け替えのないものに違いない。
何と平和で、美しく、温かか。
そしてこの光景を、歴代のマクナガン公爵たちは守り続けてきたのだ。
王都の民は、このように屈託なく笑っていただろうか。
すぐにはぱっと思い出せず、また俯きたい気持ちになってしまう。
そうではないな。うん、俯いている場合ではないな。
王都へ戻ったならば、城下の視察へ出てみよう。民の暮らしを見てみよう。公爵領にあって、その他の土地に欠けているものを洗ってみよう。
ああ、何だろう。
『当たり前』の事と、『やらねばならない事』が、この地へ来てから次々見つかるな。
私という人間は、それ程までに『欠けていた』のだな。
全く。
本当に、ただの子供より性質の悪い子供だ。
時には足を止め街の人々の世間話に交じったりしながら、のんびりと歩くこと約一時間。
エルードが「到着だ」と足を止めたのは、見事な邸の前だった。
「貴族の別邸か何かか?」
そうとしか見えない、石造りの美しい建物だ。
趣が少々、金獅子宮に似ているだろうか。白亜の建物に、最低限の装飾。けれど貧相な印象ではなく、静謐で美しい。
「一応、現在の所有者は我が家だな。まあ所有しているだけで、使用してはいないが」
言いつつ歩き出したエルードの後について歩く。
まあ、本邸からのんびり歩いて一時間だ。使用する事もないだろう。
マクナガン公爵家の本邸は、とても立派な建物だったし。……ただ、度重なる増改築を施したという結果、継ぎはぎだらけの不思議な建物でもあったが。
何と言っても、建物の右側と左側で、建築様式がガラッと違っているのだ。増築するにしても、様式を合わせるくらいしても良さそうなものなのだが。
……まあ、わざとだろうな、というのは流石に分かるようになった。きっと、増築当時の公爵が「面白そうだ」とそのまま推し進めたのだろう。
しかし、この邸は何であろうか。
入り口には使用人と思しき男性が立っている。入口の門扉の両脇には、マクナガン領の私設騎士団の騎士が立っていた。
騎士が常駐しているとなると、それなりに重要な施設なのだろう。
我々が玄関に到着すると、男性が恭しく礼をし、丁寧な仕草でドアを開けてくれた。
仕草は洗練されており、しっかりとした教育がされているようにうかがえる。
スタスタと中へ入ってしまうエルードを追い、私も中へと入った。
内部も、外装から想像できる通りの美しさだった。
華美ではない。やはり装飾などは必要最低限だ。けれどそう見えるだけで、その実、かなり手が込んだものが多い。
玄関ホールの奥の壁際には、大きな花瓶とそれを置く為の木製の台がある。花瓶にはとても美しく季節の花が活けられている。
が、その花よりも、花瓶と台の方に目が行ってしまう。
一見して真っ白な花瓶だが、あれは遠方の国の有名な窯元の作品だろう。そこでしか作られない特殊な釉薬を用いていて、光の当たり方によって色が変わって見えるという品物だ。今は高い位置にある明り取りの窓からの陽光で、黄色っぽい色に見えている。が、時に青、時に赤、時に緑……と、刻一刻と色を変えてゆく、とても珍しい品物だ。
台の方は、恐らくマクナガン公爵領の工房の品物だ。
蔓草が絡み合ったような華奢な脚が、複雑な曲線を描いて上部の台を支えている。何故立っているのかが不思議になる形状だ。力学的に理に適っているからこそ、安定して立っているのだろうが、それにしても不思議な形である。
ああいう芸当をさらっとやってのけるのが、このマクナガン公爵領の工房だ。あの広場の不可思議な噴水にしてもそうだ。
大げさに飾り立てはしていないものの、ちらほらと見受けられる装飾品などは、紛れもない一級品ばかりだ。
どう見ても貴族の、しかもそれなり以上の大貴族の邸宅としか思えない。
ここは本当に、何なのだろうか。
「エルード様、お待ちしておりました」
声をかけられそちらを見ると、テールコートの男性がエルードに向かって礼をしていた。
「ああ、別に挨拶などはいらんと言った筈だが」
からかうように言ったエルードに、男性もからかうような笑みを返した。
「丁度、手が空いていたのです。手持無沙汰でウロウロするのも、他の従業員の邪魔になりますので」
「成程。私は単なる時間潰しか」
「冗談ですよ」
「どうだか」
そんな軽口を叩き合うと、エルードは男性を下がらせ、歩き出した。
何だか分からないまま、エルードについて歩く。
ホールの奥の階段を上り、三階に到着した。
階段を上り切って、少し驚いた。
三階建ての建物の階段を上り切った三階。
そこは、いかにも後から付けたという風情の、武骨な分厚そうなドアが行く手を阻んでいた。建物の雰囲気に随分そぐわない、がっしりとした造りの重そうな扉だ。
「……何だ、これは」
「間違って、誰かが入り込まないようにこうしてあるのさ」
当然のように言うと、エルードは自身の上着のポケットを探った。そして一本の鍵を取り出すと、そのドアの鍵穴に鍵を差し込んだ。
「……鍵穴は、三つあるようだが?」
ドアノブの下。通常の鍵穴のある位置に、縦に三つの鍵穴が並んでいる。
「三つあるな」
エルードは当然のように頷くと、鍵穴に差し込んでいた鍵を回した。カチン、と音がした。
「三つあるが、内二つは単なる目くらましだ。下手に触ると、どれが開いていて、どれが閉まっているかすら分からなくなる」
「……成程」
要は、対侵入者用の罠、か。
重たそうな扉は、その見た目とは裏腹に、音もなくすんなりと開いた。
蝶番の軋む音もしないとは、中々に素晴らしいな。
ドアの向こうは、普通に廊下と幾つかのドア、そして小さなサロンがあるようだ。
エルードは迷う事無く、一つのドアへと向かっていく。
「さあ、どうぞ」
開け放したドアを手で押さえ、中へ促され、訳が分からないままそこへ足を踏み入れ驚いた。
「この、部屋は……」
細かい差異は当然ある。
だが、雰囲気や間取りなどが、城の国王の執務室と全く同じだ。
調度品の雰囲気や壁の色、机の位置、書棚の位置、窓の位置等……。大きく異なっている点と言えば、壁に小ぶりの肖像画がかかっている点くらいだ。
その肖像画に、また驚いた。
二人の男性を描いたものだ。一人は椅子に腰かけ、もう一人はその椅子の背に手をかけ佇んでいる。その座っている方の男性は、城の回廊にかかっている歴代国王の肖像の一枚目、つまり初代王だ。
だが、こんな絵は知らない。
それに、国王と共に描かれている男性にも、全く見覚えがない。
王族の肖像画を邸に飾る、という事自体は、そう珍しい事ではない。分かり易く忠誠を示す小細工でもある。
だが、その肖像画に何かを描き足したりしてはならない。それは『不敬』と見做される。王族の肖像画というのは、特別な許可がない限り、王族以外の人物を一枚の画に入れてはならない事になっているのだ。
「あの絵は、この建物の本当の所有者と、その兄を描いたものだそうだ」
ああ、そういう事か……!
「『王族の肖像画』ではなく、タイトルは『アーネスト・マクナガン公爵と、その弟オスカー・マクナガン』となっている」
先日エルードに聞いた、『四十三歳で世を去った』とされる初代王が、その後を過ごした場所が、ここなのだろう。
「使い勝手の良いように……と整えた結果、どこぞにある誰かの執務室とそっくりになったそうだ」
「ああ。あまりにそっくりで、驚いた」
「彼らが居たのは何百年も以前の事なのに、今もその『執務室』とやらはこことそっくりなのかい?」
笑いつつ訊ねられ、私も思わず笑ってしまった。
「そっくりだな。大型の家具なんかは、もう『それはそこにあるもの』という認識で、誰もそれを動かそうだとかは考えないのではないかな」
実際、私はそう考えてしまう。
「成程。確かにそういうものかもしれん」
エルードは一度頷くと、部屋の中を手で示した。
「ここは、彼が居た頃そのままに保ってある。……こちらへ来てごらん、カール」
歩き出したエルードについて、窓辺に並んで立つ。
このマクナガン公爵領の領都は、平野になっている。
先日登った山のような小高い場所はちらほらあるが、領都の中心部はほぼまっ平だ。
そしてこの建物は、ちらほらある小高い場所に建っている。
そういう土地なので、小高い場所の更に高い三階の窓からは、領都の街並みが一望できた。
「凄いな……。これは壮観だ」
「人々の日々の営みを、近くに感じたかったそうだ」
エルードをちらりと見ると、彼は僅かに微笑んで、眼下の街並みを眺めている。祭りの日の山の上でも、そういう顔をしていた。
きっと彼にとってこの街並みやそこに暮らす人々は、とても愛しく大切なものなのだろう。
「国政を執りはしたけれど、己の施した政策がきちんと民に還元されているのか。……数字や文字として書面は上がってくるものの、それを肌で実感できた事がなかった、と。彼らがクーデターを起こす以前の人々は、暗く沈んだ面持ちで、顔を伏せ生きているような有様だったそうだ。自分たちがした事で、少しでも人々の暮らしが良くなっているのか、それが気がかりだった、と」
ああ、その気持ちは、良く分かる。
国の為、民の為、と施策を考え実行はするものの、実働部隊は私ではない。そこに私が組み込まれる事はまずない。
私に出来る事は、考え、議会を納得させ予算をもぎ取り、適した人員を配置するまでだ。
生活が良くなったらしい、民も感謝している、などの感想を聞く機会はあれど、それが真実であるかどうかまで確かめる術も時間もない。
先ほどエルードが言った通りで、『結果としてこうなった』と、報告書が上がってくるのを読むだけだ。
その報告を疑う訳ではないが、確かに実感は薄い。
こうして、人々の生活を身近に感じられるというのは、とても得難いものだろう。
王城の窓から見えるのは、精々が高位貴族の大邸宅だ。王城から市井の民の暮らす区域までは、距離と障害物があり過ぎる。
「君はもしかして、今の話に共感しているかな?」
声音が僅かに呆れている。
呆れられる覚えはないのだが……。
「……している、が」
それが何だというのか。
言った私に、エルードが深い溜息をついた。
……何だか失礼だな。
「だから君たちは、真面目が過ぎると言うんだ」
今度こそ、思い切り呆れた声で言われてしまった。
「何故全てを自分ひとりで行おうとするのか。目や耳となってくれる側近の一人も居ないのか。それとも、ベルクレイン家では『他人は信用するな』とでも教えているのか」
当然、そんな事はない。
けれど、エルードに言われた瞬間、初代マクナガン公の言葉を思い出した。
『王様は、『完璧で何でも一人で出来る』人間である必要なんざねぇよ』
あの言葉は、言葉通りの意味ではなく、『何でも一人でやろうとするな』という意味もあったのか。それこそ、今エルードが呆れているように。
側近という者は、現在四名ほど居る。
能力や家柄を考慮し、信頼できそうな者を選んだつもりだ。実際、彼らの事は信頼しているつもりだ。
けれど、そうか。
信頼しきれていない、のか……。
「能力の高い者にありがちなのだが、『任せるよりも自分がやった方が早い』と判断して、全て自分ひとりで何とかしようとしてしまう。若しくは『これくらいの用事を他人に頼むのも悪い』と遠慮してしまう事もある。『頼まずとも、自分でやればいいか』と」
あるな。あるある。
どちらかというと、後者の方が断然多いが。
「どうせ『よくあるな』などと考えているのだろうが」
……その通りだが、どうか人の心情を読まないでもらえるだろうか。
「いいか、良く聞けカール」
やはり呆れた声で言うと、エルードは私を真っ直ぐに見てきた。
余り、歳の近い相手に、こうも真っ直ぐに目を覗き込まれるような事がない。
それは大抵の相手が、私を前に遠慮や萎縮をしてしまうからだ。「王太子殿下を前に、粗相があってはならない」と、一歩退いてしまっているからだ。
けれどエルードには、その遠慮がない。
「人ひとりがその手に持てる荷には、限度がある。『自分で出来るから』と何でも自分でやるのでは、下も育たない。下が育たないのであれば、人手など幾らあっても無駄にしかならん。そんな下らん悪循環をしか生み出さん」
その通り過ぎて、返す言葉もない。
「仕事を任されない部下たちは『自分たちは信用されていないのだろうか』と考えるようになる。それは双方に亀裂を生む。更なる悪循環だ」
……ぐうの音も出ない。
今エルードに言われた事は、帝王学や経営学の講師からも言われた事がある。あちらはいかにも学問らしい、もっとしかつめらしい言い回しであったが。
私は『理解したつもり』になっていて、その実、結局のところは理解できていないのだな。
『学を修める』というのは、学んだ事柄をきちんと咀嚼し、己の身と出来ねば意味がないというのに、私にはそれが出来ていないのだ。何と未熟な事だろうか。表面の言葉を浚っただけで、『分かったつもり』になっている事の、なんと多い事か。
「遠方の兵法学に『彼を知り、己を知れば、百戦殆うからず』という言葉があるそうだ」
その言葉は私も知っている。
一応、軍略の講義なども受けている。可能性は限りなく低いが、いざ他国と戦となった際、私は指揮系統に組み込まれる事となるからだ。
今エルードの発した言葉は、『軍略の基礎であり、真実』として講師が教えてくれた。
意味はそのまま言葉通り、敵と己の戦力を正確に把握できていれば、何度戦おうが負ける事はない、というものだ。
「君にとっての『戦場』とは、何も実際の戦争の場面だけではあるまいよ。民の暮らしを脅かすもの……例えば貧困であったり、災害であったり。そういったものは、君にとって『敵』だろう。政策に反対する議員も、言い方を変えたら『敵』だ。それらと戦っていかねばならないのだ」
確かに、その通りだ。
『敵』と言うと苛烈に聞こえてしまうが、言い方を変えてしまえば確かにそうだ。
「君はまず、『己』を知れ。その両手に何を持つのか。どれ程持てるのか。それをまず理解しろ」
「……そう、だな」
今まさに、その最中だ。
ああ全く。本当に情けない……。
「カール」
呼びかけられ、またしてもいつの間にか俯いていた事に気付いた。
顔を上げると、エルードがやはり少し呆れたように、けれどその目は柔らかく微笑んでいた。
「顔を上げろ。何も恥じ入る事などない。『知らぬ』という事を素直に受け入れる事が出来るというのは、むしろ誇るべき事だ」
「知らぬ事、理解したつもりになっていた事が多すぎて、到底誇る気になどならないが……」
苦笑した私に、エルードは楽し気に笑った。
「これから知っていけばいいだけの話だ。知らぬまま、理解したつもりになったまま、歳だけ重ねていくより断然良い」
「考え方ひとつ、という事か」
「そういう事だ。何事も『前向きに』だ」
「『前』、か……」
己を知らぬ私には、『前』がどちらかすら、よく分かってはいないが。
それを、これから見つけて定めていかねばならないな、と思うのだった。