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Ep.1 公爵令息エドアルド・アリストと、その周囲の人々。(1)



 ある日の夕食時、兄が珍しいくらいの満面の笑みで言った。

「母上、エドアルド、報告があります」

「何ですか、ロバート。改まって……」

 少々面食らったように、けれど笑いつつ促した母に、兄はやはり笑顔で言い放った。


「生涯の伴侶となる相手を得ました。婚姻は王太子殿下の式の後となりますが、既にあちらのご両親にも了承を得ております」


「は……?」

 ぽかーん、だ。

 私だけでなく、母もぽかーんだ。


 マナーに厳しい母上が、思わず手に持っていたナフキンを取り落としている。

 母のこのような失態は初めて見る。


 給仕の侍女が慌てて母の落としたナフキンを拾っている。

 彼女も驚いたようだ。

 母が粗相をするなど、使用人たちも見た事がないだろうから仕方ない。


「兄上……、今のお話は、本当なのですか……?」

「嘘を言う必要が、何処に?」

 もんのすごく良い笑顔だ。

 ……残念な事に、兄の笑顔は本心からのものであっても、どこか胡散臭く見えるのだが。


「お前には頼みたい事が一つあるのだが……」

「はい? 何でしょう?」

「私が妻をとっても、彼女は家や領の仕事などには余り関わる事が出来ない。なので今後も、そういった仕事を頼みたいのだが……、任せて構わないだろうか?」

「それは、まあ……、はい。構いませんが……」


 家の雑事に関しては、主に仕切っているのは母と執事だ。私がやっているのは、母の手伝い程度のものだ。

 領地の経営に関しては、本来は当主である兄の仕事であるのだが、兄は国政に関わる身で多忙な為、私が代行をしている。

 幸い、家内の差配も領地経営も、嫌いな仕事ではない。


 この先も、兄は国の中枢で更に忙しくなるであろうから、領地経営は私の仕事となるだろうな……とは考えていた。


 だが、兄が妻を娶ったなら、家の事はその妻――『公爵夫人』の仕事なのではなかろうか。


 それとも、そういった『雑事』(に見える仕事)を厭うご令嬢なのだろうか。


 いや、この兄の選ぶ女性が、それはないな。

 夜会で擦り寄って来たご令嬢に、「ロバート様が今一番興味がおありな事は、何でございますの?」と訊ねられ、笑顔で「商業商店法二十三条三項-一は必要か否か、でしょうか」と答えるような人間だ。

 当然だが、ご令嬢は「そ、そうでございますか……」と引き攣った笑みを浮かべ去って行った。


 余談だが、その話題に食いついてきたのは、王太子殿下とそのご婚約者様と殿下の側近のポール・ネルソンの三人だけだったそうだ。

 更に余談だが、三人とも異口同音に「不要」と答えたそうだ。

 ……食いつく人、三人も居るんだ……と、兄の周囲の人間関係に「うわぁ……」と思ったものだ。


 詳しい話は食事の後で、という事で、取り敢えず夕食を済ませる事にした。

 母の動揺が凄まじく、母は食事中に一度ナイフを取り落とし、更に二度フォークを交換してもらっていた。


 まあそうなる気持ちは分かる。

 なにせこの兄は常々、「後嗣さえ居れば、妻など取らずとも良いのではないだろうか」と真顔で言っていた人間だ。

 挙句「顔立ちの似通った孤児を引き取り、私の子という事にする……というのは、どうだろうか?」とまで言い出していた。

 どうだろうか?って、ダメに決まってるのだが。


 余りにやりかねない勢いだったので、私と母とで「王家を謀る気ですか」と必死で諫めてきていたのだ。


 青天の霹靂とは、このような状況を言うのではなかろうか。……夜だが。




「……で、お相手は何処のどなたなのですか?」

 食事を終え、場所をサロンに移し、母が兄に真っ先に訊ねた。

 兄はやはり晴れ晴れとした良い笑顔だ。何と胡散臭いのか……。


「リナリア・フローリア・ベルクレイン殿下です」


 兄の言葉に、母も私も時が止まったように固まってしまった。


 今、兄は何と言ったか……。


「リナリア……第一王女、殿下……? そう言いましたか、ロバート……?」

 絞り出すような声で訊ねた母に、兄は笑顔で頷いた。

「はい。その通りです」

「は……」

 母はもう言葉もない。


 当然だ。


 我がアリスト公爵家は以前、王妃陛下に対して不敬を働き、家格を落とされるという罰を受けている。

 その家に、王女殿下が降嫁?

 そんな事があるのか?


 しかも政治的に、我が家に降嫁されても、大したメリットなどが見当たらない。


 公爵家序列最下位となった際、我が家を勝手に取り巻いていたような連中はあらかた去ってしまっている。

 残っていた「それでもまだメリットはあるのでは」と考える下衆共は、兄が全て追い払った。

 我が家が囲う閥などは、現在は無きに等しい。


 我が家に残っているのは、マクナガン公爵家に次ぐ古さのみだ。

 ……まあかの家も、『最も古い公爵家』というだけの不思議な家だが。今では一応、次期王妃の生家ではあるか。


 というか、ちょっと待てよ……。


「兄上、先ほどの夕食の席で『既にあちらのご両親にも了承を得ている』と言いませんでしたか……?」

「言ったが? それがどうかしたか?」

 どうか、じゃありませんよね!?


 王女殿下の『ご両親』て、国王陛下と王妃陛下ですよね!?

 了承を得ているってつまり、『もうひっくり返せない』って事ですよね!?


「りょ……両陛下に、既にご了承いただいているのですか……?」

 母の顔色が悪い。

「はい。本日、両陛下にお時間をいただき、リーナと共に降嫁のお許しを戴きに上がりました。両陛下より、笑顔で祝福をいただきました」

 兄上、めっちゃ笑顔なのはいいんですけど、母上のお顔の色が優れないのに気付いてあげてください!


 ていうか兄上、王女殿下を愛称でお呼びなんですね! ビックリしすぎて、言葉が出ませんよ!


 もう何を言ったら良いかが分からなくなり、その場はお開きにする事にした。

 母は侍女に手を借り、よろよろとした足取りで自室へと戻っていった。


 私は兄に訊ねたい事が幾らでもあったのだが、兄が「持ち帰った仕事があるから」と自室へ引っ込んでしまった為、私も仕方なく自室へと戻った。



 我が家は公爵家だ。

 ほんの数年前までは、公爵家の序列一位だった。

 爵位の最高位である公爵位で、その一位だ。貴族の頂点だ。

 何かを勘違いするには、十二分な地位だろう。


 貴族とは、様々な特権を有する。

 その特権も、階級によって変化し、上位になればなる程に増えていく。

 頂点である我が家には、それは様々な特権が付与されていた。


 だが忘れてはいけない。

 『権利』の行使には、『義務』の履行が必須なのだ。

 商店で物を『買う』際に、金銭での『支払い』が必要なように。


 ただ『ふんぞり返って我儘放題』は、決して許される行いではない。

 それは『商店の品物を無断で持ち出す』行いと同義だ。


 後者は刑罰法によって裁かれる。

 ならば前者はというと、貴族法によって裁かれるべきものだ。


 残念な事に、私たちの父は、それを『勘違い』した人物だった。

 貴族の頂点たる己は、ありとあらゆる傲慢が許される立場であるのだと。金は寝ていても手に入る。己の言葉は絶対。王家とて我が家がなくなれば困るのだから、我が家が王家に対して下手に出過ぎる必要などない。


 ……人とは、こうも勘違い出来るものなのか。

 我が父ながら、呆れて言葉もない。


 しかも我が家が最高の家格を戴いていたのは、祖父の勲功あっての事だ。

 父はそれに一切の貢献をしていない。

 誰が見てもそれは明らかであったので、まともな思考の出来る者たちは父の周囲から去って行った。


 残るは我が家を食い潰そうと狙う、下衆な獣のような連中ばかりだ。


 父の肥大した自尊心と欲望は、留まるところを知らなかった。


 私たちの妹――つまり己が娘を、王家に嫁そうと狙っていた。

 それで王家を背後から牛耳ろうとでも思ったのか。どう考えても無理筋だが。

 見え透いた悪知恵程度しか働かない小悪党程度の父では、あの王家には太刀打ちなど出来よう筈もなかろうに。


 そう兄に零したら、兄は皮肉気に笑った。

「己の小ささを知らぬからこそ、相手の大きさにも気付かないのだろうよ。目の前にあるのが巨大な山であっても、正に目先しか見ないのだから、それが山であるとも気付かないのさ」

 全く、その通りだ。


 そして案の定、王太子殿下は婚約者を選定する際、妹の名すら出す事がなかったそうだ。

 まあそれはそうだ。

 父を小さな少女にしただけのような、扱いの厄介な娘だ。選ばれよう筈がない。


 王太子殿下の婚約者は、最終的に三人程度まで候補が絞られた中から、一番ないだろうと思われていたマクナガン公爵家のご令嬢に決まった。

 何故『一番ない』と思われていたかというと、まずは殿下と少々歳が離れている事がある。そして、国政に全く興味を示さない家である事。幼すぎてご令嬢の情報が全くない事、などが理由だ。


 殿下の婚約者が正式に決まった後、父が「我が家の方がマクナガンなどより利があるというのに!」と憤慨していた。

 が、父の言う『利』は、あちらにしてみたら『不利』で『不要』なものばかりであっただろう。


 父に耳当たりの良い事ばかりを吹き込まれ続けていた妹は、その決定に癇癪を起していた。

 ……癇癪持ちの娘など、余計に誰からも敬遠されるだろうに。まあ、言うだけ無駄か。


 その頃には、母はすっかり父と妹を見限っていた。

 兄も二人を見放すのが早かった。

 私はそれでも少しだけ、あの無知で蒙昧な妹はただの父の妄想の被害者なのでは……と同情する気持ちがあった。父に関しては、救いようがないと思っていたが。


 そして、その二人が当然の如くにやらかした。


 よりによって王家主催の茶会において、妹が『掴み合いの喧嘩』などという貴族令嬢にあるまじき行いをやってくれた。

 最も格式高い場で、格もへったくれもない行いだ。話を聞いて、思わず呆けてしまった程だ。


 それに対する罰は、『一年間の登城の禁止』だった。


 これはかなり甘い罰だ。

 お決めになられたのは王妃陛下だったそうだが、『幼い娘の行いである故』という温情が見てとれる。


 これが成人済みの女性であったなら、それだけでは済まない沙汰であっただろう。


 だが父はそれに不満を漏らし、あろう事か自ら王妃陛下に異議を申し立てた。

 馬鹿なのだろうか。……馬鹿なのだろうな。


 そこからの兄の動きが早かった。

 獲物を見つけた獣でもあれ程早くは動けないだろう、というくらい早かった。


 当時、スタインフォード学院で法科を選択していた兄は、講師の助力を得て資料を纏め、それを父に突き付けた。

 父が放棄し続けた『貴族の義務』に関する事柄、妹へと注ぎ込んだ金銭、父の見栄の為に浪費された金銭、父が無視し続けている領地からの嘆願、その他様々な書類。


 それらの束を、父の目の前に積み上げて、兄は笑顔で言い放ったのだ。

「これらを纏めて貴族院の調停所へ提出すれば、我が家を伯爵家とする事も恐らく可能です。いかがしますか、父上。その座にしがみ付き続け『伯爵』と呼ばれるか、それとも今すぐその座を退き『元公爵』と呼ばれるか」


 それを間近で見ていた感想は、ただ一言。

 (こっわ)!!

 それだけだ。


 敵意を向けられていない私ですらそう思ってしまったのだ。真正面から敵意と怒りを向けられていた父は、今にも倒れそうな程に顔色が悪かった。

 蒼白ではない。通り越して、土気色になっていた。


 兄の交渉法は、詐欺師のそれだった。

 最初に到底飲めない要求を差し出した後、比較して飲めそうな要求を出す。

 冷静に考えたら、どちらも飲めない要求である筈なのだが、今の父には『冷静な判断』など出来ない。兄がそれを出来なくさせているのだ。


 それから一週間も待たずに、父は公爵位を退き、逃げるように領地へと去った。

 一連の父に対する兄を見ていた妹は、自分も兄に敵意を向けられる側と悟ったのだろう。父について行くと邸を出て行った。


 二人が去り、母と兄とで王妃陛下に父の更迭という手土産付きで改めて謝罪をし、陛下からは御寛恕(ごかんじょ)いただいた。だが一応の罰として、家格の序列を公爵家最下位まで落とされた。

 それも大分温い罰なので、陛下には感謝しかない。


 一連の騒動のけじめがついた後、兄はまた笑顔で言った。

「さあ、後は残った屑共を一掃しようか」

 ……何故……、そういう台詞を言う時だけ、妙に生き生きしているのですか……。しかも何故、そう輝かんばかりの良い笑顔なのですか……。


 この人にだけは逆らわないようにしよう。

 私はそう心に決めた。


 父が公爵位を退いた後、暫くは母が『公爵代理』となっていた。

 そして、兄が成人すると、母はその座を兄に譲った。

 弱冠十八歳の『最年少公爵』誕生である。


 その頃、王太子殿下から兄に対して、殿下の側近への登用の要請があった。どうやら殿下は、我が家の情勢が落ち着くのを待ってくださっていたらしい。

 兄はそれを二つ返事で引き受け、今に至る。



 最年少公爵で、王太子殿下の側近。

 それはつまり、将来の出世が約束されている、最高位貴族という事だ。


 おまけに兄は、見目がすこぶる良い。

 中身は……、まあ……、うん。いや! 悪い人では決してない! それは確かだ! 私にとっては、尊敬できる良き兄だ。……妹から見たら、どうなのかは知らないが。


 兄が爵位を継承して以降、様々な家から縁談の申し出があった。

 それらの書状が届くたび、兄は心底面倒くさそうな溜息をつく。

 まあ、気持ちは分かる。


 断るにしても理由は必要だ。

 特に、侯爵家などの高位の貴族家に対しては。


 その文言に、兄は常に頭を悩ませていた。


 私にも縁談の申し出はあるのだが、『婿に』という話は全てお断りしている。私は恐らく、このままアリスト公爵家に居残り、領地を管理していかねばならないからだ。

 兄にその時間の余裕があれば良いのだろうが、領地より広大な『国』の政を担うのだ。領地の管理にまでは手が回らないだろう。


 ただ、余りに兄が片っ端から縁談を断るので、母が「あの子はもしかして、女性に興味がないとかそういう事はないかしら……」と心配していた。


 それを兄にそれとなく伝えると、兄は「別にそういう訳でもないんだが……」と溜息をついていた。


 私には少なからず兄の気持ちは分かる。


 夜会などへ出席すると、擦り寄ってくるのは『見目』か『権力』か『財力』と結ばれたいらしい女性が多いからだ。

 もし私にそれら要素が全てなかったとしたならば、彼女らは私になど目もくれないだろう。


 別に、燃えるような恋がしたい、などとは思っていない。

 けれども、可能であるならば、それらの謂わば『おまけ』のような要素だけを目当てとする人以外がいい。


 大した権力も財力もない私ですらそうなのだ。

 既に『公爵閣下』と呼ばれる兄は、それ以上だ。


「参考までに、兄上はどのような女性をお望みになるのです?」

 そう訊ねると、兄はまた溜息をついた。

「『私と仕事と、どちらが大切なのですか?』などという、馬鹿げた問いを発しない女性かな」

 ああ……、そうですね……。


 実は兄は、一度婚約が白紙に戻っている。

 父が見つけ、宛がってきたご令嬢だった。伯爵家の二女であった。


 兄は今ほど多忙ではないにしろ、『いずれ公爵として立たねばならぬ日の為に』と、様々な学問に精を出していた。

 それによって、ご令嬢と会う予定が潰れる事が、何度かあったのだ。


 そして幾度目かの予定が潰れたある日、ご令嬢が兄に言ったそうだ。

「わたくしとお勉強、どちらが大切なのですか?」

 と。


 兄は一瞬の間の後、笑顔で答えたそうだ。

「その言葉が出た瞬間、学問の方が大切となりました」


 ……どうせ、ものっすごくいい笑顔だったのでしょうね……。兄上ですからね……。


 その数日後、婚約は綺麗に撤回された。

 あちらのご令嬢が、もう嫌だと泣きながら両親に詰め寄ったらしい。

 格上である公爵家からの縁談申し込みであったが、このままでは娘が修道女にでもなりかねん。無礼であるのは重々承知であるが、この話はなかった事にして欲しい、と。


 苦々しい表情でそれを告げた父に、兄はやはり晴れ晴れとした笑顔だった。

 この人の笑顔、怖い……。


 その兄が、王女殿下と婚約……。


 王城にお住まいになられている殿下と、城勤めの兄となら、接点はあってもおかしくない。

 むしろ、王女殿下の兄上であらせられる王太子殿下の側近を務めているのだから、顔を合わせる機会などいくらでもあるというものだろう。


 王女殿下は才女と名高い。

 兄のふるいに掛ける気満々の、あの底意地の悪い物言いにも、王女殿下であれば気の利いた答えを返してくれそうだ。……実際の為人は知らないが。


 王女殿下は今、何歳でいらしたかな……。

 確か、王太子殿下の三つ下でいらしたかな……。


 殿下が今十八歳でいらしたから、王女殿下は十五か……。兄とは七つ違うのか……。いや、まあ、もっと歳の差のある夫婦も珍しくないから、そう驚く事でもないのかな。

 いや、でもな……。うー……ん……。


 しかし私が幾ら考えてみたところで、今更でしかない。

 両陛下にお許しを戴いてしまっているのだから。


 しかし昨日まで、兄にそんな素振りは微塵もなかったけれども……。


 後日、驚きの事実が判明した。

 この唐突に過ぎる婚約の裏話は、当日いきなりリナリア殿下から婚姻の申し出があり、殿下のお話を聞いた兄がその場で即決した、というとんでもないものだった。


 更に驚いた事に、話が驚きの速度でまとまった直後、二人で両陛下に許可を戴きに行ったというのだ。


 だから、早いんですよ! 思い立ってからの行動が!

 思わずそう言ってしまった私に、兄が楽し気に笑った。

「いや。その場で『早速両陛下に許可を』と言い出したのは、私でなくリーナだな。王女の降嫁などという一大事を、彼女一人に背負わせるのは情けないので、私も一緒に行っただけだ」


 うわぁ……。

 もしかしなくても、リナリア殿下というお方は、この兄を女性にしたような人物なのではなかろうか……。

 それは怖……いや、恐ろし……いや、えーっと……頼もしい。そう! 頼もしい!


 ああ、分かったぞ。

 兄が『妻をとっても、家の事や領の事は私に任せたい』と言った理由が。


 それら『些事』を厭うて……などではない。

 実際は、貴族夫人にとってそれらは些事どころか大事なのだが。


 しかしお相手はリナリア殿下だ。

 恐らく、彼女が見ているもの、相手取ろうとしているものは、『国』だ。

 『国内の一領地』ではない。『そこの領民』でもない。

 多数の領が合わさった、『国そのもの』と『国民全員』だ。


 それは、兄が見据えているものと同じだ。


 『国』を相手に変革を為そうとする殿下には、『領地』の問題はまさに些事であろう。


 ああ、もう!

 そんなの、協力しない訳にいかないじゃないか!


 これから大変だぞ。


 そう思いつつも、私は何だか、兄と殿下がこれから何を為すのかと楽しみに思い、幼い頃のようにわくわくする気持ちを覚えるのだった。




  *  *  *




 兄の唐突過ぎる「伴侶となる相手を得た」発言からひと月後。

 両家の顔合わせという、恐ろしい行事がやってきた。


 通常の婚約や婚姻であれば、それはあって当然の行事だ。『婚姻』というものは、家同士の結びつきにもなる。『閨閥(けいばつ)』という閥もあるくらいだ。


 が、この婚姻でそういった閥は発生しない。

 何せお相手は王族だ。

 『閥に囲われる』側ではない。

 それに、現ベルクレイン王家は、一切の閥などを囲わない独立独歩な姿勢の王家だ。ベルクレイン王家の初代王の遺した言葉に『公正であれ』とあるくらいの家だ。


 やっぱり、相手が大きすぎる……。


 『顔合わせ』という行事で、あちらから出て来るのは『陛下』に『殿下』だ。

 今更だけど、私は行かなくても良いのではないかな……。あ、駄目ですか、兄上……。そうですか……。



 城へ向かう我が家の馬車の中は、緊張のあまりにしんと静まり返っていた。

 母などは朝からずっと顔色が悪い。朝食も、殆ど召し上がられていなかったようだ。


 ただ、兄だけが平然と、シートに深く凭れ涼しい顔で書類を捲っていた。

 ……兄上、『緊張』というもの、ご存知ですか……?


 父と妹は、当然欠席だ。


 一応、父の公爵退位は『病気療養の為』となっているが、あれだけ派手にやらかせば周囲は「あっ……(察し)」となる。当然だ。

 察せられて当然の裏事情ではあるが、表向きは病床の人物を、このような場に引っ張り出す事は出来ない。

 便利な言葉だなぁ、『病気療養』。


 父のやらかしで、我が家は多少の肩身の狭い思いをする事になった。だが、悪い事ばかりでもない。

 『厄介に関わりたくない』という人々は離れて行ってくれるし、わざわざ嘲笑しに来てくれるような性根の腐った連中は切る事が出来る。

 兄は「自ら『己は小物です』と申告しに来てくれるのだから、むしろ礼を言いたいくらいだな」と爽やかに胡散臭く笑っていたが。

 この人に『逆境』は存在しないのか……?



 以前、私は妹に会いに行った事がある。


 自ら望んで父について領地へと行った妹だが、その数か月後から、王都へ戻りたいという内容の手紙が届くようになっていた。

 兄は「まだ早い」と判断していたようで、それらに返事すらする事はなかったが。


 初めの頃はそれこそ、「父と二人の生活は面白くない」というような、立場を理解していない愚痴めいた文面だった。

 兄が握り潰すのも当然だ。


 それが次第に、愚痴ではなく懇願へと変わっていった。


 王都の公爵邸でなくて構わない。王都でなくとも構わない。どこか父とは別の場所で生活させてもらえないか。

 そんな内容だ。


 そして私が「様子を見に行かねば」と決意したのは、妹が領地へ行ってから一年ほど経った頃に届いた手紙だった。


 お願いします。修道院でも構いません。どこか、お父様とは別の場所へ移動させてください。

 お兄様、お願いです。わたくしがした事をお許しになられずとも構いません。わたくしの顔など見たくもないと仰るのであれば、どこか遠くでひっそりと暮らします。別の国へ渡っても構いません。

 お願いします。この家から出させてください。

 お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします。


 便箋に三枚。頭の数行以外は全て『お願いします。』で埋め尽くされた手紙だった。


 (こっわ)!! ていうか、ヤっバ!!


 兄は妹からの手紙を後回しにしがちなので、まず私が検めるのが通例のようになっていた。なのでその手紙の封を切ったのも私だ。


 妹の精神状態がさすがに不安になり、私は慌てて兄にその手紙を見せた。

 兄は暫く手紙に目を落とし、『お願いします。』だらけの二枚目と三枚目の便箋をぱらっと捲った後、ふっと小さく笑った。


 いや、笑ったよ、この人! 何なの、怖い!! 何でこれ見て笑えんの!?


「一度、状況を確認しに行かねばならないかな」

 そう言いながらも、口元には笑みが浮かんでいる。

 (こっわ)!!

 それは何の笑いなんですか!?


 妹の様子を見に行くのに、私は自ら志願した。


 妹は恐らく、兄本人や兄の手の者などを恐れるだろうから。

 兄は妹を嫌うというより、呆れていた。そして現在は、立派な無関心だ。兄にとって妹は、路傍の石などより意味のない存在だろう。

 けれど私は、そこまで無関心になり切れなかった。それが良い事なのか悪い事なのかは、私にも分からないが。


 幼子が、己が学ばされている学問やマナーなどの『意味』を知るのは、容易ではない。

 それらが『何故必要であるのか』や、『何の役に立つのか』という事は、物事の道理が分かってからでないと理解できない。


 それら『自分にとって面白くないもの』を妹が嫌ったのは、ある種仕方のない事だったのではなかろうか。


 その『面白くないもの』『嫌なもの』を押し付けて来る(ように感じる)母を嫌ったのも。


 そして、それらから庇ってくれる父に懐いたのは、とても自然な事なのではないだろうか。


 確かにこちらの言葉に耳を傾けようとしなかった妹にも、間違いなく咎はある。

 特に我が家は筆頭公爵家であったのだ。他よりも規範に則っていなければならない立場だったのだ。たった一度、ほんの僅かな過ちも、他家より厳しい目で見られる立場だ。

 それを理解しようとしなかった妹は、確かに愚かではある。


 だが。

 私たちも、もう少し妹に寄り添うべきだったのではなかろうか。


 見限るのが早すぎたのではないだろうか。


 そんな、後悔にも似たものが、私の中にずっと(わだかま)っていたのだ。


 きっと兄は、私のそういう思いに気付いていたのだろう。

「手を貸すのか、貸さないのか。手を貸すとして、どこまで面倒を見られるのか。それは、お前が自分で判断しなさい」

 出発前に兄に言われた言葉だ。


「父上に関しては何が起ころうが捨て置けば良いと思っているが、フローレンスに関しては……」

 兄は一旦言葉を切ると、私を見て軽く微笑んだ。

「もし何かあったとしたならば、アリスト公爵家として責任くらいは取ろう」


 父に関しては、完全に『公爵家は関与せず』。

 だが妹に関しては、まだ『公爵の妹姫』と認めている……と。


 ……申し訳ありません、兄上。

 ちょっと、『この人には血も涙もないのかな』などと思っていました……。

 一応、妹を爪の先程度は気に掛けるお気持ちがあったんですね……。



 領地へと到着し、父と妹が暮らしている我が家の別邸へと向かった。


 公爵邸は、領都にある。

 けれどそちらは、私たち『ロバート・アリスト公爵とその家族』が領地に滞在する際に使用する邸だ。


 父と妹に宛がったのは、領都から離れた場所にある別邸だ。

 平民の家などよりは断然広い。設備も豪華だろう。だが、領都の本邸と比べたら、見劣るどころの話ではない程度に小さい。


 それでも、父と妹、二人で暮らすには充分である筈だ。


 生活費などは、父のそれまでからしたら質素であろうが、それでも下位の貴族などから見たら豪華な暮らしが出来る程度には渡してある。

 兄の話では、金の無心などは「もうない」という事だった。……『もう』って事は、当初はあったのか……。


 使用人は五人程度置いてある。

 流石に、別邸に外から見て分かるような異変はない。それはそうだ。あったら大変だ。


 門から続くアプローチ周辺も、綺麗に整えられている。


 私が今日こちらを訪問するという事は、別邸の管理人には伝えてある。彼がそれを父や妹に伝えたかどうかは、彼の判断に任せているので定かでない。


 さて一体、中はどうなっているのだろうな……?


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