井伊の華~桜田門外前夜譚~
井伊の華
紀尾井坂はかつて清水坂とよばれていたころから、ここ彦根藩新居家の屋敷は常に夜は灯を落とし、清廉謹直の家柄として知られていた。このように月が昇り切るころにまでが灯りつづけているのは、当代になってからだった。
燭台の灯りに手紙をかざし、その文字を追う男。文机に座るその体格は人一倍肥え、唇引き締まり、眉間のしわには知性が宿っている。
すっとふすまが開き、穏やかな声が響く。
「殿。」
「・・・喜兵衛か。どうした?」
男はすっと目を上げ、部屋の入り口を振り返る。白髪ばかりの髪を湛えた、頬の優しく緩んだ男が部屋を覗き込んでいた。
「もうお休みになられませんと。明日もお早言御勤めでございましょう。もう子の刻(午前0時)を過ぎてございますよ。」
「眠れなくてな。…喜兵衛、すまんが茶を入れてくれぬか?」
「かしこまりました。」
喜兵衛がそっとふすまを閉める。男は手紙を文机におき、ふうと一息吐き出した。
この男、井伊直弼という。
彦根藩当主、左近衛権中将掃部頭、役職は大老。徳川幕府の政を一手に取る宰相である。
「お持ちいたしました。」
喜兵衛が戻ってきて、そっと畳の上に盆を置き、湯呑みを手渡した、。湯呑みをつかみ、ずずっとすする。舌を焦がすような熱ささえ、今の彼には愛おしい。
薬缶を鉤に吊るし、せこせこと囲炉裏に火をくべる喜兵衛を微笑みつつ眺めながら、直弼はふと文机の上の手紙を取る。
「喜兵衛。」
何でございましょう、と、この男に長年使えた老人は、手を止めて直弼を見る。直弼は、手にした手紙を喜兵衛に渡して見せる。手に取った喜兵衛は、その表の文字を見て、まゆをしかめる。
「天誅…」
「明朝、登城途中にお命頂戴仕り候故、つきましては書状送り奉りたる所存…水戸藩浪士の書状だ。」直弼は諳んじた。「彼らもとうとう動き始めた。わしの暴挙を、このまま見逃すわけにもいかんと言う事じゃな。」
「…暴挙と分かっての、この大獄でございますか。」
喜兵衛は眉根を寄せたまま、真剣に書状に見入っている。直弼は首を振った後、湯呑を口に近づけながら呟く。
「時代を動かした者たちのやったことは、すべて暴挙じゃ。信長公然り、豊公(豊臣家)然り、そしてまた徳川御家も然り、じゃ。そしてえてして暴挙の多くは、のちの世を良くするための礎となる。まあ、」直弼は湯呑を乾して苦笑した。「わしのはただの悪政じゃがな。」
不意に一陣の風が吹いた。土間を抜け、直弼はその風を月代に感じた。
「日の本の未来を思う想いは、このわしにかなう者は無い。その自信もある。故に、国を守るためにわしに出来た唯一の方法をとっただけじゃ。それがたとえ、悪政であったとしても、のぉ。」
「しかれば、何ゆえ殿は、」と、喜兵衛は眉根をしかめる。「あの条約をお結びになられたのです?あれほど傲岸不遜な男を、無理に受け入れる必要はなかったのでは?」
「わしがあのようなものを自らの意思で結ぶと思うてか?」直弼は苦笑した。喜兵衛も微笑んでいる。
「わしとてもあのような男と交渉したくないわい。じゃがな、金も力も持たぬことを露呈しておる今の公儀(幕府)が生き残るには、どうせねばならぬかは自明の理じゃからのう。岩瀬の交渉に勅許が間に合わなかったのは、」と、わずかだけ表情を曇らせる。「わしの生涯唯一の悔恨じゃ。今上があそこまで外夷を恐れておられるとは。」
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筆者余談であるが、日本史上最大の国難ともいえるこの幕末初期の時期、平安京にいたのが孝明天皇でなければ、明治維新はもっと違った形で起こったであろうし、日本の歴史はもっと血なまぐさいものになっていたであろう。
実はこの時期の日本の首脳陣、特に幕府の中枢の人間たちは、開国主義者であった。現代では維新志士たちこそ開明的な考えを持っていたと思われがちだが、むしろ攘夷派、つまり外国人を排斥し打ち払うといった考えは、いわゆる志士たちほど強く持っていたと言える。それは神州思想と呼ばれる、日本独自の考え方であった。天皇を中心とした、神のまします国である日本。その現人神たる孝明天皇こそが、実はこの幕末期で最も外国を嫌いな人間であったということが、歴史の皮肉と言わざるを得ない。
尊王攘夷
という言葉は、こういった思想と孝明天皇の病的と言えるほどの外国嫌いから生まれ、当時の知識人の間で流行していった。
井伊直弼という男が歴史の偉人達の中で疎まれ、悪役として名を馳せている背景には、この神州思想がその一端を担っているのは間違いない。当時の海外の国との条約の認可は、天皇による勅許が必要であった。この調印の件は、諸大名を江戸城に呼び出しての話し合いで、
条約調印はやむなし
との結論が出ていたものであった。しかしながらこの勅許が下りなかったことによって、幕府はそれを調印することが出来なかったのである。元来、江戸時代三〇〇年を通じて、江戸の幕府と京都朝廷による一種の二重政権を運営してきた仇が、ここに出た。ハリスは当時のこの状況に業を煮やし、京都での調印を幕府に申し伝えたとも言われている。(もっとも、これは交渉期間が長引くことを恐れたハリスの脅し文句であったとも言われているが。)仮にこの言が成り、黒船が京都に向かっていたらどうなっていたか。公家衆は交渉を知らなかった。そして何より、病的に戦争を恐れた。武力による圧がかかれば、すぐに条約を受け入れたであろう。いや、それだけでは済まなかったろう。おそらく、「条約」という名の、体の良い侵略条項になってしまっていたに違いない。
日本が三〇〇年間の惰眠をむさぼり続けた間、海外は大航海時代であった。さまざまな船が太平洋を行き交い、そして侵略戦争を行ってきた。そういった時代の中で、植民地を増やしてゆくために条約を持ちかけ、武力を背景に不利な条約を調印させることは、侵略者たちの常套手段でもあった。
「もしわしがあの和親条約を締結しなければ、日ノ本はどうなったかのぉ?」直弼は首をかしげた。微笑んでいる。
「日ノ本、でございますか。」喜兵衛にはいまいちその言葉が分からなかったらしい。この時代、藩の単位でものを考えることはあっても、日本という単位で国を考えていた人間は少なかった。幕府の中枢にあった老中たちですら、幕府の存続という観点から政治をしていたと考えられる側面がある。
「そう、この三〇〇余州すべてが、いま危機に瀕している。幕府のみならず、この日ノ本全てが、じゃ。仮にあの条約を結ばず、抵抗していたとしたら…」直弼はそして、首を振る。「戦じゃ。勝ち目もない、大米利堅国との戦。江戸は火の海となったろう。」
男は一口また茶をすすり、息を吐き出した。
「この条約の不利は百も承知じゃ。反対する者しかいないことも、の。…じゃが早い段階で同盟関係を結ぶことで、国の間に比較的対等に近い関係を築くことができる。もしこれを結ばなければ、差は開くばかり。どころか、米利堅人達はこの国のあるじとして、我が物顔でこの江戸を蹂躙していたに違いない。」
ふっと浮かんだ名。自らが投獄した、日本史上最も過激な政治犯。日本を守ることだけを説いた、新世紀の異質な指導者。
「松陰殿は、分かっていたのかもしれんな。」
「は?」突然主人の口から出た意外な男の名前に、喜兵衛は目をぱちぱちさせた。「松陰とは…長州の吉田松陰殿のことでございますか?」
「左様。」男は微笑むように笑った。「彼は獄門に捕えられ、それでもなお日ノ本を思い叫び続けた。彼は分かっていたのだ。いずれこうなることを、この日ノ本を守るためには、異国船に戦いを挑むだけではでは意味がないことを、な。」
吉田松陰は長州・萩の城下にあった思想家で、老中の暗殺を企てたかどで斬首された男である。若年にして教授職を得る秀才であり、また黒船の来航時にはその黒船に乗り込もうとしていた当時としては奇人に類する男であった。余談ではあるが、彼が教鞭をとった松下村塾は、のちの維新に多数の人材を輩出した。久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作らはその明治維新の中で命を散らし、伊藤博文、山縣有朋らは生き残って明治政府の中枢となった。松陰の教えは天皇家のもとに国家を統一する
一君万民論
であり、これは一種の幕府否定論であったがゆえに危険思想とされ、直弼自身の手によってとらえられ、獄門となった。国を守り、日ノ本を守る。もし直弼と松陰、二人の天才が、幕府の重鎮と草莽の思想家という立場でなければ、この同じ立場から様々な意見を交わし、莫逆の友となったであろう。
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井伊直弼という男は、本来、文化人であって政治家ではなかった。
近江彦根藩第十三代・直中の十四男、しかも庶子として生まれ、世に出ることはないまま死んでゆく運命であった。自らの隠居所を
埋木舎
と名付け、三十二歳までその屋敷で過ごした。朱子学を修め、剣術と棒術に励む。それはあくまでも当世の武士のたしなみであり、世に出るひとの在り方ではない。詩歌に優れ、茶の湯を愛した隠居生活は、しかしながら直弼にとっては、気楽で心地の良い生活であった。
事態が変わったのは、三十二の年の春であった。
井伊家の世子であった兄・直元が病死し、直弼は井伊彦根藩の後継者として兄の養子となり、江戸に召喚されたのである。兄である藩主直亮が彦根にいる間の江戸城での政務、彼はこれを担当し、その直亮の死後、彦根藩主として井伊家の当主となった。
直弼は、彦根井伊藩では名君である。藩士の意見上申を奨励し、上伸したものには褒賞を与えることで意欲を高め、人材育成のために藩校の役割をよりはっきりと勧めた。また国許に在る時には必ず自ら村々を見聞し、領民の信頼を得たとされる。
自ら領民に触れ、何が必要か、何を人々が求めるかを探った。この一点で見ても、一通りの政治家ではない。あくまでも市井の文化人であったからこそ、領民がその統治者をその目で見ることがどれほど重要かを分かっていたのであろう。
その統治によって評価を得た直弼が大老に抜擢されるまでには、あまり時間はかからない。嘉永三年(1850)の藩主就任から安政五年(1858)の大老就任まで、わずか八年である。加えて、直弼が大老に就任するまでには、その選定から襲名までわずか三日しかかかっていない。井伊家の家格と、そして直弼の高い能力の為であった。
そしてそうして動き出したがゆえにおこった偶然が、この後に起こる悲劇へとつながってゆくのである。
以上、筆者余談。
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風がまた強く吹き、ロウソクが一瞬揺らいだ。喜兵衛は薬缶から急須へと、お湯を移して茶を出している。
直弼は湯飲みを空にし、喜兵衛に差し出した。
「…いずれにせよ、わしが死ねば、幕府は瓦解の一途を辿る。」
差し出された湯呑みを受け取ると、直弼は感慨もなく嘯いて見せた。
「天下は動乱へと転がり込む。全て収まるはずじゃ。一橋公(一橋慶喜、後の一五代将軍徳川慶喜)にも、備中の阿波守(備中松山藩主・板倉勝静。のち老中首座)にも話はつけてある。喜兵衛・・・すべきことは分かっておろうな?」
「…殿、どうしても殺されなければならぬのですか?」
喜兵衛の言葉に、直弼は怪訝な顔をした。
「殺されなければならぬとはどういう意味じゃ?」
「自ら腹を切ればよいだけではありませぬか。わざわざ誅殺などという不名誉な死を得ずとも。今なれば、世を乱した自らを罰したと名目もつけられます。」
「喜兵衛。」直弼は首を振り、諭すような口調で言った。「東照権現様(初代将軍、徳川家康)の腹心にして親友、本田正信公、己が嫡男・正純に諭した言葉がある。」
喜兵衛は首を振った。男は天井を仰いで諳んじた。
「『為政者タル者、光ヲ求ムルコト無ケレ。何時モ為政者ノ影トナリテ、生涯ニ幸ヲ為サザル也。心得ヨ。』と。」
喜兵衛は目を瞑り、そして、静かに頷く。
囲炉裏の火を消し、薬缶を取り上げると、静かに部屋を去った。
残された男は1人部屋にいて、湯飲みに残った最後の一滴を喉へと落とし、夜空を見上げた。
また強く、一陣風が吹いた。ロウソクがふっと消えるその刹那、彼は確かに、日本を、その眼に見た。