37:苦しさと、温かさ
母や他の人間と顔を合わさないように、屋敷の裏にある湖のほとりで、ただ日が昇って降りるのを目にするだけの一日。
そうして、その日もいつもと同じように始まって終わるはずだった。
その湖は屋敷の豪華さ華やかさにとは真逆で、昼間でも何処かうす暗い。
…あくまでエデン一族の力を示すためだけに作られた伝説のようなものだが、この湖の底にはエデン一族の祖先によって至上最悪最大な力を持つ悪魔、ベルゼブルが封印されているらしい。
封印がベルゼブルの強大な魔力によって解けないように、なお且つ、他の下級の悪魔がベルゼブルの封印を解かないようにするために、エデン一族はその湖のすぐ傍に生活しているとか。
それが理由で儀式のとき以外は、誰もこの湖に寄り付こうとはしない。
結果、ここは俺にとって人の言葉を何ひとつ聞かなくて済むその場所。
何も考えず、何も感じず過ごす。
見えるものは黒が濃く混じった太陽の光と、途方もなく…果てなく大きな水たまりだけ。
より感情なき無になれる場所。
今日もその場所に居座って、いつものようにただ時間が過ぎていくのを待っていた。
「今日は晴れだよ、お兄ちゃん 」
不意打ちだった。
……これは人の言葉だ。
まるで気配を感じなかったが、今の声の大きさから推測して、声の主はすぐ傍に居る。
どうしてここに人がいるのだとか、そんなことはどうでもいい。
聞きたくない『人の言葉』に不快になった俺は、その声から逃げようと立ち上がり、声の主を見ることなく歩を進めた。
数分歩いた後、さすがにもう付いてきてはいないだろうと、腰を下ろそうとした。
が、
「お兄ちゃんは…… 」
それが聞こえた途端、俺は走り出した。
普段この湖に来ること以外は動くことのない俺の脚は悲鳴を上げたが、それでも走った。
その後すぐに力尽きた俺は『息が切れる』という、久しぶりの感覚についていけず、その場に崩れ落ちた。
「……はぁ、はぁ…、うっ、… 」
息を繰り返すのが苦しい。
酸素を求めて、仰向けに転がっていた俺の視界に、まだ幼さの残る少女が映った。
「お兄ちゃん、大丈夫? 」
嫌だ、やめてくれ…。
人の声を聞きたくない。
人を見たくない。
…苦しい。
いや……、…温かい。
温かい何かが俺を包み込んだ。
「大丈夫、きっと大丈夫 」
何度もそう言いながら、ぎゅっと首元に抱きついていた人間。
こんなことを言われたこともされたこともない俺は、どうしたらいいのか分からない。
人に触れられるのは不快でしかないはずなのに、その温かさを振りほどくことはしたくなかった。
「お兄ちゃんは冷たくて、気持ちがいいね 」
一段と抱きついてくる力が強まった。
温かい。
その温かさによって、決して姿をみせることのないほどに固く凍りついていた俺の感情が、少し……ほんの少しだけ解けた気がした。




