業務や研究はギャンブル
ここから先は、ほぼあらゆる研究者が首肯するところだと思うが、研究にはギャンブル的要素が大きいということである。
運が悪い場合、どんなにPを周到にやってもダメだし、運がいいと、思いもよらない成果が出て、スピンオフ的に成果がついてきて、予期せぬ僥倖に恵まれることもある。
結果が想像がつく実験をたくさんやっても意味は薄い。
まったく事前に想像もつかなかった発見を1回する方がよいのである。
シングルヒット100本よりも逆転サヨナラ満塁ホームランの方が偉い。
ノーベル賞級の発見ともなると、まさに思いもよらない発見でなければならない。こういうことの発見は「完全に不確実=ありそうもない(improbable)」なのだ、と心得る必要がある。
いい意味でも悪い意味でも、科学技術と不確実性はセットで考える必要がある。
悪い意味というのは、危機管理などと言って、危機は管理できると決めてかかったり、「ヒヤリハット」などと言って、事前に防げた危機の例を集めることに限界があるというようなことである。
こういったことは確率的にリスク算定可能なことも多く、その意味では予測可能(probable=ありそう=確率的)なのである。
もっと考えておく、あるいは反省する必要があるのは、破局的な事象なのであって「ヒヤリオワリ」なのである。
実行者が事前に思いもよらなかった事象のことである。
もっとも「ヒヤリオワリ」にしたって、事後的に反省すれば原因を特定することが難しくない場合も多い。
2005年に105名の人命を奪ったJR西日本宝塚線脱線事故には懲罰的な日勤教育という圧力が列車の運転士にかかっていた。
福島第一原発事故も、巨大な津波が広域的に被害を及ぼし、そこから全電源喪失が生じるというシナリオを考えていた人が全くいなかったわけではない。
もっとも、不確実な=ありそうもない=improbableな「ヒヤリオワリ」を完全に防ぐのは極めて難しい。
だからあまりに巨大で集約的な科学技術は、避けたいものだな、と思う。