PDCAサイクル
私が「PDCAサイクル」という言葉を初めて聞いたのは学界を去ってから、単発の仕事で、日本の地球温暖化対策NPOについて調べる仕事を引き受けてからである。
2014年あたり、私が38歳くらいになったころであろうか?こともあろうに、NPOの方へのインタビュー調査で、インタビューをしている最中に「PDCAサイクルとか…」という言葉が出てきたので、私は「え、P,D…、なんですか、それ?」と聞き返したのである。
おそらく、NPOの方としては「コイツ、こんな言葉も知らんのか、ダメな奴だなあ」と心中思ったであろうが、
P「計画」→D「実行」→C「点検」→A「改善」→(これを繰り返して事業を進める)
と聞いて、私は、「世間って、こんな硬直したモデルで成果上げようとしてるのか、これはダメだろう」と心中おもったものである。
場合にもよらないだろうか?社会調査一つとっても、集中的に計画をしておかないと後で取り返しがつかないので、Dの前に
偏執的にPPP…→D→C→〈泣こうが喚こうがもう遅い〉
というパターンもあり得よう。
計量社会調査はその傾向が強い。
ダメな計量社会調査の例が豊富に載っているのが、谷岡一郎『『社会調査』のウソ』文芸春秋、である?計量社会調査はデータ分析をする前に良質な標本が揃わなかったら良い論文は絶対にかけない。例えば、アンケート調査をする。調査票の回答項目が多すぎて被調査者が最後まで答えてくれない無効回答が多すぎて、有効票が20%にも行かないこともあり得る。これでは妥当な社会学的分析はできない。調査票を配るまでのPがまずかったために、アンケート調査というDが無駄になった例である。調査票作成・配布・計数のコストは大きいから〈泣こうが喚こうがもう遅い〉のである。
今でも「これは、ダメな数字の使い方の例だよね」という調査は枚挙にいとまがないわけで、A「改善」は谷岡が2000年にこの本を書いて以来、社会調査が進歩しているというわけでもないことを見ると、作動していないのだろう。
こんな例も聞いたことがある。
素粒子加速器を使って実験を行っているという学者さんの例である(私は、ガン治療のための重粒子線を研究している方からお伺いした。
この方は実際には加速器は使わないので、また聞きの知識でしかない。
もっとも有りそうな事ではある)。
この場合こんな感じだというのである。
偏執的にPPP…→偏執的にDDD…→〈泣こうが喚こうがもう遅い〉
というのも、私が聞いた限りでのことだが、とにかく素粒子加速器はその巨大さ・精密さから考えても作るのに巨額の費用がいるし、使うのにもコストがかかるので、そもそも使用するのに、ずいぶんと書類を書かされる。
「どんな研究なのか」「どういう成果が期待できるのか」「成果にはどのような社会的意義があるのか」などのようなことではないかと私は推測する(科学研究費の申請などはこういうことを聞いてくるから)。
ところが、実験というものは結果がわからないから、やる価値があるのであって、やってみた結果がどうなるのかが分かっている様なことをやっても科学的に意義は薄いとしか言いようがない。
そんなわけで、この手の申請書を書く場合、どこか「ウソも方便」のような感覚を持ちながら、「研究の意義なんて、やってみんとわからんがな」と思いながら、素晴らしい研究の意義を作文して、申請書の空白を埋めていくという作業になりがちだ。
そこで、いざ、素粒子加速器を使う段になると、とにかく実験をやる、やる、やる、となる。
使い方や使える時間などはあらかじめ決まっているので、とにかく「あ、やばい」とおもっても融通が利かないものらしい。
したがって、「偏執的にDDD…」となる。
そもそも研究や業務には不測の事態やギャンブル的要素があり得るものだということぐらいは心得るものではないか?この点を考えてみよう。