40・終わりの始まり
「いったい、何が起こっているのです! 随分長居し過ぎました。もうよろしいでしょう」
騒ぎを聞きつけて、やはりエッチェルが出てきた。彼が退いてからそれほど長い時間が経った訳でもないのだけれど、確かに色々な事が起こり過ぎた。
「侵入者が騒動を起こしていると宿の者に聞きました。私はちょうど建物を挟んだ対の方にいたので、叫び声にはすぐに気づけませんでしたが、それも、ラトゥーリエ家の騎士が警備しているのだから、外部からの危険はない、と踏んでの事でした。なのに、どういう事ですか?!」
「申し訳ない。危険はないのです。『彼女』には何も……」
「そうなのです。危険な事は何も。無害な女性が、少し取り乱していただけです」
ユーグさまとイザベラが続けて言ったけれど、エッチェルは表情を和らげる事無く、些か敬意に欠ける視線をイザベラに送った。
「とにかく、もう王城に戻らねばなりません。長引けば長引くほど、不在が露見する確率が高まることくらいおわかりでしょう。『どんな危険を冒しても、かつての親友に一目会って伝えたい事がある』という貴女の言葉に心を動かした私を、後悔させないで頂けないでしょうか」
まあ確かに、イザベラが抜け出した事をジュリアンが知って立腹するならば、当然、手引きをしたエッチェルも無事では済まない。ただ、彼が本当にイザベラに同情してこの面会の実現の為に手を貸したのかどうかは、このハプニングによって益々疑わしくなった気もする。元々、人情家とは遠い評判で、まず自らの出世を気にするタイプだ。
ジュリアンは、表で見せる態度とは異なりイザベラに対し虐待と呼べる恐怖で支配している。恐らくそれは嘘ではないだろう。彼女が私たちを助けたいなどと言うのは、本気なのか罠なのか――私は罠だと思うけれども、はっきりわからない。けれども、自分自身について語ったこと――ジュリアンからの仕打ちや出生の秘密については、だいたい真実ではないか、と思えていた。根拠は殆ど勘みたいなものだけれど、彼女との付き合いは長いので、まったくの外れではないのではと思う。
だとすれば、ジュリアンの側近であるエッチェルはきっと、イザベラが王に愛され大事にされている訳ではない事を知っている可能性が高い。これまでの推測から考えると、仮にイザベラが私たちに会う為に城を抜け出した事が王に知られた際、王の怒りがエッチェルに向いた時にイザベラがそれをとりなす事は難しそうだ。王の側近という地位を失うかもしれない、或いはそれ以上の罰が下るかもしれない。そんな危険を、イザベラへの同情だけで犯す男ではないと思っていたし、今のイザベラへの、敬愛する王妃へというよりも身分だけ高い虜囚に対するような視線を見て、その思いはいっそう強まった。
(つまり、イザベラがここにいる事を、ジュリアンは既に知っているのかもしれない)
イザベラをここへ伴い私たちに会わせた事自体、ジュリアンの意図したものであるならば、エッチェルの言動にも納得がいく。イザベラ自身がそれを知っているのかどうかまではわからないけれど。
だとすれば……だとすれば、ジュリアンは、この秘密の会見で何が起こる事を期待しているのだろうか?!
「……わかりました、戻ります。ですが、少しだけ、あの女性と話をさせて下さい。ほんの少しの時間でいいのです」
「いけません。今すぐに馬車に戻って下さい。無害な侵入者とやらに、いったい何の用がおありだとおっしゃるのですか?」
ユーグさまは思わず同情し、時間を与えようとしていたけれど、やはりエッチェルには通用しないようだ。イザベラは唇をかんで俯いたけれど、すぐに、
「これは、命令ですよ! 難しい命令ではありません。あと少しの時間を、と言っているだけです。待っていなさい」
と面をあげて言った。表向きエッチェルの侍女という事になっているけど、その芝居をかなぐり捨ててでもとにかく女性と話をしたいようだ。しかし、エッチェルも負けてはいない。
「あなたさまの安全が一番優先されるべき事項です。その命令には従いかねます。罰を下さると仰るなら、甘んじて受けましょう。私の一番の主君は国王陛下であり、国王陛下の御為に私にはあなたさまを無事に連れ帰る事が何より大事な責務なのです」
「だから、あと少し時間をとったって、危険は変わらないのよ!」
頑ななエッチェルに苛立ってイザベラは叫ぶように言ったけれど、それで何かが動くわけもない、と私は思った。
ところが――。
この問答に割って入ったのは、女性の叫び声だった。続いて、家具かなにかが倒れるような大きな音が聞こえた。
「俺たちの部屋のほうだ!」
とユーグさまが言い、駆け出してゆく。部屋のほう、と言えば、リカルドが女性を連れて向かったほうだ。そこで、いったい何が? 刺客でも現れた? イザベラが私たちを撹乱し、刺客がユーグさまの隙を狙う、そんな計画だったの?! と、混乱しながら咄嗟に思いついたのは、そんなことくらいだった。別にユーグさまの隙を作る為だけにわざわざ王妃を連れ出さなくても、いくらでも手はあるのに、と冷静になれば思えたけれども。
私も慌ててユーグさまの後ろについていったけれど、もちろんその私の後ろにイザベラもついてきた。エッチェルも。
無視してもいいのだけど、つい、階段を上りながらイザベラに、
「あなたはもう帰ったらいいでしょ! どうせ肝心な事を言わないんなら!」
と無駄な嫌味を言ってしまう。彼女の何もかもが疑わしいのに何も確かな事がなくて苛々していた。
「何が起きたのかも確かめずに帰るなんてできないわ。だってあの声は――」
イザベラは言い返し、私たちはほとんど我先にという感じでユーグさまに続いてさっきの部屋に駆け込んだ。
「――これは。いったいどうしたんだ?!」
ユーグさまが部屋に入るなり立ち止まったので、私たちは不作法にも、ユーグさまの背中にぶつかりそうになってしまう。客観的に誰かが見ていればさぞ滑稽な様だったろうけれど、私たちに人目を気にするゆとりなどなかった。
室内の様子に、イザベラは悲鳴をあげた。
「ど、どうしたの?! なに、助けて! リカルド!!」
その声につられて私はリカルドを見た。彼は半ば呆然とした様子で壁にもたれかかっていた。
そして――彼の足元に、件の女性が倒れていた。俯せで、髪を振り乱し、床一面が血で汚れていた。一目見て、わかった。あれだけの血を流しながら、苦しみもせず、ぴくりとも動かない――即ち、もう絶命しているのだと。
それでもユーグさまは駆け寄り、女性を抱き起して脈を確かめた。そして首を振った。抱き起された女性の顔は苦悶に歪み、信じられない、という表情を浮かべているようだった。
さっきまで、イザベラの名を叫び、騒ぎを巻き起こしていたのに、いまはもう、死んでしまった。私と縁はないけれど、たぶん、イザベラの母親で、リカルドの伯母が。人はこうやってあっさり死ぬものだ、と混乱しながらもどこか突き放した気持ちで思った。初めて会えた母親を目前で亡くした、かもしれない幼馴染に対して、イザベラ、私のお父様は、もっとずっと酷い死に方をしたのよ、と思った私は、人としてどこかおかしいのだろうか、とも。
でも、すぐにそんな思いは飛び去って、どうして? 何が起こったの? という当たり前の困惑が襲ってくる。危険が……どこかに潜んでいた。いまも? 人殺しがここに?!
「なんで! 何が起こったの?!」
とイザベラが硬直したように立ちすくんだまま喚いた。
「おいおい、これはどういう事だ。危険がないなどとんでもないじゃないか。無害な女性とやらを殺めるとは、済ました顔をしてじっさい恐ろしい奴だな、ええ、リカルド?!」
後から入ってきたエッチェルが言う。リカルドはようやく我に返ったように反論した。
「僕が? 僕が殺したなんて、そんな。この人は、急に叫んで倒れてしまったんだ。僕は、とりあえず水を飲ませようとしたが、もうそんな力も残ってなかったようで、あっという間に……」
確かに、傍にはコップが落ちて割れていた。
「何か持病があったんだろう。元々ひどく興奮していたし、それで命を縮めてしまったんだろう」
とリカルドは付け足す。
「そんな……そんな……だってうそ、ほんとうに死んで? せっかく会えたのに? それも、私のせい? 私がいたから?」
イザベラは泣き咽ぶと、やっと呪縛が解けたように動いて血まみれの女性に取りすがった。
「そんな事はありませんよ。リカルドと二人になった途端に発作で死ぬなんて。こいつが殺したんだ。理由はわからないが、状況的にそうとしか思えない!」
「殺してなんかいないし、第一どうやって? 外傷なんかない筈だ。いきなり倒れてしまったんだからな」
エッチェルとリカルドが言い争う。イザベラが泣き叫ぶ声が響く中、ユーグさまはそっと私の傍に来た。
「大変な事になってしまった」
「いったい何が起こっているんでしょう? もう、何を信じればいいのかわからないわ」
「俺にもわからないけど……推測しかできないから」
「何か推測してらっしゃるの?」
「それはまあ。しかし、そうでなければいい、とも思っている」
「なんですか?」
「後で話すけど」
確かに、イザベラがわあわあ泣いてリカルドとエッチェルが口論している場では何も話せる筈がない。
―――
結局、程なくイザベラはエッチェルに半ば強引に馬車に連れていかれて帰っていった。激情が静まれば、彼女だって、このままここに居続ける訳にはいかない事くらいわかる。死んだ母親の為に、お腹の子どもを犠牲にする訳にはいかないだろう。
「アリアンナ。こんな事になってしまったけど……また会うわね。わたくしがあなたを助けたいのだけは嘘偽りではないわ」
泣き腫らした顔で、そう、言い残した。
近くの医者が呼ばれ、正式に女性の死が確認された。修道院から迎えが来て、彼女の遺体は引き取られた。死因はわからない。殴られたり刺されたりした跡はなく、ただ血を吐いて死んだ、としか。
長い夜が夜更けになり、私たちはそれぞれの部屋に戻った。ユーグさまと二人で話したかったけれど、まだ考えがまとまらないから明朝に、と言われた。本当はユーグさまと一緒にいたかったけれど、騎士たちが念のためにそれぞれの部屋の前に立って番をする事になったので、そういう訳にもいかなかった。
ただ、ユーグさまは私が自室に入るとそのまま付いてきて、さっと私を抱きしめて素早くキスを浴びせた。
「不安にばかりさせて済まない」
「いいえ……ユーグさまがいて下されば、私は不安じゃないわ」
と私は強がりを言って、おやすみなさいのキスを返した。
まったく眠気などなかったけれど、朝にはここを発って王都に入る事を考えれば、頭を働かせるために少しでも寝なくてはならないと思って、寝台に横になってなるべく別の事を考えるように努めた。村の子どもたちはどうしているかしら、など。
けれど、思いはどうしてもいまのことに戻ってしまう。
王都に近づいて、色々な覚悟を決めていたつもりだった。なのに、まったく予想外の事が一気に起こって、そのせいで何もかもが振り出しに戻った気がして悪い事ばかり思い浮かんで、結局殆ど眠れなかった。それでも、とにかくユーグさまがいてくれれば、たとえ最悪の結末になるとしても、きっと耐えられるのだと思って、なんとか自分の言葉通りに不安は押し殺そうという気持ちになる事はできた。
私とユーグさまとリカルドは運命共同体で、三人でいれば、案外いい方向にいくかも……だってリカルドはローレン侯爵の息子だもの、きっと侯爵は助けになってくれる……と計算高い事を、うつら浅い眠りの夢で思ったり。
――でも。
いよいよ王都に入るという運命の朝。
また私は打ちのめされた。
困惑しきったユーグさまの表情が、これは打ち合わせての事ではない、と私に告げていた。
リカルドの姿が宿から消えていたのだ。




