閑話 将来の選択
「はぁ、ルートお兄ちゃん、全然来てくれないなぁ」
私は両肘をテーブルに置いて、頬杖を付きながら呟きます。去年の水の季節、ルートお兄ちゃんはロクアートという国に出掛けてしまい、全く会う機会がありませんでした。風の季節に入ってからも、ルートお兄ちゃんは忙しい様で、パン工房に顔を出してくれません。自分の我儘だと分かっていますが、とてもつまらないです。
「なあ、クアン。ルート兄ちゃんだったら、さっき会ったぜ?」
「どういうことお兄ちゃん!?」
さっき帰ってきたばかりのお兄ちゃんが通りがかりに、ルートお兄ちゃんに会ったと言い出します。私はガタッと椅子を倒しながら、お兄ちゃんに詰め寄りました。お兄ちゃんは、私がどれだけルートお兄ちゃんに会いたいと思っているのか知ってるはずです。
お兄ちゃんは、勢いよく詰め寄った私の様子に苦笑しながら「そんなこと言われてもなぁ」と頭を掻きます。
「第二工房から帰ってくる途中で偶然会ったんだ。会おうと思って会った訳じゃないんだぜ?」
「偶然でもお兄ちゃんずるい!」
自分でも理不尽なことを言っていると分かっています。それでも、偶然でもルートお兄ちゃんと会ったお兄ちゃんはずるいです。私が頬を膨らませて拗ねて見せると、お兄ちゃんは「まあ、そんな拗ねるなよクアン」と言いながら、私の頬を優しく突きます。
「そんな怖い顔しているとルート兄ちゃんに笑われるぜ?」
「う~、ルート兄ちゃんには見せないから良いもん。見せる機会もないし・・・」
私が肩を落としながらそう言うと、お兄ちゃんが頭をポンポンしてくれます。
「あー、先に言った方が良かったかな?明後日の光の日、ルート兄ちゃんがウチに来るって」
「えっ?ほんとに?」
「こんなことで嘘を言ってもしかないだろ?」
「じゃあ、本当に本当なんだ。やったぁ」
お兄ちゃんから教えてもらった朗報に、私はお兄ちゃんに飛び付いて喜びます。お兄ちゃんは「ほんと、クアンはルート兄ちゃんのことが大好きだな」と仕方なさそうな、呆れた様な声で呟きます。
・・・我儘を言っても、拗ねて見せても、怒らないお兄ちゃんのことも大好きだよ。恥ずかしいから言わないけど。
約束の日である光の日、いつもよりも早く目が覚めてしまった私は、一階にあるパン工房に下りて、いつもよりも早い時間にパンの仕込みに取り掛かります。しばらくしてから工房に顔を出したお母さんに「もう起きてたのクアン?」と苦笑されてしまいますが、仕方ありません。ルートお兄ちゃんが来てくれるこ分かってからずっとそわそわして、動いてないと落ち着かないのです。
動いている分には、いつも通りの私だと思っていたのですが、お母さんから「嬉しいのは分かるけど、ちょっとは落ち着いなさい」と指摘されてしまいます。どうやら、ルートお兄ちゃんと会えることが嬉し過ぎて、顔が緩みっぱなしになっているようです。
お兄ちゃんも起きてパン工房に顔を出した頃には、ロンドさんがパン工房にやってきました。すでにいくつも寝かせてあるパン生地を見たロンドさんは、私が張り切ったことを察したようで、私のことをチラリと見てから苦笑します。それから、ロンドさんは「よっしゃ今日もやるか!」と言って、朝の分のパンを焼き始めました。
ロンドさんにパンの焼き方を学んでいるお兄ちゃんを置いて、私とお母さんはその間に朝食の準備をします。お兄ちゃんは、第二のパン工房で働く孤児院の子たちの講師役を務めており、もっと上手な焼き方を身に付けるんだ、と意気込んでいるのです。
手早く朝食を終えて、焼き上がっていくパンを別の箱に詰めていきます。その頃には、アイオーン商会の荷馬車がやってきて、箱に詰めたパンを荷馬車に積んでいきます。そんな感じに、いつも通りの様で、少しいつも通りとは違う朝を過ごした私は、ふとあることに気が付きます。
ルートお兄ちゃんが今日やって来るという話でしたが、いつやって来るのかまでは聞いてません。朝の仕事が終わって、椅子でホッと一息つきながら私は、もしかして一日中そわそわして落ち着かないの?と頬を押さえます。そんな私の考え汲んでくれたかの様に、ルートお兄ちゃんの声が下の階から聞こえてきて、私は思わず椅子から飛び上がります。
・・・忙しい時間を避けて来てくれたってことかな?
途中まで何やらロンドさんと会話をしながら、階段を上がってきたルートお兄ちゃんは、三階にある私たち家族の部屋の前までやって来ると、ドアをトントンと叩きます。私はすぐにドアを開けて「いらっしゃいルートお兄ちゃん」と挨拶します。
「早いお出迎えありがとうクアン。久しぶりだな」
私が満面の笑みでお出迎えすると、ルートお兄ちゃんが嬉しそうに微笑んでくれると共に、優しく頭を撫でてくれます。いつも思いますが、ルートお兄ちゃんは頭を撫でるのがとても上手です。お兄ちゃんが頭を撫でてくれるのも好きですが、ルートお兄ちゃんのは特別です。
「ハティナさんもご無沙汰してます。クートは二日ぶり!」
「ようこそルートさん」
「いらっしゃいルート兄ちゃん。来てくれるのを待ってたぜ。特にクアンが」
「もう!お兄ちゃん!」
余計なことを言うお兄ちゃんを黙らせていると、ルートお兄ちゃんにクスクスと笑われてしまいます。私は恥ずかしい思いをしながら、ルートお兄ちゃんがテーブルの椅子に座るのを横目に、私はルートお兄ちゃんのためにお客様用のお茶を淹れます。
お茶の入ったカップを木製のトレイに載せて、溢さない様にゆっくりとルートお兄ちゃんに近付きます。私は「どうぞルートお兄ちゃん」とお茶の入ったカップを、ルートお兄ちゃんの目の前にゆっくりと置きました。少し緊張して手が震えてしまいましたが、お茶を溢さずに済みました。
ホッと安心した私は、思わずそのままルートお兄ちゃんの隣の席に座ってしまいます。それを見たお母さんは小さく笑ってから私たちの分のお茶を入れてくれます。私たちのお茶をお母さんが置いてくれて、テーブルの向かいにお兄ちゃんとお母さんが並んで座ります。
全員が席に着いたところで、ルートお兄ちゃんは私の淹れたお茶に手を伸ばします。ルートお兄ちゃんが味わう様に一口お茶飲むと「うん、美味しいよクアン」と褒めてくれました。食べることには殊更真剣なルートお兄ちゃんは、こういうことで嘘は言いません。ルートお兄ちゃんが褒めてくれたことに、私は思わず「やったぁ」と喜んでしまいました。
「ふふ、今日のクアンはご機嫌だな」
「そりゃそうだよ。だって、クアンはずっとルート兄ちゃんに会いたがってたからな。この間も、風の季節になったのに全然来てくれない!って、クアンのやつ拗ねてたぜ?」
「お兄ちゃん!?」
私が愚痴を溢していたことをお兄ちゃんが、ルートお兄ちゃんに暴露します。私は、どうしてそんなこと言うの!お兄ちゃんのバカバカ!と思いながら、お兄ちゃんのことを睨みますが、お兄ちゃんは肩を竦めるだけです。私が「む~」と膨れていると、ルートお兄ちゃんがまた頭を撫でてくれます。
「ごめんなクアン。学園が始まってから新薬の開発を進めたり、新しい魔術具を作製したり、その時間をたっぷり確保するために三年生の試験を終わらせたりして色々と忙しくて」
「ううん。ルートお兄ちゃんが謝ることはないよ。・・・あれ?三年生が始まったばかりなのに、ルートお兄ちゃんはもう試験を終わらせるの?」
ルートお兄ちゃんの言葉を聞いて、私は目をパチパチとさせます。私はルートお兄ちゃんから学園のことを聞いて、どんな風に過ごすのか知っています。試験というのは、水の季節までに学園で学んだことを、きちんと理解をしているか確認するために行われるもののはずです。風の季節が始まってまだ一月も経っていないというのに、ルートお兄ちゃんは試験を終わらせる気の様です。
「ちょっと違うなクアン。正しくは大半は終わらせた、だな。知識を問う試験がまだ少し残ってるけど、三年生の試験は、どちらかと言えば属性に関してのレポートがメインだから。レポートなら日頃から色々と私見をまとめたものを作っているから、ちょっと手直しして提出して終わりって感じだ」
ルートお兄ちゃんはそう言ってから、何か思い出す様に見上げてから「まあ、グリフ先生から、また、評価しづらいものを出しよってからに、って言われたけど」と言って頬を掻きます。ルートお兄ちゃんは、旅先で新たに発見したという海のマナについてまとめたレポートをグリフ先生に提出したそうです。
グリフ先生は、確か魔法使いコースの先生の中で一番偉い先生の名前だったはずです。そんな偉い先生でも知らないようなマナのレポートに、初めはあるかどうかも疑わしいとルートお兄ちゃんはレポートを突き返されたそうです。それでも、ルートお兄ちゃんは魔法で海の水を出して見せたことで、無理矢理グリフ先生を納得させたと話してくれます。
・・・ふふふ、ルートお兄ちゃんらしい。
「ところで、ルートお兄ちゃんはそんなに忙しいのに、今日はどうしたの?」
「あれ?ロンドさんから聞いてないか?新作のパンが出来たって」
ルートお兄ちゃんの回答に私はポンと手を打ちます。そう言えば、ルートお兄ちゃんと一緒にロクアートに行っていたロンドさんは、王都に帰ってきてからというもの、ずっと新作パンを作っていました。私は先日、ようやく形になったと、ロンドさんが喜んでいたのを思い出します。
・・・カーリンさんと産まれてくる子供のためって、ロンドさん一生懸命だったなぁ。
幸せそうなロンドさん夫婦を羨ましく思ってから、私は少し頬を膨らませます。ルートお兄ちゃんが忙しい最中に、ウチにやって来たのは、ロンドさんの新作パンを食べるためです。とてもルートお兄ちゃんらしい理由ですが、私に会いに来てくれた訳ではない様です。
「それとクートとクアンにロクアートのお土産を渡すのと、二人に大事な話があって今日は来たんだ」
丸で私の考えていたことを見透かした様にルートお兄ちゃんは言いました。もしかして、顔出てた!?と、私は急いで顔を押さえますが、すぐに違うと思い至ります。こういうことには少し鈍いルートお兄ちゃんのことです。私がそんなことを思って拗ねているとは思わないでしょう。
私がそんなことを考えて小さく笑っている間に、ルートお兄ちゃんが私とお兄ちゃんの目の前に、何かの動物を象った、透き通った綺麗な石を置きました。
「ロウアートで買ってきたガラス細工だ。クアンのやつは、リューエルという水生の動物でポテッとした身体に、クリクリッとした目が可愛いだろ?これはガラス細工だから手のひらの大きさだけど、実物はそうだな、赤ちゃんリューエルでもクアンよりは大きいかな?」
リューエルという動物を楽しそうに話すルートお兄ちゃんは、リューエルのことが好きなことがすぐに分かりました。実際の大きさは、とても大きい様ですが、ルートお兄ちゃんがくれたガラス細工通りであれば、確かに可愛い様に思います。
「ありがとうルートお兄ちゃん。大事にするね」
「良かったなクアン。それで、ルート兄ちゃん。俺のこれはなんていう動物なんだ?すげぇ、かっこいいんだけど」
「フフ、さすがクート。中々、分かってるじゃないか」
お兄ちゃんが興奮気味にルートお兄ちゃんに尋ねると、ルートお兄ちゃんはキラリと目を光らせて説明します。お兄ちゃんがもらったガラス細工も水生の動物の様ですが、リューエルの様に可愛くはありません。ガーマップというお魚を模したガラス細工で、長く伸びた鼻先と身体の上の辺りにいっぱいとげが生えています。
・・・ごめんねルートお兄ちゃん。私にはそれのかっこよさが分からないよ。
どの辺りがかっこいいと盛り上がるルートお兄ちゃんとお兄ちゃんに、お母さんが「良かったわね二人とも。ルートさんありがとうございます」と二人の話に割り込みます。チラリと私のことをお母さんが見たので、私が話についていけてないことを察してくれた様です。
「いえいえ、どういたしまして。あ、ちなみにハティナさんには果実酒です。お酒を飲まれるかどうか分からなかったので、どうしようかとは思ったのですが」
「私にも頂けるのですか?ありがとうございます。お酒はそれほど強くありませんが、楽しませて頂きますね」
「上手くやれば料理の香り付けにも使えますので。そうだ、今日のお昼ご飯はそのガーマップを食べて頂こうと思ってますので、あとで料理場をお借りしますね」
お昼ご飯をルートお兄ちゃんが作ってくれると聞いて、私はとても嬉しくなります。ただ、お兄ちゃんが手に持ってキラキラした目で眺めているガーマップのガラス細工を見て、少しだけ不安になります。
・・・美味しいの、かな?ううん、ルートお兄ちゃんが作ってくれる料理は何でも美味しいもの。
「さてと、お土産は渡したことだし、新作パンは・・・、まだのようだから、先に二人にとって大事な話をしようか」
ルートお兄ちゃんが私とお兄ちゃんを交互に見ながら姿勢を正したのを見て、私も思わず背筋を伸ばして、座り直します。
・・・大事な話とは一体、どんな話でしょう?
「クート、クアン。二人と俺が交わした契約のことを覚えているか?」
「もちろんだぜルート兄ちゃん」
「うん、私もちゃんと覚えてるよ」
ルートお兄ちゃんと出会った当時に交わしたルートお兄ちゃんとの契約。それは、お母さんの病気を治してもらう代償として、私たちの身柄はルートお兄ちゃんもの、という契約です。
本来であれば、私たち兄妹は奴隷としての扱いを受けていて当然の契約です。ですが、私とお兄ちゃんはルートお兄ちゃんからその様な扱いを受けたことは一度も受けたことがありません。大事な弟、妹として、食事を与え、教養を与え、勉学を与え、仕事を与え、と今までずっと見守ってきてくれています。
「あの契約な。今日を以って、解消することにするからな」
「え?」
私は予期しないルートお兄ちゃんの宣告に、目の前が真っ暗になる思いになります。胸がキュッと締め付けられて、何とも言えない息苦しさに襲われ、さっきまで聞こえていた周りの音が、何も聞こえなくなります。
・・・ルートお兄ちゃん。それってどういうこと?私たちはもういらない?
私は泣きたくなるのを必死に堪えながら、ルートお兄ちゃんに尋ねようと口を開きかけたところで、部屋のドアがバーンッと大きな音を立てて開きます。視線を向けると木製のトレイを持ったロンドさんが「出来たぜルート。これが新作パンだ!」と言って、部屋の中に入ってきました。木製のトレイには、焼き立てのパンがいくつも載っています。
「お、出来たのですね。すんすん、ん~良い香りがしますねロンドさん」
「だろ?中々、焼き加減が難しくてな。焦がさず焼くのにちょっと苦労したが、満足のいくものが出来上がったぜ?」
「それは楽しみですね。では、早速、実食させて頂きましょう」
ロンドさんの持ってきたパンに手を伸ばすルートお兄ちゃんの姿を見て、私は小さく「あっ」と声を出します。先ほどの話の続きをしたかったのです。ですが、ロンドさんのパンにかぶり付いたルートお兄ちゃんの幸せそうな顔を見せられては、邪魔をする訳にはいきません。
ロンドさんのお陰で泣きそうだったのは止まりましたが、もやもやした気分は止まりません。その顔が、パンを欲しそうにしてるとロンドさんに思われたのでしょう。ロンドさんが「ほら、クアンも食べてみてくれ。ハティナさんもクートも」と言って、新作パンを配ります。
ロンドさんから受け取ったパンからは、ルートお兄ちゃんが言った通り、パンの香りだけでなく何か甘い良い香りもします。美味しそうなパンに私はもやもやをぶつける様にかぶり付きました。
・・・あ、とっても甘い。美味しい。
ルートお兄ちゃんが時折、食べさせてくれるお菓子の様な甘いパンに、私は思わず笑みをこぼします。私がはむはむとパンを食べている頃には、ルートお兄ちゃんはロンドさんと新作パンの品評をしていました。
「良いですねロンドさん。美味しいですよ。俺があげたメープルシロップをパンに練り込んだといったところですね?」
「そうだ。ルートが言った通り、色々と考えた。それで、今まで出来上がったパンに挟んだり載せたりして食べることはあっても、初めからしっかりと味のあるパンはないなって思ったんだ。それで、まずはお前が気に入りそうな甘いパンを作ってみたって訳だ」
胸を張って説明するロンドさんに、ルートお兄ちゃんは道具袋の中から大きなビンを取り出して、ロンドさんに差し出します。中には黒い塊が入っているのが見えます。
「そこに思い至ってくれるとは、さすがロンドさんですね。じゃあ、はいこれ」
「あん?何だこれ?」
「チョコレートです」
「それは見りゃ分かる。これをどうしろって言うんだ、ってことを聞いてるんだ。・・・まさか、これを練り込めって言う気か?」
嫌そうに顔をしかめるロンドさんに、ルートお兄ちゃんはグッと右手を握って見せます。
「大丈夫、一つ形にして見せたロンドさんなら、いけるいける!」
「ぐっ、簡単に言ってくれるなこいつは。そもそも、それ、熱を通したらドロドロに溶けるじゃねえか!・・・ん?あ、いや、溶ける方が都合が良いのか。だったら、練り込むこと事態は簡単か?」
「ほら、もう良い考えが浮かびそうじゃないですか。ロンドさんならパンの支配者、パンロードも夢じゃないです」
「何だその呼び名は?聞いたことがねぇ。・・・はぁ、だがまあ、仕方ねぇ。パン工房のオーナーの命令なら、聞くしかないな」
ニッコリとしたルートお兄ちゃんの笑顔に押し切られる形で、ロンドさんがルートお兄ちゃんからチョコレートの入った大きなビンを受け取って、私たちの部屋を後にしました。
「やっぱり、自分でやるより出来る人に任した方が良いな。うんうん」
「あの、ルートお兄ちゃん?」
「ん?どうしたクアン?」
「さっきの話のことを聞きたいのだけど・・・」
「あぁ、そうだったな」
ロンドさんを見送っていたルートお兄ちゃんに声を掛けて、私はルートお兄ちゃんを連れて椅子に戻ります。パンは甘くて美味しかったですが、私の心はずっともやもやして、晴れた訳ではありません。ルートお兄ちゃんと同時に椅子に座った私は、ルートお兄ちゃんが口を開く前に質問します。
「ルートお兄ちゃんはもう私たちのこといらなくなっちゃった?」
私の質問を聞いたルートお兄ちゃんは、驚いた様に大きく目を見開いて、何度かパチパチと瞬きしてから「え?何で?どうしてそんな話になった?」と、両手を上げてパタパタとさせます。ルートお兄ちゃんが、こんなにもあからさまに狼狽えるところを見るのは初めてです。不謹慎ながらちょっと可愛いと思ってしまいました。
「えっと。さっき、契約は解消だって。だから、もう私たちのことはいらないのかなって」
「違う違う!そういう意味で言ったんじゃない!契約は解消するけど、俺はクアンやクートを手放すつもりは微塵もないぞ。あ、いや、それぞれの道を選んで欲しいから、この言い方は良くないな。うーん」
ルートお兄ちゃんは一生懸命な様子で私に説明してくれる途中で腕組みをすると、難しい顔で考え込んでしまいます。そんなルートお兄ちゃんには悪いですが、先ほどルートお兄ちゃんが見せた動揺した姿と「手放すつもりはない」と言われたことが、私は嬉しくて仕方がありません。
・・・良かった。もう必要ないって訳じゃなかった。
「んぐんぐ、なぁ、ルート兄ちゃん。結局、ルート兄ちゃんとの契約解消ってどういうことになるんだ?」
「ん?あぁ、えっとな。順を追って説明するとだな・・・」
残っていた新作パンをいつの間にかロンドさんからもらっていたお兄ちゃんは、モグモグと口を動かしながらルートお兄ちゃんに尋ねます。ルートお兄ちゃんは、お行儀の悪いお兄ちゃんを咎めることなく、説明を始めます。
私たちがルートお兄ちゃんと交わしていた契約の内容で私たちが聞いていない、ルートお兄ちゃんの中でしかない内容があったそうです。私たちの身柄を預ける、という条件は、私は一生のことだと思っていました。ですが、どうやら、ルートお兄ちゃんの中では有限だった様です。
「人の命に値段を付けるのは、如何なものかとは思ったんだが、いつまでもクートやクアンを束縛する訳にはいかないだろう?だから、無理矢理値段を付けた。それをクートとクアンがパン工房で働いてくれているお給金から差し引いていたんだ」
「へぇ、そうだったんだ。お金の管理はお母さんがしてたから、全然知らなかったぜ」
お兄ちゃんはそうだったのか、と頷いていますが、私は知っています。確か結構なお給金を頂いていたはずです。お母さんに少し聞いたことがありますが、お母さんが針子の仕事をしていた頃よりも、確実に多いと言ってました。ルートお兄ちゃんの話からするといくらか差し引いた後の様ですが、一体どれだけのお給金を頂いていたのでしょうか。
「あの、ルートお兄ちゃんは、それの無理矢理付けた値段って、いくらぐらいにしたの?」
「ええっと、大病を患った人が、よく効く高価な薬を買った場合にそれが治るまで服薬したと想定しての金額で、小金貨三枚だ」
「小金貨三枚・・・、そんなにも私たちは稼いでいたの?」
ルートお兄ちゃんは三本指を立てながら答えてくれます。私は私たちが稼いだという金額を聞いて、開いた口が閉まりません。そんな私の驚いた表情を見たルートお兄ちゃんが小さく笑います。
「ふふ、信じられないか?でも、二人がしっかりと働いてくれた結果だ。まあ、パン工房で働いてくれた分だけじゃなくて、収穫祭の時の分とか、エルレイン先生の撮影代とか臨時的なものも含めて、にはなるけどな」
元々、病気になったお母さんの薬を買うお金も、その日の飢えを凌ぐための食べる物を買うお金すらもない。だから、私とお兄ちゃんは飢えを凌ぐために市場で盗みを働いていました。そんな生活をしていたのは、ほんの数年前の話です。
そんな生活をしていた私とお兄ちゃんで、小金貨三枚分も稼いだと聞かされても、にわかには信じられません。でも、ルートお兄ちゃんが私たちに嘘を付く意味はないので、全て本当のことなのでしょう。
「そっか。そうなんだ。・・・ルートお兄ちゃん。私たちに働く場所をくれてありがとう」
「一先ずは、どういたしまして、だな。ただ、大事な話っていうのが、実はその働く場所についてなんだ」
「どういうこと?」
私が首を傾げるとルートお兄ちゃんは、私とお兄ちゃんを交互に見ながら話し掛けてくれます。
「元々、このパン工房で二人に働いてもらっていたのは、俺との契約があって強制していたものだ。その契約が解消されることで、これから二人は自由の身となる。だから、クートとクアンの二人には自分がやりたいことをやって欲しいと思っているんだ」
「やりたいこと?そんなこと言われてもなぁ。このままパン工房で働いたら駄目なのかルート兄ちゃん?」
「もちろん、それも構わない。パン工房で引き続き働いてくれるのも大歓迎だし、別の職業に就いてみたいでも、何でもいいんだ。俺が言うのもなんだけど、クートとクアンはまだ若い。というか、子供だ。だから、自分の将来を自分で選んで欲しいと思っているんだ」
私たち兄妹のことを思ってくれたルートお兄ちゃんの言葉に、私は嬉し過ぎてまた泣きそうになります。先ほどの悲しい涙とは違いますが、ここで泣き顔を見せてしまうとルートお兄ちゃんを困らせることになります。私がグッと涙を堪えている内に「う~ん」と唸っていたお兄ちゃんが口を開きます。
「だったら、俺はこのままパン工房で働くぜルート兄ちゃん。第二工房で働く皆に、焼き方を教えるのも楽しいし、ロンドさんにも中々、筋が良いって言ってもらったこともあるし。俺に今の仕事が向いてると思うんだ」
「今すぐ決める必要はなかったんだけど、クートの決意は固いようだな」
「おう!もちろんだぜルート兄ちゃん!」
お兄ちゃんはキリッとした表情で答えます。それを見たルートお兄ちゃんは、満足そうに頷いてからちょっと意地悪な笑みを浮かべます。
「それじゃあ、今後は帳簿の仕事もクートに振った方が良いな。パン工房で続けて働いてくれるというのであれば、必要なことだし」
「うげっ、それ苦手なんだよなぁ俺。・・・はぁ、でも、仕方ないか」
嫌な顔を見せたお兄ちゃんでしたが、すぐに立ち直ります。苦手なことでも立ち向かう、と意気込んでいるお兄ちゃんの姿はとても勇ましいです。こういう決断を躊躇いもなく出来るお兄ちゃんは、本当に凄いと思います。
「だったら、私も」
「ん?クアンもクートと一緒でパン工房で働くのか?」
「ううん、そうじゃなくて。私もやってみたいって思っていたことがあるの」
「お、そうなのか。それじゃあ、クアンがやってみたいことって何だ?」
興味深そうな表情で私を見るルートお兄ちゃんを真っ直ぐ見返しながら私は宣言します。
「私、ルートお兄ちゃんみたいな魔法使いになりたいの!」
クアン視点の閑話でした。
次回は本編に戻ります。