二千年の祈り
【二千年の祈り】
止まない吹雪が、オイルランプに照らされた宿の窓を揺らす。先程まで語り部が語っていた物語に酔いしれていた旅人たちの中から、吐息ともつかない声が漏れる。
一息に現実に引き戻された彼らは、まるで語り部が語った光景を間近で見ていたかのような錯覚に陥っていたのだ。
吹雪で足止めされて幸運だったな。そんな声が誰かから漏れる。
こんなにも引き込まれる「物語達」に出会えたことを、幸運と言わずして何というのかと。
「では……次の話はこんなのはどうだい」
勿体振る語り部に、旅人達が身を乗り出す。彼の人の唇から紡がれるのは悲恋か? 英雄譚か?
期待を込めた視線を受けて、語り部が薄く笑いながら口を開いたーー……。
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ある国のとある小さな村に、それはそれは美しい娘がいたそうだ。黄金の髪にサファイアの瞳。絹のようになめらかな肌。
噂を耳にした王族や領主達がこぞって求婚したが、娘は首を縦に振らない。
彼女は働き者の村娘で、幼馴染に恋する普通の少女だったのだ。
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ダンは働き者の羊飼いの少年だった。平凡で平和で、どこにでもある普通の村の、普通の青年。それがダンだった。
大切に育てた羊達を飼い犬のクーンと共に放牧し、頃合いになったら毛を刈り取り。父から子へと脈々と受け継がれるその技術と、自身の羊達の毛の品質の良さは、ダンにとっての誇りでもあった。
春告鳥が盛んに声を張る頃、ダンの家は一家総出で羊の毛を刈り取るのだ。
この時期のダン一家はとても忙しく、ダンの羊の毛は、良質の毛糸として国中に流通されていく。
新しい羊毛が刈り取られる時期は、村人にとっても待ち遠しいものだった。
「やあ、ジェディ。今いいかい?」
籠いっぱいに、刈ったばかりの羊毛を詰めて。ダンは一軒の店の扉を開いた。こじんまりとした店だが、丁寧な仕事で評判の村唯一の服飾店。ダンの幼馴染、ジェディの店だった。
「まぁ、ダン! もう持ってきてくれたの? 後で父さんと取りに行くつもりだったのよ」
秋の稲穂よりも黄金色の髪と、まるでサファイアのようにきらめく瞳が印象的な美少女だ。思わず見とれていたダンは、照れくさそうに笑うと籠を下ろした。
「い、いいんだよ。俺たちその……幼馴染だろ。これくらい、どうってことないさ。本当に」
「あぁ、本当にありがとう……。嬉しいわ」
「本当に気にしないで。ジェディの為なら……その」
ダンが言葉を続けようと口を開きかけると、ドアベルが軽やかに鳴った。思わずダンとジェディが振り返ると、精悍な身体つきの青年が立っていた。
「セリュード!」
ジェディの髪がダンの視界の端で揺れ、金の軌跡を描いて目の前の青年の腕の中へと抱きとめられた。
セリュードもまた、ダンとジェディの幼馴染であり……。
「いつ戻ったの?」
「ついさっきだよ。色々準備があるだろ」
そう、セリュードはジェディの婚約者だった。五日後、式を挙げるのだ。
幸せそうに微笑み合う恋人達を見つめていたダンは、苦笑いを浮かべると咳払いを一つ。
「僕もいるんだけど?」
精一杯の皮肉を込めて、ダンが口を開く。セリュードはニヤリと笑うと、ジェディを解放しダンに歩み寄った。
「悪かったって、兄弟。久しぶりだな」
「元気そうでよかったよ、セリュード」
がっしりとした腕がダンの背を叩く。騎士団に志願したセリュードは、ここ三年ほどで本当に立派に成長し、今では剣の腕も相当らしいと村でも噂の種だった。
村一番の美女と、村一番の剣の達人の恋物語。母親が語る寝物語のようなハッピーエンドに、村人達も心から祝福していた。
「じゃあ、二人を邪魔するのも悪いから僕は行くけど。明日から王都へ羊毛を卸しに行くから、数日留守にするよ。ジェディ、もしこれで足りなかったら父さんに言って」
「えぇ、ありがとう。気をつけてね」
「なんだよ、久しぶりなんだから今日は」
セリュードが残念そうに声を上げる。ダンは苦笑いを浮かべると、首を横に振る。
「嫌だよ、セリュード。君と飲んだら、明日絶対に寝坊だ」
「つれないねえ」
「やめろよ、仕事なんだから。じゃあ、帰ってきたら付き合うから」
「おう、約束な」
笑顔で二人に手を振り別れると、ダンは仕事場へと足を速めた。
ダンにとってジェディは、ずっと恋い焦がれてきた相手だった。いや、ダンだけじゃない。ジェディを一目見た男は、まるで魔法にかけられたように恋に落ちる……そんな魅力がある。
ダンもジェディと結ばれることを夢見た時はあった。だが、ジェディから「秘密」を打ち明けられた時から。ダンの中で、ジェディに恋焦がれることは禁忌となった。悟られないように、ジェディが悩んだ時に支える存在でいることを選んだのだ。
「よかったね、ジェディ」
わずかに残る胸の痛みを振り払うように、ダンは牧場へと急ぐ。ジェディへの想いを断ち切るように、心から二人を祝福できるように。
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青白い三日月が、暗い裏庭に冷たい光を落とす。少女が思いつめたような顔で、ダンの手を握る。
「ダン……」
胸に秘めた想いを打ち明けるべきか、悩んでいるのだ。
もう、何度も見た光景だった。ダンは、その後に続く言葉すら予期していた。いや、既に知っていたのだ。
またこの夢か……と、どこか心の中では冷めた目で辺りを見る。
「私、セリュードが好き……」
わっと顔を覆って泣き始めた少女……幼い日のジェディの頭を、幼いダンはそっと撫でる。大丈夫だよと、言ってやりたかった。
「ジェディ」
幼い日のダンに、気の利いた言葉が出てくるはずもなく。
「僕もセリュードも、いつだってジェディのことが大好きだよ」
幼いダンが、精一杯元気付けようと紡いだ言葉がそれだった。ジェディがどう思ったかは、ダンにはわからない。
それでもジェディは顔を上げると、涙に濡れた瞳を細めて笑った。
とても美しく、妖しく。およそ少女には似つかわしくない美貌で。思えばこの時、ダンは皮肉にもジェディへの恋心を自覚したのだった。
「ありがとう、ダン。あのね……私の気持ち、セリュードには内緒ね」
二人だけの秘密。例え違う相手への恋慕だとしても、それはダンにとってはとてつもなく甘美なものだった。
いつかはこの秘密も、秘密でなくなる日が来る。それでも束の間の「共犯者」として存在することを、ダンは選んだ。
「うん、僕いわないよ」
幼き日の、他愛のない「秘事」は。いつしか成長したダンの心を縛る鎖となる。
そんなことも露知らず、幼いダンはどこか嬉しそうに笑っていたのだった。僅かな胸の痛みを押し殺して。
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夢をみた後の目覚めは、いつだって最低だった。特にこんな日は。
ダンは欠伸を噛み殺しながらベッドから這い出ると、古ぼけてくすんだ壁掛け鏡を覗き込んだ。死んだ魚のような目をしたうだつの上がらないそばかす顔が、ぼんやりと見つめ返してくる。
赤土のような髪の毛は、柔らかい猫っ毛のせいで好き勝手に跳ねていた。
「はぁ……」
深い溜息とともに、棚に置いてある布を掴むと部屋を出る。裏手にある井戸の水を汲み上げ、顔を洗うと少しはマシな気分になった。
ダンは仕事で王都へ行く。それは本当のことだったが、ずっとジェディへ秘めてきた想いとの決別のためにプレゼントを考えていた。
いや、決別のためと言いつつも、ダンが選んだプレゼントはジェディが長く使えるものな辺り……まだ未練があるのも事実だった。
それでもダンにとって二人が大切な幼馴染なのは本当であったし、ダンとしても二人を祝いたいというのは本心からくるものだった。
「よし、準備しよう」
いくらかスッキリした頭で、ダンは部屋へと戻った。髪を丁寧に撫でつけ、一張羅に身を包む。タイをつけることなんて、商談か祝い事くらいしかない。今回羊毛を届ける相手はお得意様だが、それでも毎度緊張するものだ。
「母さん、行ってくるよ」
家の中で針仕事をしていた母親が立ち上がり、ダンを抱きしめる。暖かく優しい抱擁に、ダンは目を細めた。
「気をつけてね、ダン。これ、道すがらお食べ」
そう言って母親が手渡してくるのは、パンにチーズとハムを挟んだサンドイッチだった。
「ありがとう」
毎度のことだが、心配する母親を押しのけるようにして家を出ると、納屋に停めてある馬車へと向かった。
既に前の日から羊毛は積み終えてあり、後はロバを繋ぐだけだった。本当は馬のほうがいいのだが、生憎馬を買う金はダンの家にはない。
「父さん」
「来たか」
ダンの父親は手馴れた様子でロバを馬車に繋いでいく。この村は王都から一番近い村とあって、ダンの家のようなロバでもそこまで時間はかからない。それでも、着くのは明日の朝だ。
「気をつけて行けよ。盗賊に出会ったら、迷わず荷物とロバは捨てなさい」
「わかってる」
荷を守るために命を捨てるなど、無意味なことだ。今年損失が出たとしても、羊の毛はまた生えるのだから。
「それじゃあ、行ってくるよ」
ロバの背を軽く叩くと、ロバはゆっくりと歩き出した。
ここから約半日。変わり映えのしない田舎道から街道へ出るまでは退屈な行程が続くのだ。街道へ出てしまえば、乗合馬車や大きな商会の馬車、巡回する騎士団などを見ることができる。そこまでいけば、休憩所がある。ダンとしても野宿はごめんこうむりたいところだった。ひとまずの目的地は、休憩所だ。
休憩所から王都は、もう目と鼻の先。危なげのない道を選ぶなら、それが一番の近道と言える。
ダンはそんな父たちからの教えを守る、真面目な青年だった。
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翌日の昼過ぎのことだ。何の事件もなく無事に王都へ辿り着いたダンは、商談を終えると通りを急いでいた。
王都は目が回るほど人も物も建物も多いが、ダンの目的地は一つだ。
肩で息をしながらダンが立ち止まったのは、古い木製の看板が揺れる金物屋の前だった。
「ごめんください」
軋む扉を開くと、奥のカウンターに座っていた老婆が顔を上げた。
「いらっしゃい。おや……あんたかい」
「おばあさん、この前言ってた鋏なんだけどさ」
「あぁ、あれかい……」
ダンがジェディの為に見繕ったプレゼントは、裁ちばさみだった。この店で見つけた裁ちばさみは、小さいながらも装飾用の宝石があしらわれ、金細工が美しい……ジェディにとても似合うだろう裁ちばさみだった。
「あれなんだが、もう売れちまったよ」
「そんな! 取っておいてってお願いしたのに……」
「そうは言っても、こっちも商売だ。諦めておくれ」
老婆からの死刑宣告のような言葉に、ダンは絶句した。大切なジェディへ、お祝いの品がないなんて。
ダンはがっくりと肩を落とし、金物屋を後にする他なかった。
ぼんやりとしながら歩いていると、いつの間にか見知らぬ通りに迷い込んでしまった。気がついたときには、王都の華やかな喧騒は遥か遠く。薄暗い路地の只中で、ダンは慌てて引き返そうと踵を返した。
「……そこのぼうや」
薄気味の悪い路地で唐突に声をかけられ、ダンは心臓を死の神モルドに鷲掴みにされたかと錯覚した。
「聴こえなかったかしら?」
薄暗い路地には不釣り合いな、甘くとろけるような囁き。ダンは冷や汗が吹き出るのを感じながら、恐る恐る振り返った。
「そんなに驚かなくても大丈夫よ」
ダンは思わず生唾を飲み込んだ。目の前に立っていた女が、あまりにも美しく浮世離れしていたからだ。ジェディも美しいが、この女は魔性のような。夜に光る猫の目のような金色の目が、ダンのことを射抜く。黒とも紫ともつかない不思議な光彩を放つドレスと、足元まで届くヴェール。豊かな長髪は雪のように白く、柔らかなウェーブを描いている。
「あ、あなたは……?」
喉が乾いて、上ずったような声が漏れる。ダンは悲鳴をあげそうになりながらも必死で口を開いた。
「怖がらなくてもいいのに……。ねえ、さっき金物屋にいたでしょう?」
ダンの問いには答えず、女が微笑む。
「実は、あの鋏を買ったのは私なのよ。それで、あなたの様子を見ていたらとてもかわいそうで……ねえ、よければこれを受け取ってくれないかしら」
「こ、これ……」
女が取り出したものを見て、ダンは口をつぐむ。
女が懐から取り出したのは、絹に包まれた裁ちばさみだった。布の中から取り出された裁ちばさみは、ダンが見繕った裁ちばさみよりも質素だが、装飾は見事だった。
持ち手の部分は、金色の鳥の翼をあしらったものになっている。開くと、まるで鳥が翼を広げたように美しい。使い勝手に関してはわからなかったが、ダンは素直に美しいと思った。
「見たところ、贈り物でしょ? これなら間違いなく喜ばれると思うわ」
「で、でも……こんな高そうなもの……」
「あら、いいのよ。これはね、贈る相手の本当に幸せになる姿を想像して渡してあげると願いが叶うと言われているの。素敵でしょう?」
女は微笑み、ダンの手に鋏を握らせた。
「あの、お金……」
この日のためにコツコツと貯めた金貨が、懐に入っていた。ダンが袋を取り出そうとすると、女がそれを手で制した。
「いいのよ。差し上げるわ」
女は満面の笑みで微笑むと、優雅に踵を返し路地の奥へと歩いていく。ダンは慌てて口を開くと、大きく手を振った。
「あ、ありがとうございます! あの……お名前は……」
女は立ち止まると、思い出したように振り向いた。
「……デジールよ」
女はそう言うと、路地の奥へと消えていった。
もしもこの時、ダンが冷静であったなら。女の言うことに矛盾があることに気がつけただろうか。
だがダンは、突然舞い込んだ幸運を信じ、神に感謝した。これでジェディに喜んでもらえると。
「ジェディの幸せ……」
ダンは小さく呟くと、裁ちばさみを大事に懐へ仕舞い込み歩き出した。ジェディの喜ぶ姿を想像しながら。
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村に帰り着いたダンは、晴れやかな気分だった。ジェディの幸せ。ジェディの笑顔。
「……僕の隣で笑ってくれたらよかったけど」
僅かに首を持ち上げる仄暗い感情を押し退け、ダンは馬車を納屋に納め歩き出した。
通い慣れた道を歩き、見慣れた服飾店の扉を開く。笑顔のジェディが出迎えてくれた。
「まぁ、ダン! おかえりなさい」
「やあ、ジェディ。いよいよ明後日は式だね」
「ふふ、そうね。なんとか間に合いそうでよかったわ」
裁縫を仕事にしているジェディは、コツコツと自分のウエディングドレスをつくっているのだった。
「きっと素晴らしいんだろうね」
「そうだといいんだけど。自分の中の最高傑作になるよう、頑張ってる」
「ジェディなら大丈夫だよ」
いつかこんな日が来ることはわかっていた。結婚してしまえば、ジェディがダンを頼ることも少なくなるかもしれない。例えジェディが隣で笑ってくれなくても。
「そうだ、これ。お祝いだよ」
「まぁ、ダン……悪いわ」
「いいから、あけてみて」
ジェディはダンが差し出した布を開き、息を飲む。
「ダン……嘘……。これ、本当に素敵だわ……」
うっとりと声を漏らすジェディに、ダンははにかんだ笑みを浮かべた。
「気に入ってくれたみたいでよかった」
「あぁ……本当に綺麗……。ありがとうダン、大好きよ」
花のような香りがダンを包み込む。ジェディの細い腕が、優しくダンを抱きしめた。なんてことはない、親愛の抱擁。瞬間、ダンの心臓がざわりと音を立てた。押し込めた思いが溢れそうになり、ダンは唇をきつく噛む。
「ジェディ、幸せになってね」
優しいダンは、笑顔を張り付かせてジェディを引き離した。ジェディは嬉しそうに微笑むと、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、ダン。本当に。そうだわ、ウエディングドレスはこの鋏を使って作らせてもらうわね!」
「うん、ありがとう。それじゃあ僕は行くよ。父さんに呼ばれてるんだ」
「ええ、わかったわ」
幸せそうなジェディに見送られ、ダンは服飾店を後にした。肩の荷がおりたような感覚に、ダンは安堵の吐息を零した。
裁ちばさみのお伽噺なんて本当にあるのかは知らないが、これでジェディが笑顔でいてくれるなら。ダンの心の痛みなんて、耐えられるものだった。
「本当におめでとう、ジェディ」
もうダンの胸は痛まなかった。
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夢をみた。いつもの夢じゃない。純白のドレスを縫うジェディの夢だ。手にはあの、鳥の翼をあしらった裁ちばさみ。
幸せそうに布を切り、縫い合わせていくジェディの姿に、ダンの心も暖かくなった。
ふと、ジェディがぼんやりと鋏を見つめ始める。両手で鋏を持つと、不思議そうに首をかしげ……胸に咲いた真っ赤な薔薇に、ダンは悲鳴をあげた、つもりだった。
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ベッドから飛び起きたダンは、それが夢だったことに安堵した。なんて不吉な夢なのかと頭を振ると、水を飲むために立ち上がる。そこで、異変に気がついた。
虫の声も、風の音も聴こえない。それどころか、いつもは聴こえる父親のいびきも聴こえない。
「父さん? まだ寝てないの?」
外はまだ暗い。部屋に置いてあるランプに日をともすと、ダンは居間の方へと向かった。
「父さん?」
居間の奥を照らすと、父親のブーツが見えた。暗闇の中、まだ椅子に座って何かしているのだろうかと回りこみ、ダンは短い悲鳴をあげた。
「とっ……父さ……」
ランプに照らされた父親の顔は驚きの表情のまま固まり、胸には真っ赤な薔薇のように血が溢れ出ていた。一目で死んでいるとわかる、そんな。
「……か、母さん!」
両親の寝室に駆け込むと、ベッドの上で同じように胸から血を流し死んでいる母親の姿が目に入る。ダンは恐怖と混乱で喚きながら、家の外へと飛び出した。
「な、なんだよこれ……」
村の篝火に、転々と倒れ伏す村人たちの姿が浮かんでいる。何かから逃げたのか、身体中擦り傷だらけの遺体や、子供の遺体もあった。
「盗賊……? そうだ、ジェディ!」
幼馴染の安否が心配で、ダンは駆け出した。ジェディの家の扉を開けると、中はランプの明かりがついていた。
「ジェディ! 無事?!」
返事の代わりに、奥からジェディの鼻歌が聞こえてくることに気がついたダンは、安堵しつつ奥へと向かった。身に起こったことが異様過ぎて、その不自然さに気がつけず。
部屋に足を踏み入れたダンは、思わず口元を覆った。
部屋の中央にはウエディングドレスとジェディ、そしてみるからに事切れているとわかる様子の、セリュードだった。
ジェディはセリュードの「頭部」を抱き締め、鼻歌を歌いながら頭を撫でていた。セリュードの瞳は、やはり驚きからか見開かれている。
「ダン?」
鼻歌が止み、ジェディが笑顔で顔を上げる。誰のものだろうか、ジェディの両腕も髪も服も真っ赤に染まっていた。
「……何が」
「わかったの、私」
「え……?」
「ダンが祈ってくれたのよね?」
ジェディの腕の中から、ごろりとセリュードが転げおちる。ジェディの右手には、あの裁ちばさみ。
「だからね、こうしないと」
ゆっくりと。ジェディの腕が動く。ダンが止めるよりも早く、ジェディの胸に深々と裁ちばさみが刺さった。
「ジェディ!」
張り裂けんばかりに叫んだ瞬間。ジェディの身体が倒れるより先に、ジェディを光が包み込む。そのまばゆい輝きに、ダンは思わず目を閉じていた。
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漆黒のドレスに身を包んだ女が、朽ち果てた村跡を歩く。かつて、羊飼いがいた村だ。
村の中央に、それは美しい石像がたっている。はるか昔からあるもので、誰がなんの目的で置いたものかはわからない。ただ、両手は祈りを請うように胸へ、顔は悲しげに歪んでいる。
漆黒の女の側へ、一匹の大きな黒犬が近寄った。その瞳は悲しそうでもあり、怒りに燃えているようでもあった。
「だから言ったでしょう? 贈る相手の幸せを本当に願わないと」
女の手には、美しい鳥の翼を模した裁ちばさみが握られていた。漆黒の犬が、低く唸り声をあげる。
「それは呪い。いつか、呪いが解ける時もくるけど……」
女はくすりと笑うと、漆黒の犬を見下ろした。
「それがいつかはわからない」
女はそれだけ言うと、犬から視線をそらし歩き出した。
後に残されたのは、漆黒の犬と祈るような姿の石像だけだった。
悲劇を起こした裁ちばさみの行方も、欲望を冠する漆黒の女、デジールも。まるで霞のように消え去った。
二千年の後、呪いが解かれるその日まで。漆黒の犬はこの村を守っていくのだろう。
誰に知られることもない、罪と罰の物語。
いつか、裁ちばさみの刃が錆びて朽ちたとしても、確かにここにあった物語だ。
人々の間で、まことしやかに囁かれる、どこか教訓めいたおとぎ話の一つとして。風化し、真偽すら定かではないその結末を耳にするものは、果たして現われるのだろうか。
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幾百の季節が巡る。春告鳥が高らかに鳴く頃、朽ちた村の中央に、かつてあった石像は……今はない。
護るように侍っていた漆黒の犬の姿もまたなく、彼らの行く末を知るものはない。
おとぎ話に新たなページが増え、贖罪の物語が終わりを告げることはまだ、ない。