世界の裏側
「君、それはいけないよ。危険だ、非常に危険だ」
白衣の男は言った。震える指で、女の持つそれを指差す。女は男を一瞥すると、男の言うそれに視線を向けた。
怯えた男の蒼白な顔は、どうやら事の重大さを女に伝えることは出来なかったようだ。女は平然としながら、自分の右手にすっぽりと収まるそれをあやすように揺らす。黄色っぽい肌色のそれは輪郭がひどくぼやけていて、靄のかかったように不透明で不確かで、萎んだゴムのように草臥れていたが、しかし確かに、それ自体が呼吸するように蠢いていた。
「教授、こんなものが危険だと仰いますか」
「ああ、ああ、危険だ、それが一番危険なのだ」
「嘘仰い」
女はうっすら微笑みながら、男を諭すように優しげな眼差しを向けた。
「こんなものが危険なわけありません」
「そんなことはない、君、いけないよ、いけない」
男は首を振る。
女は今度は両手にそれを持ち、そして腕に抱きかかえるように寄せた。それはまるで赤ん坊のように、母親の腕の中で眠っているようだった。それを見て、男は吐き気を催し口を覆った。
「なぜなら教授、これこそが我々の行為の原点だからですよ。それなくしては、我々はこうしてこの世界で、生きてはいないのでしょう」
女の発言に、男は怖ろしげな悲鳴をひとつ上げた。
胸を張り誇らしげに言う女は、自分の言葉が正しいものと信じて疑わない。まるで世界の真理を、たったの数秒で解いてしまったかのような、そんな自信に満ちた表情をしている。
「しかし、我々は目を覚まさなくてはいけません。世界は――たとえ腐敗した崩壊寸前の世界であったとしても、我々は、目を覚まさなくてはいけません」
男は女の視線から逃れるように顔を覆いながら、しかし震える声で、「いけないよ、君。いけないよ」と繰り返した。
足元に蹲る男を、女は赤ん坊を抱いたまま悠然と見下ろしていた。その眼差しに、もはや優しさの欠片もない。何を、畏れる必要があろうか――と。
女は何てことない、ただ冷静に物事を見送るだけのような眼差しを浮かべていた。そこには、何ものにも乱されない意思がある。
「本物を直視しないままに、偽りばかりが我が物顔で跋扈する世界を、我々はどうして享受できましょうか。いつの時代も、悪徳は赦されません」
「しかし君、世界の裏側は狂気だ――見てはいけない、いけないよ」
「……教授」
女が呆れたように吐息をついた。女が腕に抱えた塊は、人間の赤ん坊でいうならば、体よりも頭の方が何倍も何十倍もでかい――真ん丸の頭に手と足がちょろっと生えているだけのような――奇妙な頭でっかちな物体になっていた。
男はその肌色の塊に、次は目玉がふたつ現れるのではないかと思って、顔を覆う指の間からそっと盗み見た。思った通り、塊には不格好な目玉がふたつ、気味悪くぎょろぎょろと動いていた。
男は愕然とした。しかしその目玉を見据えたまま、男は急に勇気を振り絞ったように、よろけながらも立ち上がる。男は使命を感じ始めていたのだ。女を止めなくては――女が知ってしまう前に、この気持ちの悪い赤ん坊を、どうにかして葬らなくてはならないという、使命。
「世界は暴くものではない。そんなことをしたら、人間は狂ってしまう。……君、たとえば、この世界が嘘であるとしたら、我々の存在すら、不確かなものになってしまうよ」
手の震えを押さえながら告げた男に、女は弱く首を振った。
「……そんなことはありません、教授。この世界は、真実を覆い隠す悪徳です。我々は認識することで生きてきましたが、認識することでしか生きられないのではありません」
男は「傲慢だ、なんて浅墓だ」と小さく舌打ちを漏らした。
「しかし君、世界が悪徳であるのならば、我々の認識こそが悪徳ということではないか」
「ですから、教授」
女は腕に抱えていた赤ん坊を、緑色の手術台に無造作に乗せた。赤ん坊は無様にもでかい頭をごろごろ転がしながら、泣き喚いた。その泣き声に、男は腰を抜かした。
「我々は一度、――その認識を殺さなくてはなりません」
女は医療用のメスよりももっと刃渡りのある、大きな、まるで鋸のようで、それでいて切っ先の鋭く尖った、簡単に突き刺せるようなナイフを大切そうに握っていた――その刃先を、赤ん坊の頭へ突き刺した。
赤ん坊は泣き声を上げなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ねえ君、言っただろう――我々がどんなに不確かなものか。だからこそ、世界は存在していなくてはいけないんだ。それがたとえどんな世界だろうと」
床に崩れ落ちた女に、男は気遣うように声を掛けた。
手術台の赤ん坊は、最初に見た時と同じくらいにまで縮み、煙のようにぼやけ、何だか分からないしわしわの塊になっていた。おぼろげで、そこにあるのだかないのだか、途轍もなく不確かなものだ。その内とろけて消えてしまうだろうと、男は思う。もはや、それははじめから葬る必要のないものだった。
「そんな、世界は……世界は崩壊寸前どころか、もう――…」
女は床に手をついたまま立ち上がる気力もなく、呆然と呟いた。
「私たちの居場所は、どこにあるというの」
「だから君、世界すら無いのだから、どこまで行っても、虚無だけだよ」
男は何てことない、ただ冷静に物事を見送るだけのような眼差しを浮かべていた。
「世界が幻ならば、それを創る認識すら幻に過ぎないのだよ」