序 天保六年八月
序
天保六年八月――――。
天を轟する雷光が、暗天を裂くようにして響き渡った。
夜天に雲ひとつ無いはずの静かな暗夜が、突如として嵐の吹き荒ぶ凄まじい豪雨が総てを押し流すように天を支配していく。
この刻、――――。
吉田家の主が息を引き取り、その幼い養子、数えで六才となったばかりの吉田寅之助が。
その主が息を引き取る枕許で、白くおさないかおに何の表情もなく、否。
薄い微笑をおさないくちもとにたたえて、きちんと正座してあるのが見つかるのは、夜も更けてさらに突然の嵐に動くこともままならぬ人々が、ようやく朝の光に命存えたことに、息つくことのできた翌朝まで待つこととなる。
荻城下が、時ならぬ突然の嵐に翻弄された此の夜。
けして、引き返すことのできぬ異変が起きていたことを。
生けるもの総てに降り懸かる事となる変異の訪れた夜であることを。
いまだ、完全に知ることのできたものはいなかった、――――。
「利助!なにをしておる!利助!」
山畑の貧しい小作の痩せた土地を耕す村のものが呼ぶのに、返事をすることも忘れ、痩せた小僧――利助は、樹々の間から、山の向こうを覗き見ることのできる高い場所にまで身を運んで、身軽に岩を駆け、それをみて。
目をみひらいていた。
山の向こう―――遥か、それはこの長州藩の主が住まう荻城下、その遠くをみることのできる場所にまできて。
―――いかぬ、…荻が、いや、…―――。
荻城下にいま稼ぎにいくと利助たちをおいて足を運んでいる父の姿が目蓋に浮かんだ。
父殿、…―――。
いま利助の表情に浮かんでいるのは、純粋に恐怖というものに近い。森閑とした樹々に山のこの場所にまで、その瘴気が利助を直撃してるようでもある。何もこの身間近に敵が害を成そうとしている訳ではないというのに。
震えが、身を凍えでもしているかのように襲うのに。
――――何が、荻でおきておる?
恐怖が身を震わせる中で、利助は不意にそれを振り切るように、視線を無理矢理荻のある方より逸らし、たっ、と山奥へと駆け出していた。
ましらのように、身軽に利助の姿は山奥へと消えていく。




