一日だけ巻き戻った王は、破滅を回避できるか
うっ、ああっ!
私は首を押さえて起き上がった。目に入って来たのは明るい朝の光と、見慣れたお気に入りの絵画。ここは自分の部屋だ。だいぶうなされていたようで、汗をかいている。
夢を見ていたのだろうか。長いおかしな夢。
いや、今が夢の中なのかもしれない。見慣れた部屋ではあるが、ここは王太子時代の寝室のようだ。
即位した私は、王の部屋に移り、この部屋は第一王子に譲られている。
ベッドサイドテーブルには、青い飾り紐が載っている。あれは確か、十一歳の誕生日に、母にもらった剣の飾り紐だ。王家の紋章が織り込まれた、凝った布で作られており、大のお気に入りだったな。
すごく懐かしくて、嫌な記憶に騒いでいた胸の内が、少し温かくなった。いい夢だ。
その時ドアをノックする音が聞こえた。
「入れ」
いつもの習慣で答えると、ドアがガチャリと開き、昔の私付きの侍女メイが入って来た。ちゃんと二十年前の若いメイだ。
妙にリアルな夢だな。
そう思って、胡散臭げにメイを睨んでしまったようだ。メイが心配そうに寄ってきた。
「サムエル様。どうかされましたか。ご気分がお悪いのでしょうか」
「いや、何でもない」
そう言った途端に、私は自分の口を押さえた。声がかわいい。なんだこれ。
「ちょっと鏡を見せてくれ」
メイが手鏡を持って私の横に立ち、鏡を差し出した。そこに映っているのは、見慣れた少年だった。手を動かすと、鏡の中の少年も手を動かす。
「すまない。今日のスケジュールを教えてくれないか」
メイは不思議そうにしていたが、教えてくれた。
「今日は、婚約者を決めるための、園遊会の日でございます。早めにお支度を済ませないといけませんので、そろそろ起きていただこうと思ってまいりました」
私は後ろに回した自分の腕を、ぎゅっと抓ってみた。痛い。
ということは、これは夢ではない? 私は11歳の子供なのか?
「メイ、少し外してくれ。まだ眠気が残っているようなんだ。それから、コーヒーを一杯頼む。濃い目のブラックで」
「え、……コーヒーですか」
「え?」
ああ、そう言えばコーヒーは、15歳まで飲ませてもらっていなかったか。思い出した私は渋々と言った。
「間違えた。紅茶でいい......砂糖はいらない。ストレートにしてくれ」
「はい……かしこまりました」
メイが出て行くと、私は自分の体を確認した。子供の体で、子供の声だ。でも自分の意識は31歳で、その知識と経験を保持している。これはどういうことなのだろう。
結論など、そんな短時間で出るはずもなく、私は機械的に全てをこなし、狐につままれたような気分のまま、園遊会に出席した。
園遊会では着飾った少女たちが、親と固まってたたずみ、こちらをチラチラと見ている。息女だけではなく、子息たちも参加しているので、顔見知り同士のおしゃべりがそこここで弾んでいる。
私は父と母の少し前に立ち、少女達を紹介され、挨拶を受けていた。
昔の自分は、これにどんな気分で臨んでいたんだったかな。思い出そうとしたが駄目だ。
今の私は、31歳の成人男性。12歳くらいまでの子供を見て、どういう反応をしろと?
大体、11歳で婚約者選びは無いだろう。好みだって、思春期、青年期で、二転三転するんだぞ。
相手の女性もガンガン変わって行く。かわいらし気だった少女が高慢ちきな女に育ち、ぶっちょう面のいけ好かない小娘がいい女に育つ。それを目の当たりにしてきたのだ。大人達は、ちょっと考え直したほうがいい。
そのうち、小柄で地味な女の子が、父親のベルディ侯爵と共に挨拶に近付いて来た。
「殿下。娘のリネットです。お見知りおきを」
促されてリネットが一歩前に出た。緊張しているのか、私に選ばれるのが嫌なのか、堅苦しい雰囲気のまま、ぼそぼそと挨拶をする。
リネット嬢、10歳の時はこんなだったかなあ。デビューする頃には見事に熟して華やかになり、すっかり快活で男の注目の的だった。
「ああ。今日は楽しんで行ってくれ」
私が挨拶をすると、侯爵がちょっとぽかんとした。なんだろうと思って見つめると、侯爵は慌てて愛想笑いをした。
「今日は、サムエル殿下はとても大人っぽく見えますね。立太子されると、違うものですなあ」
「ありがとう。これからもよろしく頼む」
なにせ、ベルディ侯爵は私の帝位を支える一角だ。今の内から良くしておかねば。
侯爵は少し不思議そうだったが、静かに下がって行った。
次にテイル侯爵が娘の手を引いてやってきた。娘の名はシャロン、11歳。私の婚約者に決まる少女だ。いや、私が婚約者に選んでしまったと言い換えよう。彼女はリネットとは正反対に、愛想抜群の微笑みを浮かべ、挨拶をした。
私はこの微笑みに騙されたのだ。今見れば、作り笑いと、目の中の狡猾さは一目瞭然だ。だが、子供だった私に、それがわかるはずも無かった。
だが、そう言いきるのも、違うか。この後の二十年を知っているせいで、そう見えるのかもしれない。
政略結婚させるなら、親がちゃんと目利きして選んで欲しい。11歳に選択させるな。間違えるに決まっている。
そんなことを考えている私に、シャロンが気遣わし気な表情を作って、労わるように話し掛けてきた。
「サムエル様。あちらでお茶をいかがですか。お疲れの事でしょう」
その昔は、この言葉を聞いて、なんて気が利く優しい子なんだろうと思ったものだ。
だが、そうではない。これは私を囲い込んで、他の令嬢に目を向けさせない捕獲テクニックなのだ。瞳に見え隠れする、小狡そうな光がそう告げて来る。
うん、妃よ。やはり考えすぎではないようだ。小さい頃から君は君だったのだね。私はしみじみと彼女の顔を眺めた。彼女は嬉しそうにニコッと微笑んだ。
「まだ挨拶していないご令嬢たちが居るから、ご厚意だけいただいておきます」
礼儀正しく断り、私は次に近付いて来る令嬢の方に向き直った。
その日の夕食の席で、どの娘を選ぶことにするか決まったか、と聞いてきた父王に、私は二人だけで話したいと持ち掛けた。
「折り入ってご相談があります」
「ほう。今日はなんだか大人っぽい話し方をするね。表情もだが、何か重大な打ち明け話でもあるのかい」
私は笑いながら、そんな所です、と答えた。
「いや、本当に、同年代の男と話しているみたいな気分になるね」
父は笑いながら、じゃあ男二人での秘密会議だなと言い、父の私室に移動した。
「何か頼むか。私はブランデーをもらおうかな。お前は?」
「私もブランデーが欲しい所ですが、この体では無理ですね。その代わり、濃いコーヒーをポットでいただけないでしょうか。飲みたくてたまらないんです」
父は驚いていたが、まあ、コーヒーの一杯位いいか、と言って頼んでくれた。
ミルクと砂糖を断って、熱々のコーヒーを一口すすると、ほっと息を付いた。
「飲み慣れないせいか、苦みを強く感じます。11歳にはまだ早いのかな。頭はこれを欲しがるのに、体が受け付けないとはね。残念です」
父は私をじっと見ている。やはり違和感があるのだろう。今の私は、昨日までの私とかなり違うはずだ。しばらく無言でお互いに飲み物をすすっていた。
「折り入っての相談とは、なんだろう。話してくれるかな」
「もう違和感を感じ取っておられるでしょう。私は11歳のサムエルではありません。今の私の意識は31歳になったサムエルのものです。31歳だった私が、今朝目覚めたら11歳の昔に戻っていたのです」
父は目を伏せ、黙って私の話を聞いている。やはり信じてはもらえないだろうか。こんな荒唐無稽な話。
「それなら31歳当時、取り返しが付かない程、まずい状況に陥ったということか」
私は驚いて父の顔に視線を移した。その勢いで、コーヒーがソーサーに少しこぼれた。急いで、テーブルにカップを置き、手をナプキンで拭った。
「どうしておわかりになるのです。それに、信じてくださるのですか」
「我が王家は始祖の昔、精霊と契約を結んだそうだ。取り返しが付かない程の状況に陥った時、一日だけその起点となる時間に戻れる、という。私も私の父も経験しなかったから、おとぎ話だと思っていたが、どうやら本当のようだ。これを伝えるのは、代々王位を継いだ者のみで、王権が落ち着いてからとされている。まだお前は聞かされていないようだね」
原因は、シャロン・テイルだ。私は深く納得した。原因を回避できることに安堵したものの、明日、元に戻ってしまったら、愚かな11歳の自分が決定を覆さないとも限らない。それでありのままを父に語った。
「園遊会で、私はシャロン・テイル侯爵令嬢を婚約者として選びました。その結果、31歳の私は、彼女の刺客に短剣で喉を突かれます。次期王太子が、私の子かどうか怪しかったのと、愛人経由で他国に機密情報が流れている事が発覚し、罪を問おうとして、先手を打たれたのです」
それは、と言ったまま、父は顎を擦った。
「つまり、お前は今回、シャロン嬢以外を婚約者に選んで戻るということか?」
「はい、リネット・ベルディ嬢を選びます。彼女はとても素敵なレディになります。ただ明日以降、また11歳のサムエルに戻るのなら、その後の事が不安です。以前の私は、シャロンの上辺に魅かれていましたし、あの狡猾な女が大人しく引くとは思えません。父上、明日からの私をどうかお守りください」
頭を下げる私に、父は尋ねた。
「リネット嬢が素敵なレディになるのはいつ頃からだね」
父も今の彼女が素敵な女性に育つとは、想像できないらしい。だから11歳では早いのだ。
「人々が気付いたのは16歳になった頃です。年と共に魅力的になって行きましたが、そのころ急に美しくなりました。教養と人柄の良さが積み重なって、栄養を貯め込んだ蕾が、花開くような光景でしたよ。私にはシャロンがいたので、なるべく彼女を気に掛けないようにしていました。シャロンは反対でしたね。16歳以降、心根の悪さが少しずつ表面に出て来ました。妃としての教育もはかどらず、教育係が手を焼いていましたが、破談にするほどの瑕疵はないため、そのまま19歳で結婚しました。非常に後悔しました」
「承知した。それならまずは16歳のリネット嬢を思いながら恋文を書きなさい。それを明日、彼女に送ろう。それから、明日の自分に宛てて、リネット嬢を選んだ理由と、シャロン嬢では駄目な理由を手紙に書きなさい。それを明日、君に渡そう。うまく運ぶことを祈るよ」
私はその夜の12時になるまで、必死で手紙を書いた。
リネットに宛てた手紙は1枚で収まったが、自分に宛てた手紙は、既に10枚を超えていた。11枚目を書いている途中、突然眠気に襲われ、目を開けていられなくなった。
「サムエル様。おはようございます。そろそろお目覚めください」
僕はう~んと伸びをして、眠気を追い払った。
「おはよう、メイ」
「昨日は園遊会でお疲れでしょう。今日は特別な予定は入っておりませんから、のんびりお過ごしいただけますね」
僕は、一瞬ぽかんとした。昨日園遊会だった? 何も覚えていないのは、どうしてだろう。
「昨日園遊会だったの? もう終わってしまった? じゃあ、誰を婚約者に選んだの?」
「あら、まだ伺っておりませんが、昨夜、王と二人で深夜までご相談されていましたよね。覚えていらっしゃらないのですか?」
「うん」
「まあ、よほどお疲れでしたのね。では、王に会いに行かれますか?」
僕は着替えてから食事を済ませた。いつもの朝食に、メイはなぜかミルクも砂糖も入れていない紅茶を出して来た。僕が不思議に思って、ミルクと砂糖はと聞くと、すごく戸惑っていた。
それから父の元に向かった。父は執務室で仕事をしていたが、すぐに時間を取ってくれた。
「お早う。よく眠れたかい? 疲れは残っていないかな」
父は心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。やはり、昨日何かあったのだろうか。
「お早うございます。よく眠れたのですが、実はなぜか昨日の事を全く覚えていないのです。メイからは、昨夜お父様と二人で、婚約者について相談していたと聞かされました。変な話ですが、僕は誰を婚約者に選んだのでしょう」
しばらく僕をじっと見てから、横に座って、僕の頭を撫でてくれた。
「お前が選んだのは、リネット・ベルディ嬢だ。お前は昨夜、一生懸命手紙を書いたんだよ。彼女宛と、自分宛だ。読んでみなさい」
そう言って、二通の手紙を渡してくれた。
1通目はリネット嬢に対するもの。彼女が努力家で、勤勉な事を褒めている。そして、君はきっと素敵な女性になると思う、だから自分と婚約を結んで欲しいと締めくくっていた。
2通目は自分に宛てた手紙で11枚もあった。一番初めに、自分が20年後から1日だけ戻って来たと書かれていた。そして、20年後に困った事件が起きるのを防ぐため、シャロン・テイル侯爵令嬢だけは、決して選んではいけないと書かれている。
その理由が、色々と実例を挙げて語られていた。
夢物語のような話で、とても信じられなかった。僕は一通り読んだ後、父に確認した。
「これを僕が書いたのですか? 字が僕と違うし、こんなに綺麗には書けないはずです。それにリネット嬢も、シャロン嬢も、まだ会ったことが無いので、ピンと来ません」
「そうだろうね。でも、今の君は誰を選ぶつもりだい」
僕は戸惑っていた。だけど、将来こんなに後悔し、怖い事が起こるなら、この手紙に書かれた事に従おうと思った。
「リネット嬢を?……選びます。こんな将来は嫌ですから」
父は戸惑いながら言う僕を見て、ゆっくりと、噛んで含めるように話しかけた。
「この一日だけの奇跡は、王家を継ぐ者の秘密だ。決して、妻にも子にも話してはいけない。いいね。君が戸惑う気持ちは分かる。だが、昨夜の君が話してくれた、国を売る女性を王妃にすることは、決して許さない。それは現王である私から次期王の君への命令だ」
厳しい王の顔をした父に、少しおびえながら、僕は首を縦に振った。
「昨日私が見たリネット嬢は、地味で堅苦しい雰囲気の少女だった。反対にシャロン嬢はおっとりと優し気な美少女だった。お前がシャロン嬢を選んだのもわかるし、多分私も反対しなかっただろう。だが今は未来を知っている。その手紙の内容を念頭に置いて、もう一度二人を見てみよう」
そして一か月後に、規模を小さくして、再度園遊会を開くことになった。理由としては、僕が高熱を出して、園遊会の記憶がおぼろ気になってしまったことにした。
今回の園遊会では、ウサギやリス、猫や犬などの小動物を放って楽しむことにしている。大人になった僕は、シャロンの残虐性は、最初に小動物に向かったと書いている。それを確認できるかもしれないと思ったからだ。園遊会の間、諜報部の者達が、リネットとシャロンの行動を、隠れて監視し続ける手筈になっている。
そして当日、良く晴れた空の下で園遊会は開かれた。庭園には小さなかわいらしい生き物たちがうろうろとしている。前回よりぐっと寛いだ雰囲気の中、子供達は小さな生き物を抱き取って、はしゃいだ。
僕も腕にウサギを抱え、他の子達と一緒に遊んだ。シャロンはかわいらしくて、一番目立っていた。僕と同じようにウサギを腕に抱え、耳のふわふわした毛を触って笑っている。すごくかわいい。
僕にはあの手紙が全く信じられなかった。シャロンは笑いながら、僕の抱いているウサギと交換しようと言って来た。柔らかいウサギを交換した時、彼女の柔らかい腕が僕の腕に触れた。その時、あの手紙は何かの間違いだと、父に進言しようと決めた。
リネットは離れた所で、リスに餌をあげていた。それで僕の方から近寄り、話し掛けてみた。
「こんにちはリネット嬢。リスにあげているのはクルミ? 食べてくれる?」
「こんにちは、殿下。初めは警戒していたようだけど、だんだん近くに寄ってくるようになったんです。今は私の手から掠め取ろうとしてきます」
彼女が話していると、リスが彼女の指からクルミを取って、少し離れて食べ始めた。
びっくりした彼女の顔がかわいくて、思わず声を出して笑ってしまった。真っ赤になった顔は更にかわいい。地味な印象だけど、よく見ると彼女はきれいな顔だちをしている。
「このリス、よっぽど懐いたんだね。盗み取っても、逃げないよ。ちゃっかりしている」
まったく、と怒りながら、目が優しい。
リネットに関しては、あの手紙で書いていたことは正しそうだ。素敵な女の子だな。僕は将来この子のことを好きになるのかもしれない、と素直に思えた。
「この子を連れて帰っていいよ。君にすごく懐いているもの。目印を付けておこう」
僕は母に作ってもらった剣飾りを一部解き、リスの首に結んだ。
リネットは、ありがとうございますと言いながら、リスを掌に乗せた。リスは、そこに載っているクルミを掴んで、せっせと食べた。
「食いしんぼうだね」
「本当に」
二人で笑ってしまった。彼女と過ごすのは、とても気持ちが良い。
近くの茂みがガサッと音を立てたので振り向くと、そこから飛び出してきたウサギと、それを追い掛けるシャロンが見えた。リネットが素早くウサギを捕まえ、抱え込んだ。
シャロンは、息を整えてから、にこやかにリネット嬢に挨拶した。
「殿下からいただいたウサギが逃げてしまって、追い掛けていたの。捕まえてくれてありがとう」
交換しようと言われて渡したウサギが、僕があげたことになるのだろうか、と一瞬変な気分になった。だがそれは一瞬で、僕は華やかでかわいいシャロンの容貌に見とれた。
「あら、そのリスはきれいなリボンをしているのね。かわいい」
そう言って手を伸ばしたが、リスはさっと逃げて、リネットの肩に乗った。
「まあ、懐いているわね。どうやったの?」
「クルミで餌付けしたんです」
「リボンは?」
「殿下が連れて帰るようにと言って、目印に付けてくださったのです」
「まあ、殿下。それなら、私にくださったウサギにも目印を付けてくださいませんか。せっかくいただいたのに、また逃げたら、紛れてしまいます」
また、チリッと嫌な気分が湧いた。そのせいか、母からもらった剣飾りをほどく気になれなかった。
「残念ながら、リボンがもうないんだ。逃げないように抱いていたらいいよ」
我ながら、少し突き放した物言いかな、とはっとしたが、シャロンは可愛く笑って、そうですねと言ってくれた。やはり優しくていい子じゃないか。
テーブルの方で給仕係が、ケーキの追加が届きました、と声を張っている。行かないか、と二人に声を掛け、一緒にテーブルに向かって駆けだした。
その五日後の夜、父の私室に呼ばれた。
「さて、先日の園遊会での、お前の決定を聞かせてくれるかね」
僕はためらった。決めかねているのだ。
「まず、リネット嬢はとても感じのいい令嬢でした。将来好きになるのかもしれないと思えました。そしてシャロン嬢ですが、彼女も優しくて素敵な令嬢です。手紙に書いてあったような怖い人には思えません」
「動物に対してはどうだった。問題なさそうだったかな」
「はい。……僕と交換したウサギを、僕があげたと言うのが、少し嫌でしたが、ウサギをかわいがっていました。何も問題は無かったです」
父は顎をこすって何か考えていた。
「サムエル、少し嫌な気分になった時は、それをしっかり考えなさい。それは無視してはいけない警告なんだよ。それで、お前は誰を婚約者に決めたのかな」
僕は唇を引き結んでから、はっきり言った。
「リネット嬢に決めました。お父様が認めないシャロン嬢は選べません。でも僕はシャロン嬢が悪い人だとは思えません。何かの間違いということはないのでしょうか」
「君が私の命令を守ってくれてうれしいよ。もし何かの間違いだったら、シャロン嬢を選ぶかね」
「う~ん。それはどうだろう。リネット嬢と居ると心地よいのです。シャロン嬢は華やかで目を奪われるけど、時々何かが引っかかります。でも惹かれます」
「正直な答えだな。20年後のお前が言った通りだと、その惹かれる気分は18歳くらいまで続くのだろう」
「それは困るのではありませんか。婚約者をリネット嬢に決めたのに、他の子に惹かれるなんて」
僕は焦った。そんなややこしい事は嫌だ。
「非常に困った事だね。でもシャロン嬢は駄目だよ。その証拠は、彼女が君にもらったというウサギだ。今は彼女のポシェットになっている」
僕は唖然とした。口が開きっぱなしになっているが、戻せない。
あのふわふわしたウサギ。殿下、交換しましょうと言った彼女の笑顔。和やらかなウサギの耳と、柔らかな彼女の腕。色々な映像が、頭の中でザッと流れた。
「ウサギが死んだので、毛皮を残したとか」
「彼女はウサギの耳を掴んで捕まえていたんだ。かわいがっているようには見えなかったそうだよ。君とリネット嬢が話している所には、わざと走り込んで行ったそうだ。それと、リネット嬢のリスに結んだリボンは、シャロン嬢が取り上げた。今はウサギのポシェットの飾りになっている」
やっと口を閉じた僕は、恐る恐る聞いた。
「リネット嬢のリスは無事ですか」
「ああ。あの後リスとリボンを見せてくれと言われたリネット嬢は、言われるままにリボンを彼女にあげて、リスは渡さず逃げた。勘がいいし、賢い子だね」
僕はひどくショックを受けていた。そこに追いうちの話が告げられた。
「シャロン嬢は君にもらったウサギとリボンで作ったポシェットを、周囲に見せびらかしているそうだ。テイル侯爵もその気になっているようで、シャロン嬢が選ばれるような雰囲気が出来上がっている」
初めて僕は怖いと思った。あの手紙をもう一度読み返さなければいけない。
「なあ、サムエル、これは20年後のお前が言ったのだが、あの狡猾な女が大人しく引くはずがないそうだ。私も、少し心配になっている。今のリネット嬢とシャロン嬢を比べれば、周囲はシャロン嬢を押すだろう。リネット嬢に対して当たりが強くなることは必至だ。そこでだが、お前は数年隣国に留学してみないか。婚約者の選定を延期に出来る」
ウサギとリスの姿を思い浮かべながら、僕はその案に賛成した。
リネットのベルディ家には、婚約者の内定を内密に告げた。そして王家から教育係がべルディ家に送られた。
僕は12歳からの4年間、隣国で学ぶことになった。これは僕の視野を広めてくれた。
そして離れてから次第に、リネットと過ごした時の心地良さを、恋しく思うようになった。僕はまめに手紙を書き、お互いの手紙は週を開けずに行き来した。
16歳になって国に戻ってから開かれた夜会で、僕はすっかり美しくなったリネットに再会した。毎週手紙で話をしていたので、すごく自然に話が弾んだ。
この夜会で、シャロンが侯爵と共に挨拶に訪れた。5年前と同じく、まばゆい笑顔を浮かべていたが、その目に潜む狡猾さが、16歳の僕には見えた。11歳のあの経験を経て、僕は年齢以上に人間の観察力に長けていた。
この夜会でのファーストダンスは、もちろんリネットに申し込んだ。一瞬、周囲がざわついたのは、シャロンが第一候補と目されていたせいだ。しかし、踊っている僕とリネットには、おおむね好意的な目が向けられていた。それほどリネットは魅力的になっていた。
その後、僕は誰もダンスに誘わなかった。シャロンは周囲をうろうろしていたが、僕は目を留めなかった。
それからすぐに、婚約の発表が行われた。貴族会議で経緯を問われた父が、園遊会でリネット嬢に懐いたリスを縁に、彼女と僕が文通を続け、意気投合したと話すと、皆は納得した。
テイル侯爵だけは納得できなかったのか、会議後の立ち話し中に、娘はあの日、殿下からウサギと王家の紋章を織り込んだリボンをいただきましたね、と話し掛けて来た。僕はしばし考える振りをしてから、おかしいな、と首を傾げた。
「ウサギを交換してくれと言われたが、そのことかな。リボンはリネット嬢のリスにしかあげていないから、勘違いじゃないかな。ベルディ侯爵はリスの首に巻かれたリボンを覚えているでしょう? 母手製の剣飾りをほどいた、紋章入りの布だよ」
ベルディ侯爵は見たことも無いはずだ。シャロンがその場で取って行ったのだから。ただ、王妃手製の剣飾りは、適当に扱っていいものではない。
「申し訳ありません。おかしなことに私には覚えがございませんので、帰宅したら娘に確認いたします」
周囲で談笑していた貴族たちは、その場では素知らぬ顔をしていたが、それはすぐに周囲に広まった。
― 弱冠11歳で既にそれって、恐ろしい娘ね。
― もらったというウサギは、交換してくれと頼み込んだのですって。
― リボンは本当はリネット嬢がいただいた物だそうよ。王太子殿下よりいただいた王家の紋章入りリボンだと言って、見せられた事があるわ。
― 末恐ろしいというか、今現在はどうなの? え、遊んでいる?
― 殿下の婚約者候補だったから、誰も悪く言わなかったけど、とんでもないあばずれですって!
おおむねそんな話が流れた。現在の彼女の素行についての噂は、珍しく尾ひれ無しで、本当の事ばかりらしい。改めて僕はぞっとした。
その後の僕とリネットの婚約パーティーの日、テイル侯爵はシャロンを連れずに出席した。父は彼を呼び寄せ、その肩に手を置いた。
「今日はシャロン嬢を連れてこなかったのだね。君のわきまえた行動を評価する。さすが侯爵位を持つだけある。あの園遊会の時、シャロン嬢はリネット嬢からリボンを脅し取り、それを王太子からもらったと言いふらしたと聞く。そういう女性を社交界に招き入れたくはないと、私は考えているのだ」
これは、シャロンのデビュタントを、王都では受け入れないという宣言だった。
そのすぐ後に、シャロンは侯爵家の領地に引っ込んだ。これで彼女は、この国の高位貴族に縁付く可能性をも失った。
僕は5年をかけてようやく、取り返しのつかない事態を回避できた。
FIN