第七十三話 今後のことを考えて
しばらく戦々恐々とする日々を過ごしていたが弁護士は尋ねて来なかった。
恐らく北川は弁護士に相談しようか迷っているのだろう。
もし、そんなことをすれば俺との関係は壊れてしまうからだ。
プロジェクトを担っている以上、安易な行動はとれないのだろう。
俺はモーニング珈琲を用意して北川のデスクに持って行った。
「よっ、北川。おはよう」
「……」
「珈琲を淹れて来たぞ。いっしょにどうだ」
「……」
俺が尋ねて来るなり北川はパソコンを開いて文書作成をはじめる。
わざとキーボードを激しく叩いて俺の声が聞えないような演出をする。
「なあ、いい加減、許してくれよ。あれは不可抗力だったんだ」
「……」
「北川が酔っ払って俺を誘って来るからつい」
「……」
「俺だってはじめは断ったんだぞ。後輩を抱くなんて行為はしたくなかったしな」
「……」
俺が北川の横で弁明を試みるが北川は何の反応も見せない。
ただ、パソコンに向き合いながらひたすらキーボードを叩いていた。
「まあでも、何も失ってはいないんだ」
「……」
「俺達の関係が深まっただけだよ」
「……」
「いっそうのこと付き合ってみるか」
「……」
俺は自分に都合のいい言葉を並べて北川を説得する。
すると、北川がキーボードを叩くのをやめて勢いよく立ち上がった。
「何も失ったものはないですって!私は心も体も傷つけられたんですよ!あなたへの信頼を失いました!」
「お、おう」
「関係が深まるばかりか不信感かありません!”付き合ってみるか”なんてどの口が言っているんですか!もう、話しかけないでください!」
「わ、悪かった」
北川がすごい剣幕でオフィスに響きわたるように叫ぶので他の社員がビックリする。
隣で聴いていた俺も北川の圧に押されて相槌を打つだけしかできなかった。
俺は早々に持って来たモーニング珈琲を持って北川のデスクから離れた。
「杉沢、朝から何の騒ぎだ」
「いえ、ちょっと北川を怒らせちゃったみたいで」
「お前達の関係はどうなっているんだ。このところまともにコミュニケーションがとれてないじゃないか」
「すみません」
「謝る余裕があるなら北川と仲直りをしろ。お前達、二人にプロジェクトがかかっているんだからな」
「はい」
上村課長から怒られて俺は何も言い返せないでいる。
すでに俺と北川の関係は社内に広まっているから知らないものはいない。
だから、他の社員も俺達に気を使って、その話題には触れないようにしているのだ。
「それじゃあミーテイングをはじめるぞ。みんな集まれ」
上村課長が声をかけるとオフィスにいた社員達が上村課長のデスクに集まる。
怒っていた北川も俺から離れた位置に移動してミーティングに参加した。
うちの会社は朝、ミーティングをするのが習慣になっている。
その日の予定を言い合って意志共有をはかるのが目的だ。
他部門でもお互いの予定がわかっていたら仕事がしやすい。
なのでみんなメモ帳に他部門の予定も記入していた。
「プロジェクトも最終段階に入った。これを完結させることでわが社の社運も決まる。ここが一番の肝だから気合を入れて取り組んでくれ。それでは今日一日悔いのない仕事を頼んだぞ」
「「はい!」」
最後に上村課長が締めて朝のミーティングは終わった。
俺は早々に自分のデスクに戻って交渉の準備をはじめる。
今日予定している交渉は必ず了解を得られる簡単な交渉だ。
長年お付き合いをしてきた会社だからお互いに気が知れている。
なので誰が交渉に出かけても必ず契約をとれるのだ。
だからと言って事前準備を怠ることはできない。
もしもと言うこともあり得るから欠くことはできないのだ。
「会社情報は把握しているから最近の動向について調べておこう」
交渉する会社の最近の動向を調べることは重要だ。
どんな事業をして業界内でどんな立場にいるのか把握する必要がある。
新規事業を立ち上げたのなら資金繰りが悪化していることも予想される。
その場合、契約を取り付けても期待している程の出資は見込めない。
おまけに新規事業に人手をとられてプロジェクトの人手が手薄になる。
なので交渉する会社の最近の動向を把握しておかないといけないのだ。
新規事業を立ち上げたのならば業界内の立ち位置も変わって来る。
主力の事業に加えて新規事業が加わるから同業他社に与える影響は大きい。
交渉相手の新規事業の動向によって新規参入する企業も増えるだろう。
なので新規事業を成功させるべく膨大な設備投資と人的投資が行われるのだ。
「次の交渉相手は小規模のネット証券会社だ。設立10年を迎え今年度で10周年だ。だから、新規事業を立ち上げて新たにスマート投資事業ををはじめたんだよな」
スマート投資事業と言うのは日々の買い物で余ったおつりを投資に回すと言いうものだ。
金銭管理の専用のアプリがあってスマホで買い物をするとおつりが計算れて自動的に投資ができる。
どのぐらいのおつりを投資に回すのかはユーザーがはじめに設定する。
なので小銭にあたる端数分が残らないのでユーザーには使い勝手がいいのだ。
基本は積立投資になるから新NISAとの相性はいい。
なので利用ユーザーの多くが新NISAと紐づけしている。
この手の事業はまだ同業他社が取り組んでいないから先を越したことになっている。
まあ、どれだけユーザーに広まるかが事業の命運を分ける。
「着眼点は面白いな。発想は現金支払い時代の名残だな」
スマホ決済になってからは誰もおつりを気にしなくなった。
勝手に貯まっても積み上がるだけだからおつりを意識しない。
なのでおつりの計算をして買い物をする人が少なくなった。
まあ、今はポイントの時代だから多くのユーザーはポイント重視だ。
ポイントの貯め方次第では数十万の溜まるから人気があるのだろう。
企業の方もやたらとお得なポイントをつけてユーザーを囲っている。
だから、今はポイント激戦時代になっているのだ。
「ただ、どこまで広まるかだよな。ポイントと比べたらお得感がないしな」
だけど、ずくなしの人とは相性がいいシステムかもしれない。
とかくずくのない人はポイントを貯めることさえ大変だと感じる。
その点、スマート投資ならば買い物をするたびに自動で積み増すから手間がない。
ポイントを貯めるぐらいなら投資に回して資産を増やした方がいいだろう。
「結局、ポイントって貯めることが主になってあまり使わないんだよな」
ポイントの数値が増えることが喜びになって使うことを忘れてしまう。
それでは何のためにポイントを貯めているのかわからなくなる。
おまけにポイントほしさに買い物をするようになるから無駄遣いが増えるのだ。
これでは何のためのポイントなのか旨味が薄れてしまっている。
スマート投資ならばそう言った心配はない。
買い物をしたおつりが自動的に投資されるのだから。
無駄遣いをすることもなければポイントに気をとられることもない。
すごく自然な形で積立投資を続けられるのだ。
「ポイントのマイナス部分を補うシステムだな」
俺は交渉相手の資料を作りながら、そんなことを考えていた。
「あとは質問のシュミレーションだな」
これはひとりではできないから北川の協力が必要だ。
二人で自社と交渉相手の立場に分かれてQ&Aを考える。
そうすることで実際の交渉に役立てるのだ。
この方法をとっているから自社の交渉はうまく行っている。
交渉相手から質問をされて戸惑っているようではダメなのだ。
「しかたがない。もう一度、北川に声をかけてみるか」
ただ、資料だけ持って行っても気まずい。
あからさまに仕事を押しつけているようになるからだ。
まずは北川の機嫌をとって緊張を解く必要がある。
俺は他社からもらったお土産のスイーツと珈琲を持って北川のデスクに向かった。
「おい、北川。休憩にしないか」
「……」
「スイーツを持ってきだぞ。珈琲ブレイクにしよう」
「……」
「北川の好きなガトーショコラだぞ」
「……」
「甘いの好きだろう」
「……」
しかし、北川は視線を合わせることなくキーボードを叩いている。
北川には珈琲のいい匂いが届いているはずなのだが反応しない。
まるで俺がそこにいないかのような無視のしようだ。
「なら、先に珈琲ブレイクをするかな」
「……」
俺は北川の隣に座って持って来た珈琲を一口飲む。
そしてガトーショコラをフォークで切って口に運んだ。
「うぉ~、すげ甘めー。こりゃ、ブラック珈琲がないとダメだな」
「……」
「だけど、すげー濃い。カカオの風味が口の中に広がってる。これはクセになるな」
「……」
すると、北川はキーボードを叩く手をとめて前を見た。
「冷やかしならやめてください。私は忙しいんです」
「おっ、やっと口を聞いてくれたか」
「私はこれで」
「ちょっと待て。休憩ならここでもできるだろう」
「あなたと同じ空気を吸っていたくないんです」
「これは手厳しいな。まあ、北川はその方が似合っている」
俺は北川の流れに乗らないように少し距離をおいて言葉を吐く。
ここで北川の機嫌を損ねてしまえば協力も得られなくなってしまうからだ。
なんとか北川の機嫌をとって場を和ませる必要がある。
「失礼します」
「待て」
「手を放してください。セクハラで訴えますよ」
「俺は北川に話があるんだ」
「私にはありません」
「いい訳はしない。仕事の打ち合わせをしよう」
今は北川に謝罪をするよりも仕事の打ち合わせが大事だ。
北川だってプロジェクトを担っているから無下にもできないだろう。
「10時45分に会議室へ行きます」
「そうか。わかった。頼んだぞ」
そう答えを返すと北川はオフィスから出て行った。
「とりあえずミーティングはできそうだな」
俺はガトーショコラと珈琲を持って自分のデスクに戻った。
そしてガトーショコラを3口で頬張りブラック珈琲を飲み干してミーティングの準備をする。
その後すぐに調べあげた資料を持って早めに会議室へ入った。
約束の時間になると北川が資料を持って会議室へやって来た。
「時間ぴったりだ。さすがは北川だな」
「……」
「ふぅー。じゃあ、まずは俺の調べた資料に目を通してくれ」
「……」
俺は持って来た資料を北川に渡す。
北川は黙ったまま資料を受け取って目を通した。
「次の交渉相手はプラスα証券会社だ。立ち上げ当初からお世話になっている会社だ。なので次の交渉は難しくはない。ただ、事前準備は必要だ」
「……」
「いつもの通り自社とプラスα証券会社の立場に立ってQ&Aのシュミレーションをするぞ」
「……」
そう俺が声をかけても北川は相変わらず黙ったままだ。
しかたがないので俺はQ&Aのシュミレーションをはじめた。
「北川が自社をやってくれ。俺はプラスα証券会社をやる」
「……」
「まずは何でわが社を交渉相手に選んだのかだ」
「……」
「黙っていちゃわからないだろう。質問に答えてくれ」
「……」
しかし、北川は何も答えずに黙ったままでいる。
「おいおい、ミーティングをしてくれるからここへ来たんだろう。早く答えてくれ」
「お答えすることは何もありません」
「それじゃあシュミレーションにならないだろう」
「私はあなたとミーティングなんてしたくないんです」
「じゃあ、何でここへ来たんだよ」
「とりあえず顔を出しただけです。私はこれで失礼いたします」
「お、おい」
それだけ言うと北川は会議室から出て行ってしまった。
「何なんだよ」
俺はやり場のない気持ちをテーブルに向ける。
おかげで手が痛くなってしまったので痛い手を撫でた。
「いくら簡単な交渉だからと言って事前準備もなしに交渉に臨めるかってんだ。北川のやつ、何を考えているんだ」
社会人である以上、プライベートで何かあっても仕事に持ち込んではいけない。
仕事は仕事、プライベートはプライベートとして分けなければならない。
でないと仕事とプライベートが混在して仕事に集中できない。
今の北川は仕事とプライベートを混在させている。
だから、ミーティングもせずに会議室から出て行ってしまったのだ。
「どうすんだよ、午後の交渉。これじゃあ不安で仕方がない」
今まで事前準備もせずに交渉に臨んだことはない。
だから、何もできていないと不安が膨らんでしまう。
ある意味、事前準備で交渉の不安を取り除いているのだ。
俺は何気に北川がおいていった資料に目を通す。
すると、そこには北川がひとりでQ&Aのシュミレーションした回答が書いてあった。
「何だよ、ちゃんとやっているじゃないか」
北川が書いた回答は的確なもので落ちや抜けがない完璧な仕上がりだ。
プラスα証券会社からの質問もそれに回答する自社の答えも的確だ。
こんなものを用意しているのに俺とのミーティングを放棄するなんてよほど一緒にいたくないのだろう。
「的確なQ&Aを作っていても今の俺と北川の関係じゃうまく行くものもいかない」
プラスα証券会社から不審に思われてしまったら交渉は失敗してしまうのだ。
その不安は現実のこととなって返って来た。
午後の交渉にでかけたのだが俺と北川がぎこちなかったので相手に不安を与えてしまった。
なんで俺と北川の連携がとれていないのか疑問に思ったようだ。
おかげで契約の締結には至らずに保留となってしまった。
「おい、北川。どう言うつもりだよ」
「……」
「今回の交渉は簡単なものだったんだぞ」
「……」
「それを契約保留だなんてないだろう」
「……」
「まったく、何を考えているんだ。仕事なんだから割り切ろ」
「……」
会社へ戻る帰り道、北川に感情をぶちまけるがなしの礫だ。
北川は何のリアクションもみせることなくただ歩いていた。
「もう、これじゃあプロジェクトがとん挫してしまう」
「私はやることはやりました。あなたの交渉が悪かったんです」
「何もしてないじゃないか」
「資料に目を通さなかったんですか。なら、あなたの落ち度です」
「資料は完璧だったよ。だけど、交渉の場で協力的じゃないと意味がないんだ」
「あなたとなんて仲よくできません。たとえ仕事であってもです」
俺が泣きを吐くと北川はようやく口を開いてくれる。
だけど、俺を否定する言葉ばかりで優しさもなかった。
「北川もプロなんだろ。なら、仕事とプライベートを分けろ」
「できません。あなたは私を傷つけたんです。なかったことにはできません」
「だから、あれは合意のことじゃないか」
「私はエッチをしてほしいなんて言っていません」
あの出来事の非は俺にあると言わんばかりの言葉だ。
確かにエッチしたのは俺だが酔っていた北川も悪い。
悪酔いさえしなければ俺を誘うことなどしなかったのだ。
道端でそんな話をしていると通行人が冷ややかな視線を向けて来た。
「とりあえず、そこの喫茶店に入るぞ」
「……」
込み入った話になるので場所をかえてじっくり話し合うことにした。
ちょうど選んだ喫茶店は個室があって二人っきりになることができた。
「北川、プロジェクトのことをどう思っているんだ」
「……」
「俺達のことはさておいてプロジェクトは成功させないといけないんだぞ」
「……」
「プロジェクトの成功うんぬんで社運が決まるのだからな」
「……」
そのことは北川自身よく理解しているだろう。
あの完璧なQ&Aを作ったぐらいだから真剣に向き合っているのだろう。
ただ、完璧な資料を作るだけでは足りない。
実際の交渉の場で俺達の連携がとれないと意味がないのだ。
「北川を傷つけたことは謝る。俺が悪かった」
「……」
「ただ、プロジェクトとは切り離して考えてくれ」
「……」
「プロジェクトが終わったら、けじめをつける」
「どう、けじめをつけるんですか」
「それは……」
ようやく北川が口を開いてくれたかとおもったらけじめのことだ。
俺は答えを見失って黙り込んでしまう。
自分でけじめをつけると言ったがどうけじめをつけるかまでは考えていなかった。
北川の方としては俺を罰したいのだろう。
「裁判になってもいいってことですよね」
「いや、それはちょっと」
「結局、都合の悪いことから逃げているだけですね」
「返す言葉がない」
「あなたは自分が可愛いんです。だから責任から逃げているんです」
「……」
そう言われたらそうなのかもしれない。
俺は北川にも責任があったとばかりしか言ってこなかった。
北川が酔っ払って誘って来たから仕方なくエッチしたといい訳をしていた。
それは俺が犯した罪から逃げるいいわけでしかなかったのだ。
北川はそれを見抜いていたから沈黙を保ち続けていた。
悪いのは俺だ。
「プロジェクトが終わったら弁護士に相談をしますから覚悟していてください」
「それはプロジェクトは続けてくれるってことだよな」
「プロジェクトを成功させることは私のキャリアにも影響がありますから」
「よかった。その言葉だけ聞けたので安心したよ」
これで北川がプロジェクトに協力してくれることが決まった。
今まで二人で協力して来たからプロジェクトが完結するまで続けなければならない。
それがプロジェクトを成功へ導く唯一の方法なのだ。
ただ、プロジェクトが完結したらしたらで問題が発生する。
北川が弁護士に相談することにしているので裁判になるだろう。
そうなってしまえば俺の信用もがた崩れになってしまう。
会社での立場も変わって来るだろう。
最悪の場合、退社せざるを得なくなるかもしれない。
だけど今は――。
「北川、ここで約束してくれ。プロジェクトに協力してくれるってことを」
「わかりました。お約束します」
「よかった。これで今まで通りだな」
「馴れ馴れしくしないでください。あなたとの付き合いは仕事上だけなので」
それでも今はそれでよかった。
プロジェクトさえ成功すれば俺の仕事も終わる。
ただ、その後に待ち構えている問題からは逃れることができない。
俺がしでかしてしまった罪を償わないといけないのだ。
俺は安心と不安を抱きながら何とも言えない時間を過ごした。




