誰も望まぬ婚約
首を絞められるような息苦しさに目覚めた。
目に入ったのは、見知らぬ天井。殺風景な白い天井ではなく、金の装飾が入った華やかな、でも目に眩しいほどではない淡い色だ。
自分の置かれている状況がわからないままベッドから起き上がり、辺りを見回す。部屋の中にあるもの全てに見覚えがない。
だるい体を起こして壁側にある鏡を見つめる。まだぼんやりとしている自分の姿をはっきりと鏡で認識すると、濁流のように記憶が蘇る。
「・・・私、悪役令嬢に転生したの!!!???」
***
侯爵令嬢クリスティーナは、4歳の頃母に連れられたお茶会で、同席した王子に突き飛ばされた。
なぜそのようなことを王子が行ったのかはわからない。小さな子どもの言い争いの戯れ程度のことだったのだろう。
しかし、突き飛ばされた先が悪かった。
お茶を運んでいた侍女のワゴンに当たったのだ。しかもワゴンに載っていたお茶は淹れたてで、とても熱いものだったことが不運となった。
クリスティーナは背中に大きな火傷を負ったのだ。
美しく柔らかだった白い肌には傷が残り、傷物となったクリスティーナへの責任を取る形でリチャードは彼女の婚約者となった。
誰一人望んではいなかった。しかし王族に名を連ねるものが幼い子に傷をつけ、未来を閉ざしたことに誰かが責任を負わねばならない。
せめてクリスティーナとリチャードの間に愛情のようなものが少しでもあればよかったのだろう。
しかし、暴力により男性に恐怖を植え付けられてしまったクリスティーナと、多少の罪悪感はあれど望んでいない婚約を無理に決められたリチャード、それぞれ愛情を持つわけもない。
クリスティーナにとっては「傷があるため他がいない」という妥協であり、リチャードにとっては王族としての責任感だけの関係だった。
言い争いでもすればよかったのかもしれない。だが、クリスティーナもリチャードも、正しく貴族であり王族であった。
ある意味政略で結ばれた婚約に異を唱えるなど、愚か者がすることであるという認識がある程度には。
婚約者同士の交流を深めるため、という逢瀬はどんな時でも毎月1度、必ず行われている。
「リチャード様、ご機嫌よう。」
「クリスティーナ、今日もお邪魔するよ。」
婚約者に決まった時から行われている侯爵家への訪問は、いつもの挨拶で始まる。
小さな頃は怯えるだけであったクリスティーナの様子も、淑女らしい笑顔を貼り付けるくらいには変化した。
ただ、今回はまた別の変化があったようだ。
「リチャード様、少しお疲れのようですがいかがいたしましたか?」
リチャードの目の下にはそれとわかるくらいの濃い隈ができており、傍目にも調子が良いとは言えない。
仲が良いとは言えない婚約者でも、あからさまに辛そうな相手に対して気遣いをしないという選択肢はクリスティーナにはなかった。
「ああ、ちょっとしたトラブルがあってね・・・あまりよく眠れていないのだ。君には関係・・・いや、あるか。少し相談に乗ってもらっても良いだろうか。」
長い婚約者期間で初めてのことである。クリスティーナは内心驚きはするものの、顔には出さないよう注意しつつ答える。
「わたくしでお役に立てることならば。」
「キャンベル伯のご令嬢はご存知かな?」
クリスティーナの狭い交友関係には聞き覚えのない名前だ。
「西側の川沿いの領地であることは存じておりますが、ご令嬢とは面識がございませんわ。」
「先日、その川が氾濫を起こしたことで伯爵領が損害を受けてな。王都に避難民を受け入れることとなった。そこで伯と妻君、ご令嬢ともお会いすることとなったのだが・・・」
リチャードが言葉を濁す。あまり言いたくないことなのか、クリスティーナにどう伝えるべきなのかを悩んでいるのが目に見える。
「わたくし、だいぶ大人になりましたわ。政情のことはまだ勉強不足ですが、リチャード様がお話しすることがわからないほど子どもではありません。」
「そうだね、クリスティーナはずいぶん成長した。勉強も頑張っていると聞いている。ただ、この点については私でもわからないことが多いのだ。」
リチャードの語る内容はこうだ。
***
「私、ティーナ様と王太子殿下のことを心から応援しております!領の支援についてはありがたく思いますが、それ以上の関係は求めません!王太子殿下に近づくこともありませんわ!」
言ってやったわ!父と一緒に支援へのお礼とご挨拶のために王城へ向かった私は、対応いただいた王子様へしっかりと伝えておいた。
悪役令嬢になんかなりたくもないし、破滅するのもごめんだ。Web小説の世界に転生したのは構わないけど、この世界に生きるのなら、自由に生きたいもの!
深窓の令嬢であるイザベルが、領地の災害で王都へ避難したときに支援してくれた王太子にグイグイ迫る、だなんてどんな設定よ!そもそも深窓の令嬢がグイグイって令嬢の定義から考え直した方がいいわね。
「・・・領地への支援は国としてきちんと行わせてもらう。だが、王族と侯爵家への不敬については別途調査の上沙汰を下そう。」
「閣下、田舎者ゆえ教育が足りませんでした!娘はすぐにでも領地へ返します!どうか、どうかご容赦を!」
「・・・不愉快だ。少なくとも私の婚約者と王太子殿下が恋仲であるような発言はすぐにでも訂正してもらおう。」
「リチャードって、婚約してたの・・・?」
つぶやいた私に父が怒鳴りつけた。
「馬鹿者!ああ、甘やかしすぎてしまったのか・・・王弟であらせられるメイフィールド公爵閣下を名前で呼ぶなどと・・・」
公爵?王太子ではなく?
「ご令嬢、その様子だと私の婚約者との面識もなさそうだな。クリスティーナを勝手に愛称で・・・」
「クリスティーナ!?マルティーナでしょう!?」
王太子と恋仲だったのはマルティーナだったはず、あれ?でもリチャードは王太子じゃなくて公爵で、え?もしかして全くの別物・・・?
やらかした、と気づいた時には遅かった。
目の前が暗くなっていく中、優しかった父の嘆きだけが遠くに聞こえた。
***
「イザベル嬢とはやはり面識は?」
「ありませんわ。」
答えたクリスティーナは、しっかりと冷やされた果実水を口に運ぶ。
幼い頃のトラウマで、温かい飲み物は口にできない。ぬるくなったスープがやっとこの5年で飲めるようになった程度だ。
「王太子殿下の方が年齢的にも相応しいという声は、他の口さがない連中からもあったが・・・」
「ありえませんわ!」
珍しく大きな声を出したクリスティーナに、幼い頃の光景が蘇る。
王弟・・・当時はまだ第二王子であった14歳のリチャードと、第一王子の子である現在の王太子・エドワードが茶会に現れた時のことだ。
「ははうえがそだてたはなをみせてやる!」と強くエドワードに引かれた腕が痛く、「やだ!」と母の後ろに隠れようとしたクリスティーナに腹を立てたのか、当時5歳のエドワードが突き飛ばしたのだ。
あの時の痛みと恐怖は忘れられない。エドワードともう一度会うようなことがあったらと思うと恐ろしさしか浮かばない。
リチャードと会うのですら、はじめは恐怖でしかなかったのだ。やっと、父と兄の他にはリチャードなら会話もできるようになってきたところなのに。
「思い出させてしまって申し訳ない。イザベル嬢はその後心を病んでしまったようで、修道院にて静養するとの報告が伯よりあった。クリスティーナのことを知らないようではあったが、愛称で呼んでいたような発言もあったので、もし君の友人ならばと気になっていた。」
まだ9歳のクリスティーナに伝える内容ではなかったかもしれない。リチャードは悔やんだ。
昨年、歳の離れたリチャードの兄が王位につき、エドワードが立太子した。子どもの頃の暴君のような様子は一変し、10歳にしては穏やかで思慮深い王太子であると評判である。
あのお茶会の件は、王太子の成長にも一役買ったようだ。
「それよりも、わたくしが婚約者で良いのでしょうか。」
クリスティーナが結婚できる年になるのはまだ先である。まもなく20歳になるリチャードにとって、その場にいてエドワードを止めることができなかったという責任で結ばれた婚約など、枷にしかならないだろう。
少しずつ公爵家の妻としての役割について学びはじめたクリスティーナには、トラウマにより社交も難しい自分がリチャードに相応しくないことが理解できる。できるようになってしまった。
「一つだけ、イザベル嬢に感謝したいことがあったのだよ。」
いつも礼儀正しく、優しくクリスティーナに話しかけるリチャードの声が少しだけ変わる。
「王太子とクリスティーナの仲、という言葉に俺はとても不愉快だったんだ。しかもティーナだなんて、俺も呼んだことのない愛称で。怒りで眠れなくなるくらいね。」
「え・・・?」
リチャードが「俺」というのをクリスティーナははじめて聞いた。男性に恐怖を感じるクリスティーナになるべく寄り添うよう、リチャードが意識していたためである。
しかし、不思議と恐怖は感じなかった。
「クリスティーナ、君を愛称で呼ぶ権利をくれるかい?できれば俺だけが呼べる名前で。」
「父と母はティーナ、と呼びます。リチャード様には、そう、クリス、と。」
「ああ、クリス、ありがとう。これからはそう呼ばせてもらうよ。私の婚約者殿。これからは少しずつ、俺・・・私のことも知ってくれ。君のこともよく知りたい。これからも長く共にあるのだから。」
クリスティーナは頬に熱が上がるのを抑えられないまま、そっとうなずいた。毎月のリチャードの訪問が、これからは楽しみになるかもしれない、と思いながら。
主人公は転生していないので、異世界転生タグはつけていません。
クリスティーナはまだ子どもなので、リチャードは唯一怖くなくなったお兄さん、くらいにしか考えていませんでした。すごく頭のいい子なので、結婚はしなくちゃいけないけどリチャードならまあなんとか我慢できるし、でも迷惑かけちゃう・・・とぐるぐるしてます。リチャードは婚約者に対する自分の執着に気付いた&自重する気無しなので、クリスティーナはきっと苦労するんだろうなぁ。
イザベルはちゃんとお勉強していればすぐ違うことに気づいたはずなんです。web小説だ!と思い込んだりしなければ、優しいお父さんとお母さんに囲まれて幸せに暮らせたのではないでしょうか。




