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異世界物

昔捨てた彼女がうちの王子と婚約するらしいので、三等書記官の俺は命のためになにがなんでも婚約破棄へ持っていきたい

作者: コーチャー

 バンデルニア王国外務局三等書記官ロイ・カーディアスーー俺は、ある通達に絶句を越えて吐き気を覚えていた。バンデルニア王国は東西にロンゴロンド帝国、アーキティア神聖王国という大国に挟まれた小国である。常に風を読み取り大国の間を風見鶏の如く、ひらりひらり陣営を変える。それが国が生き残る道であり、そのためにバンデルニア王国は多くの諜報員を各地に派遣している。そして、俺もその一人である。その俺が驚きと驚愕を受けた通達には次の言葉が書かれていた。


『王室府通達 バンデルニア王国第一王子ヘンリー・ノース・バンデルニア殿下の妃としてアーキティア神聖王国公爵公女アイリス・サイ・ベルグリッドを内定とする。ひと月後に婚約の儀式をとり行う』


 食い入るように通達に齧り付いていたのが不思議だったのか。同僚の書記官が「ああそれな。驚いたろ。王室府主導で外務局は局長と一部の一等書記官だけが知ってたらしいぜ」と下っ端は辛いという様子で笑うが、俺ははそれどころではなかった。


 なぜなら、アーキティア神聖王国公爵公女アイリス・サイ・ベルグリッドは一年前まで俺が情報源としていた対象だからである。そして、よりありていに言えば『元彼女』なのである。バンデルニア王国からの留学生というのが俺に与えられた肩書であり、学術交流という名目でアーキティア神聖王国の最高学府に潜入した俺は言葉巧みにアイリスを口説き落とした。


 そこから得られた情報は、俺を昇進させるには十分なもので五等書記官から三等書記官にまで引き上げられた。そして、俺は学術交流の期間終了と身分の違いという非常に良くある言い訳で彼女と別れた。おおむね良好な形で別れた自信はある。だが、そのときの彼女の言葉だけが気にかかる。


『絶対にまた会いましょう』


 あのときはそれがただの感傷からくるものだと思っていた。だが、いまは最悪の場合を思わずにはいられない。もし、彼女が俺を諜報部員だと気づいていたのだとしたら? そのために利用して捨てたことを恨んでいるのだとすれば? 俺はどうなる?


 順調に行けばアイリスは、次の国王の妃であり、俺の生殺与奪など相手のものだ。


 俺は駆け出すように外務省の入り組んだ廊下を突き進むと直接の上司がいる部屋に駆け込んだ。午前中だというのにうずたかく積まれた煙草の吸殻にだらしなく机の上に投げ出された足。とても一等書記官に見えない態度の男は俺をちらりと見るとにかりと白い歯を見せた。


「色男は大変だな」

「今回の婚約はこちらから仕掛けたものですか?」


 わずかな希望があるとすれば、我が国のほうから公爵家に婚約を申し込んだ場合だ。我が国のような小国はアーキティア神聖王国の格から見れば、降嫁してくれるのは良くて伯爵というくらいだ。それが今回は一つ上の公爵である。どちらかの国から強い要望がない限りはありえない話だ。


「そりゃ、大切な第一王子の婚約だ。うちの王室府だ……って言ってやりたいが、残念ながら相手さんからの熱烈な希望だよ。表向きは、一戦おっぱじめたいロンゴロンド帝国を牽制するためだが、帝国さんはいまのところそこまで一戦を望んでいるような感じでもない。つまり、分かるよな?」

「……しかし、偽装脚本『学術交流生アルフレッド・ビクター』は半年前に不慮の死によってアルフレッドの死として相手にも間接的に伝わるように新聞広告を出しています。いまさらアルフレッドに会いにというのは……」


 一等書記官は王室の紋章がデカデカと押された書面を俺に突き出して笑う。俺にはその笑いが死神のそれに聞こえる。ゆっくりと受けとった書面はやはり地獄への招待状だった。


『外務局三等書記官ロイ・カーディアス。文化・語学適性を認めアーキティア神聖王国公爵公女アイリス・サイ・ベルグリッド付きに任命する』


「まぁ、はっきり言えばお前はバレてるんだわ」

「そんな!? 俺は痕跡なんて残してません」

「痕跡なんてもんは追おうと思えば追えるもんさ。あるいは偽装脚本『学術交流生アルフレッド・ビクター』の死があまりにも出来すぎていた。そのせいで相手が疑問に思ってという筋もある。どちらにしても相手さんはロイ。お前がアルフレッドだって知ったうえでお付きとしてご指名ということだ」


 さして柔らかくもない床がふわふわと泥濘んだ地面のように感じる。俺はその場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえていた。


「俺は王子の前で元彼氏で諜報員だと指摘されて殺されるんですか?」

「それは相手さん次第さ。いまも相手さんがお前のことを『愛してるわ、あなたの正体が諜報員でも構わない。真実の愛のために国なんて捨てて構わない』とかお花畑なことを思っているならそれでいい情報源になる。お前は王子の妃の間男になるが、国益のためだ。王子にバレないようにしろ」


 一等書記官が甲高い声を出してアイリスの物真似をするが、俺にはとても笑えない。


「いまから帝国へ亡命することは許してもらえますか?」

「そいつは無理だな。すでにお前は諜報部で監視している。さっきもお前がここへ来たくなるように同期が言葉をかけてくれただろ? 優しいじゃないか。逃げ出すとまずいからちゃんと誘導してくれてるんだ」


 廊下で声をかけてきた同期のことを思いだす。あいつが局長と一部の一等書記官と言わなければ俺はここに来なかったかもしれない。研修時代から見透かしたような行動をする奴で頼りになる反面、胡散臭い奴だ。


「逃げ道はないってことですか。諦めて聞きますけど、王子に婚約者には愛人がいますよって最初から伝えておくわけにはいきませんか?」

「王室府が主導してきて、もう明日には報道される話だ。あの自尊心の高い王子が愛人付きの婚約者だと知れば、即婚約破棄を言い出して、我が国とアーキティア神聖王国の関係は激冷えだ。その隙をついて帝国が我が国に攻め込んでくれば。ウチみたいな小国は孤立無援で亡国待ったなし。そうなれば国民がどうなるか……。よーく考えろ、お前ひとりの命と国民の命。どちらが重いか」


 軽い調子でありながら一等書記官の言葉は重い。


「……分かりました。ただ、俺が原因ではない婚約破棄を引き出せれば、俺の命を助けてくれますか?」

「足りないな。付け加えろ。お前が原因ではなく。かつアーキティア神聖王国との友好が保たれる婚約破棄を引きだす。それが条件だ。ロイ、俺は優秀な諜報員がいなくなることを好まない。努力しろ」

「心優しいクソ上司に感謝します」

「クソは余計だ。クソ三等書記官」





 絶望的な状況で、俺の命を保ち、かつ王国の平穏を守る。そのための条件は、王子と公女の婚約を間男の存在を気づかせず、平和的に婚約破棄をさせること。外務局の極一部の協力のもと計画は始まった。計画は三段階に分岐する。第一段階はアイリスが俺への復讐を望んでいるか否か。彼女が俺への復讐を望んでいる場合、俺はなすすべもなく王子に過去を暴露され死ぬことになる。反対にアイリスが俺への愛を持っている場合はそれを利用した第二段階に移行する。


 第二段階はアイリスの愛を利用して、王子との婚約を破棄させることになるが、平和裏に婚約を破棄させるために生活習慣の違いを利用して王子とアイリスがすれ違う、という筋書きになる。この際、のちにお互いの誤解が解けることで両国の感情をほぐす必要ある。しかし、一度婚約の話まで進んでしまった二国の流れを感情だけで覆せず婚約が成立した場合、計画は第三段階へ進む。


 第三段階は婚約が成立したあと、王子に好意を持っていた貴族の子女が婚約に異議を唱える。王子はそれを否定するだろうが、アイリス側が貴族の子女の勇気のある愛に心を打たれ婚約を破棄する。これでうまくいかなければ、俺は永遠に命の危険がある間男にならざるを得ない。


 平和の代償が俺の間男生活だなんて笑えないことだ。


「愛国的貴族の子女としてデミエール男爵の息女ローラを用意した。びっくりする話だが彼女は本気でアーキティア神聖王国から花嫁がくれば我が国が乗っ取られ、王子は心の底では婚約に後ろ向きだという俺たちの言葉を信じている」


 そう言ったのは同期の書記官だ。こいつが俺に一等書記官のもとへ誘導しなければ、俺はこの国を捨てて逃げられていたか、と思わなくはない。だが、おそらく監視がついていたことを考えると無理だったに違いない。


「ありがとよ」

「残り少ない同期だからな。まずは最初の対面が山場だ。身なりを整えろ。アルフレッド時代の想い出の品をさりげなく忍ばせろ。アイリス公女がロイへ未練がない限りこの計画はご破算だ。何が何でも愛を取り戻せ!」


 他人事だと何とでもいえる。こいつのこういう無責任なところが苦手だ。だが、いまは頼もしい。俺はアルフレッドに偽装していたときによくつけていた香水を薄くつけた。懐かしい匂いだ。


「では、行ってくる」


 外務局の数少ない仲間たちに目を向けることなく俺は迎賓館の一室から出陣する。盛大な鳴り物も騎士の名乗りもない。だが、間違いなく俺にとっての戦場が始まるのだ。迎賓館の中で最も格式の高い大鷲の間の扉を叩く。木を叩いていると思えない硬質な音が響いた。数秒の沈黙のあと扉が開いた。なかには空の青を写し取ったような透明感のある青いドレスに身を包んだアイリスが複数の取巻きとお付きの女中に囲まれていた。


「外務局から参上しました。三等書記官ロイ・カーディアスです。文化風習周面で公女殿下のお力になるよう仰せつかっております。慣れぬ異国のこと、何なりとご相談ください」


 正直に言えば、公女ともなれば言語は複数扱えるのが当然でアイリスは俺が知る限り他国の文化風習にも詳しい。正直、他国の役人を呼び寄せるようなことはないのである。俺が名乗ると、周辺の者から厳しい視線を受ける。見た目は礼服であるものの体つき、構えが明らかに違うものが数人いる。


「まぁ、あなたがロイ様ですね。我が神聖王国の外交官から、あなたは信用に能う能力と人徳があると聞き、このたび特別にあなたを呼び寄せていただきました。これから良しなにお願いいたします」


 アイリスはまるで初めて会うように俺に挨拶をした。黄金色の髪は複雑に結い上げられて頭の上から下へ伸びている。ドレスの胸元は大きく開き、白い肌が見えている。そこにわずかと言えるほど小さな輝きがある。それは俺がアルフレッドを名乗っていたときに学術交流生が、無理して買ったくらいの蒼玉の首飾りである。それが目に入った瞬間、俺は一瞬だけ動きが止まったと思う。それでも無理に微笑んで「非才の身です」と会釈できたのは及第点だ。


「では、王子の人となりを教えていただけませんか?」

「それは……」


 あなたの周囲の外交官が詳しいでしょう、という言葉が出そうになる。アイリスの取巻きたちの視線を気にするように視線を左右に動かすと、アイリスは柔らかに微笑んだ。


「そうね、他国の人間が多い場所で王子のことは話しにくいことでしょう。皆は少し下がりなさい。私が良いというまで部屋の外で待ちなさい」


 彼女が言うと数名の男が異議を口にしたそうな動きを見せたが、微笑みでアイリスが黙らせると「何かあればすぐにお呼びください」と存外素直に部屋から出ていった。俺はここで大きく息を吐きたい気持ちになったが、アイリスの思惑が分からず。じっと彼女の姿を見つめた。


 会わなかった一年で随分と大人っぽく見えるのは衣装のせいか。俺の感傷か罪悪感だろうか。


「アルフレッド……。いいえ、本当はロイだったのですね。本当に騙されていました」

「公女殿下。いや、アイリス。僕は決して君を騙したいわけじゃなかった。ただ、国のため仕方なく」

「仕方なく。愛を囁けるのですね。私はあなたの言葉に一喜一憂して、どれだけ心を乱したことか」


 アイリスは悲しそうに目を伏せると机に両手をのせた。


「いや、違うんだ。僕が君を愛していたのは事実だ。しかし、君と僕ではあまりにも身分が違っていたんだ。君を連れ去りたい、何度そう思ったかしれない。だが、それでは君を幸せにできない。そう思って僕あの日、君と別れたんだ」


 俺は諜報員だ。心にないことでも口にできる。表情もすべて作り上げて見せる自信がある。アイリスは少しだけ顔をあげると、うっすらとうるんだ瞳で甘い言葉を紡ぐ俺を写した。


「……うそつきの顔をされています。私のことなど都合の良い情報源だとお思いだったのでしょう?」

「違う。僕は君を本当に愛していた。その気持ちは君が着けている首飾りに託した。きっと君の宝石箱の中ではもっとも貧相だったかもしれないが、僕は蒼玉に誠実な愛を託したんだ」


 蒼玉の石言葉は「誠実」だっただろう。もし、紅玉を選んで渡していたら「君への情熱を込めたんだ」と語ったに違いない。


「ロイ。本当にあなたはうそつきだわ。そうやっていつまでも私を惑わすの」

「……信じてくれないなら仕方ない。僕を王子の前で糾弾すると良い。君の惑いの元凶はすぐにでも胴体から首が消え失せて、君の心を騒がす言葉を吐かなくなる」


 一か八かである。ここで何としても彼女の愛を引き出さなければならない。そうでなければ計画は第一段階で終了だ。


「そうね。……そう、私はそのために来たのよ」


 失敗か。なんとか、何とか持ち直さなければならない。俺の灰色の脳細胞は絶望で倒れそうになるが、机にさりげなく手を突くことでかろうじて水平を保った。


「……そうだろう。僕は結果として君を騙していた。それは許されないことだ。それでも僕が君を愛していたことは覚えておいて欲しい。それが叶うなら僕は死んでも本望だ」


 まったく本望ではない。俺はまだ死になくない。そのためにはもう一度でも何度でも君を騙したい。頼むから騙されてくれ、アイリス。


「ロイ……。本当に本当に私のことを愛しているのですか?」

「ああ、愛している」


 今この瞬間、俺は君のことだけを考えている。それがいろいろひっくるめて愛なら間違いなく俺は愛している。だから、もう一回だけ俺を愛してほしい。


「なら、いまここで口づけをしてください」


 アイリス。君は何という無茶を言うのだろうか。俺は周辺を素早く見渡した。確かに周辺に人影はない。だが、警護の者や女中といった彼女のお付きは、俺とアイリスが二人っきりという状況をあまり良く思わずいるに違いない。何か異変を感じて扉を開けられたりすれば、不味い事態になるのは明確だった。


 俺が押し黙っているとアイリスが悲しげな表情で「やはり、私への愛など嘘なのですね」と暗い目をする。


「いや、違う。大丈夫だ」


 まったく大丈夫なことなどない。そもそも、口づけをしたら愛を信じるとはどういう理屈なのだ。だが、口づけ一つで命がつながる。つながるのだ。俺はアイリスの細い肩に手をかける。少しだけアイリスが驚いたように体を震わすが、俺は構わずに彼女の唇を奪った。


 それはわずかな時間だったはずだが、俺は背後の扉がいつ開くのかと気が気ではなかった。唇を離すとアイリスは何かに酔ったような赤い顔をして「あの頃と同じ匂いです」とだけ言った。


「アイリス。これで俺のことを信じてくれるだろうか?」

「……ええ、はい。はいですわ」


 アイリスは花が咲き誇るような満面の笑みで俺を見つめるが、俺はようやく第一段階が完了して命がつながったことに安堵した。だが、本番はここからである。


「良かった。アイリス、僕は君に王子と婚約などしてほしくない。どうか婚約破棄をしてくれないか?」

「ロイ。それは難しいことです。あなたのことを恨み。私は私から王子の妃になることを申し出ているのです。それをいま反故にしては、どちらの国も面目が立たないでしょう。いいのです。ロイ。私は最後にあなたの愛が確認できた。それだけであとの愛のない生活を耐えていけます」


 健気にいうアイリスだが、彼女がこの国にいる限り俺は王妃と関係があったという事実から逃げられないのである。なんとか故郷へ帰って欲しい。


「だめだ。僕は愛がなくとも君が王子と結婚するなんて気が狂ってしまう。だから、計画を考えてきたんだ」


 俺はわざと声を潜めてアイリスの耳元でささやく。そうして俺は、計画の二段階目と三段階目をかみ砕くようにやさしくアイリスに伝えた。アイリスは最初、目を丸くして驚いていたが、最後には「私、やりますわ」と同意してくれた。


 これでお膳立てはできた。俺は最大の関門を突破したと心の中で勝鬨をあげた。


「そろそろ、君のお付きたちを呼ぼうか」


 俺が外へ声をかけようとするとアイリスが少しだけ微笑んで俺の身体を彼女のほうへ向けた。


「忘れ物が……」


 そう言って彼女は少し背伸びをして俺の口元をハンカチで拭った。拭ったハンカチには彼女の口紅の赤がしっかりと写し取られていて俺は、背筋が凍りつく思いだった。


「アイリス。ありがとう。君はよく気がつく素晴らしい女性だ」

「いいえ、ロイ。私はいま、ようやくあなたと再会できた気持ちです」


 彼女はそう言って微笑むと外へ「構いません。入りなさい」と声をかけた。声をかけるとすぐに取巻きたちが集まり、俺に短い自己紹介をした。どうやら、この護衛たちは基本的には公爵家の者たちで、神聖王国からの使者は別の部屋にいるらしい。俺は挨拶を終えると婚約の儀式について説明をして部屋をあとにした。


 安堵とこれからの苦難で膝がくじけそうになるが、なんとか俺は同僚たちが待機している目白の間に戻る。俺が部屋に滑り込むと同僚が片目を閉じて手を挙げた。俺はその手に自分の手を叩きつけると叫んだ。


「愛、とりもどしたぞ」

「ロイ。よくやった。これで計画は第二段階へ進む。婚約の式典では誓いの杯を王子と公女が交換するがその際に左手で渡すことが、神聖王国では不吉とされていることを利用する。神聖王国第三国王ウィステージが左手で杯を受けたあと病に倒れた故事に由来するこの第二段階でうまく婚約破棄へ持ち込めばお前の命は首の皮一枚つながる。頑張れよ」


 肩を叩かれて俺は「ああ」と強く頷いたがすぐに「第三段階は大丈夫なんだろうな?」と失敗したあとのことを考えてしまった。


「大丈夫だよ、やっこさんは白馬の王子様を悪い魔女から救うつもりでやる気満々だ。婚約の儀式が成立してしまったら、すぐにでも異議を唱えるさ」


 デミエール男爵の息女ローラとやらはよほど王子のことを愛しているのか役柄に燃えているのだろう。恐ろしいほどの感情だ。俺は俺も人のことは言えないかと苦笑いをした。


「よし、では次は婚約の儀式だ」


 俺は同期の声に押し出されるように部屋を出るとアイリスのいる大鷲の間へ向かう。扉を叩き、儀式の準備が整ったことを伝えると、警備の男を先頭に女中、アイリス。俺という並びになった。儀式の行われる大典礼室へ向かう。


 ひそめた声でアイリスが「なんだか楽しいですね」と緩み切った頬で笑う。アイリスにとって俺と悪だくみをするような楽しさがあるのだろうが、俺にはまったくその余裕がない。


「ああ、これからが僕らの新しい日々の始まりだ」


 そう言って俺は自分の手の平が汗で濡れているのに気づいた。


 大典礼室の前には二十名ほどの儀仗兵が綺麗に並び、アイリスの到着と同時に扉が開かれる。まっすぐに伸びた赤い絨毯が、奥にある祭壇まで続いている。祭壇の前では国王と王子が嬉しそうに微笑んでいる。第一王子の性格は一言で言えば自信家である。王族として軍事も教養もある。そして、並み以下ではないという非常に強い誇りを持っている。それは王族としては頼もしい限りであるが、俺のような間男に成り下がろうとしている身としては勘弁してもらいたい性質である。


「おお、遠路はるばるよく来てくださった。私がバンデルニア王国第一王子ヘンリー・ノース・バンデルニアである。アーキティア神聖王国の至玉と呼ばれる公爵公女アイリス・サイ・ベルグリッドを我が婚約者に迎えられることを嬉しく思う」


 仰々しい言葉にやけに大きな声が式場に響きわたる。アイリスが王子に言葉を返そうとしたときだった。式場の端から甲高い声がした。


「これは我らが王国を乗っ取らんとする神聖王国の悪計による婚約! デミエール男爵の息女ローラはこの邪まな婚約に異議を唱えます。どうかヘンリー閣下、目をお覚ましください。帝国も兵火を収めている時期に神聖王国が公女を送り込む理由など乗っ取り意外にございません!」


 貴族の群れから走り出したのは、義務感と責務と愛に突き動かされたデミエール男爵の息女ローラであった。彼女はどこまでも真剣に本気で国の危機を叫ぶが、あまりにも場違いで誰もが言葉を出せなかった。それはアイリスも同じだったらしく、はてなという顔で俺を見ている。


 俺は時期が早すぎると慌てて同期の姿を探す。同期の書記官は式場の入り口の方で口だけを動かして「ごめん」と言った。俺は「馬鹿野郎」と口だけで伝えると、一度王子の反応を見ることにした。


「何を言っているのだ。この度は王国と神聖王国の紐帯を強固にするもの。乗っ取りなどそのようなことはない!」


 王子が反論すると警備の近衛たちがローラの周りに殺到する。あっという間に彼女は捕らえられると式場の中央に引きずりだされた。俺とアイリスはそれを止めるべきかどうするべきか分からないまま王子とローラのもとへ駆け寄る。


「王子閣下。私の言葉を信じてください。その毒婦は王国を狙っているのです!」


 抑えられたままローラはアイリスの危険性を説くが、王子に言葉は届きそうにない。


「これはどうしたことでしょうか?」


 アイリスが王子に訊ねる。


「いや、この者は乱心。いや、帝国の手先なのです。王国と神聖王国が近づけば帝国としては手が出せなくなる。そう思い分断をはかっているのでしょう。しかし、私たちは困難を排して婚約を結びましょう」

「……私は私が嫁ぐことが人々に望まれることと思いここに参ったのです。望まぬものがいるなら私はここを去るべきでしょう」


 毅然とした態度で婚約をなかったことにしようとするアイリスに俺は心からの拍手を送った。想定外の事態からの切り返しとしては最高の出来だ。


「そんなことはない! 異論をはさむのはこの者だけだ。なぁ、皆よ」


 王子が周囲を見渡して同意を求めた瞬間だった。

 入り口を警備していた儀仗兵が揺れた。二十名いた儀仗兵の半数が隣にいた同僚を刺殺していた。儀礼用の装飾された剣が真っ赤に染まる。血塗られた剣を携えて儀仗兵たちが俺やアイリスを取り囲む。公爵家の警備の人間が臨戦態勢を取ろうとするが、ローラを捕えていた近衛から妨害が入る。俺たちと警備の間に入り込んだ彼らのせいで完全に分断された。俺はアイリスを背後にかばうと後ろにじりじりと下がる。


「我らはこの婚約に異議を唱える」


 儀仗兵の一人がそう言うと他の儀仗兵や近衛が持っていた剣を床に叩きつけて同意する。激しい金属音に腰が引けそうになる。王子はと言えば「なにを言っている!」と叫んでいるが国王や貴族たちに庇われて祭壇のほうへ逃げ去っている。俺は舌打ちをしながら目の前の近衛たちを睨みつけるが、眼力だけで引いてくれそうな気配はない。


 近衛は俺が武器を持ってないことに余裕があるのか。「神聖王国の手先が」と罵りながら剣を振り上げる。振り下ろされた剣は俺の右袖を裂いたが、腕はつながったままだった。背後ではアイリスの悲鳴が聞こえる。俺の名前を呼んでいるようだが、そこまで気が回らない。俺の視線と神経は、二撃を繰り出す近衛の動きに釘づけだった。


 振り下ろした剣を返して振り上げる瞬間、一気に踏み込んで剣の柄と袖をつかむ。そのまま、一気に引き倒すと剣が手に残った。俺は地面に突っ込んだ近衛の脇腹に思いっきり蹴りつけると、そのまま別の近衛に斬りかかる。


 諜報員として最低限の訓練はしているが、それほど強いという自信はない。それでも近衛の一人を倒したことで、隙は生まれていた。できるだけ敵からアイリスを遠ざけるように剣を振るう。二人目の近衛の剣をはじいたとき式場に変化があった。


 外務局の一等書記官を中心に幾人かの諜報員が儀仗兵に襲い掛かり囲みがまばらになった。


 俺はアイリスの手を引くと一気に式場を駆け抜ける。敵が何かをわめいているがもう聞こえない。聞こえるのはアイリスの息遣いだけだ。それが聞こえている限り、彼女が無事だと考えて剣を振るった。ようやく儀仗兵を抜けて一等書記官のもとにたどり着いた。俺はアイリスを押し付けると敵の方へ向き直る。


 同期の書記官と一等書記官が俺に何かを叫んでいるがうまく聞き取れない。


 服の裾が何かに濡れたように冷たい。視線を腹のほうに向けると脇腹の辺りが真っ赤に染まっていた。いつの間に斬られたのか。そんなことを考えているうちに俺の意識は途絶えた。床に倒れる瞬間、アイリスが泣き叫んで俺を覗き込んでいるのが見えた。


 やめてくれ。俺はそんな心配されるようなことはしていない。

 それどころか俺は俺の命が大切なだけだったのに。





 次に目が覚めると、俺は割ときれいな寝台に寝かされていた。

 神々しい雰囲気はないので天国ではないらしいと息をつくと、脇腹の辺りが痛んだ。痛みで生きていると感じるというのはあまりいい気持ちではない。


「生還、おめでとう」


 やる気のない声がする。顔を見ずとも分かるわが愛すべきクソ上司こと一等書記官である。


「これは死んでた方がいい感じですか? それとも生きていて良い感じですか?」

「そうだな。俺からは良い方だと言っておこう。おめでとう。昇進だ」

「これで一等書記官まであと一つですね。これでクソ上司もクビが危ういんじゃないですか?」

「俺のクビが? それはないな。お前さんとはもう部下でも上司でもないし」

「どういうことです? 王族と王子の婚約者を守った功績で王室府付とかですか?」

「残念違います。だが、おめでとう。ロイ・カーディアス男爵。今日から君は貴族の仲間入りだ」


 貴族? そんなことがあるのか。何の家名もない俺が貴族?


「冗談でしょう?」

「冗談じゃないよ。正式な任命状も出ているし、領地も決まっている」


 任命状には王国の印も押されている。何かの冗談で作られたものというわけではなさそうだ。


「命を張った甲斐がありました」

「アイリス公女にお礼を言うんだな。婚約者を捨てて逃げる王子よりも役目のために私を庇った役人がどれほど見事なことかって君の功績を高らかと宣言してくれたんだから」

「それは、ありがたいことですね。間男としては微妙な気持ちですけど」


 一等書記官は「俺には一生分かりたくない気持ちだがね」と言って煙草を取り出そうとしてやめた。病人のもとで吸うのはまずいと思う気持ちが彼にもあるのかと驚いた。


「ああ、そうそう。アイリス公女と王子の婚約は破棄になったよ。婚約者を守らないような男は嫌だって。王子は食い下がっていたけど、あの状況じゃね。というわけでおめでとう。俺はそろそろいくわ。奥さんによろしくね」


 一等書記官は片手を振り振り出ていった。そこで俺は困惑した。奥さんとはなんだ? 俺は間男であったかもしれないが、奥さんはいない。


「ああ、ロイ。目が覚めたのですね!」


 その声は聞き覚えがあった。アイリスだ。地味な服装に着替えているが、蒼玉の首飾りに金色の髪。見間違えるはずはない。


「どうして、君が? 王子との婚約は破棄になったのなら国に帰ったのでは?」

「帰る?」


 アイリスが首をかしげる。


「だって君は」

「私はまだ未亡人になってませんけど」


 俺の言葉を遮ってアイリスが言う。まだ、意識が混濁しているのかもしれない。彼女が未亡人になる、というのはどういうことだろうか。彼女は婚約さえしていないはずである。結婚もしていないものが未亡人になる、という理屈が分からない。


「アイリス? 僕が寝ている間に何があった?」

「特に何もありません。私がロイ・カーディアス男爵夫人になったくらいです」

「そう……はっ?」


 身体を起こそうとして脇腹が痛む。悲鳴にならない声で悶絶しているとアイリスが口を開いた。


「私、言ったの。婚約者を王子が守らないなら。私は私を守ってくれた方と結婚しますって。だから、ロイ。あなたは私の夫で私は妻です。いくひさしくお願いしますね?」


 満面の笑みが視界で揺れる。

 もっとも最悪な可能性が脳裏に浮かぶ。


「アイリス。もしかして君は神聖王国が王国を乗っ取るっていう噂を方々に撒いた?」

「ええ、たっぷりと。帝国に聞こえるほどに」

「ではあの襲撃は?」

「真に受けた帝国の刺客でした」

「その動機は?」

「あなたと結ばれるために」


 俺は崩れるように布団に沈んだ。結局はアイリスが上手だったのだ。王国も帝国もただの乙女に振り回され、俺は公女を守ったという見た目の結果で男爵に格上げされた。まったくひどい冗談みたいな話だ。


「ロイ、これから頑張りましょうね!」

「頑張るって?」


 アイリスが含み笑いをする。


「王子の婚約者を奪った新任男爵。王子はずいぶんとあなたをお恨みみたいですよ。あとは帝国はロイを親神聖王国派の急先鋒だとかなり高く買ってくれております。きっと飽きない日々が待っています」

「敵ばかりじゃないか」

「いいえ、私がおります。むしろ、私ひとりのほうがよろしいでしょう?」


 目のくらむような新妻の言葉と美貌に俺は意識を失いたくなった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一周回ってヤンデレ公女が一番まともに見える。 [気になる点] 婚約者とか婚約破棄って婚約成立してないと使えませんよね? 物語は婚約式前~婚約式中断されたから婚約は成立しておらず、 婚約予定…
[良い点] すごく面白いです。 ろくでもねえ国なので国が滅びかけるような罠仕掛けて一か八かの大捕物の荒劇をしかけるやぶれかぶれな公女さまが清々しいですね。 少女の愛のために人の血が流れてますわ〜みたい…
[一言] 登場人物が糞みてえな奴ばかりだから実は公女が腹黒で全ては公女の手のひらの上でした、なオチになんねーかなーと思いながら読んでたらなった。主人公ざまあでメデタシメデタシ。
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