そして神様は笑った
この話をしたら冗談でも言ってるの?って反応されることが多いんだけど、私が高校生の時、同じクラスに神様がいた。
もちろん神様と言っても、映画やドラマで出てくるような全知全能の神様なんかじゃなくて、みんなの近所にいるようなごくありきたりの普通の神様。一番最初の席が隣同士だったっていうのもあり、私はすぐに神様と仲良くなって、彼女から色んなことを教えてもらった。神様なんだから高校くらいは出ておかないと駄目だと思って入学したということ。神様の世界では今、二十年前に流行したファッションがもう一度流行っているということ。近所に住む神様が、九州の神様と付き合ってて、遠距離恋愛がすごく大変そうだということ。などなど。
神様はただ神様だっていうだけで、他のクラスメイトと違いがあるわけではない。一緒に遊んだり、放課後の教室で勉強したり、くだらない話で何時間も時間を潰したりした。神様なのに成績はちょっと悪かったけど、それもまたどこか可愛げがあって、彼女はクラスのみんなから愛されていた。私はそんな神様のことを、高校の同窓会のお知らせを読みながらふと思い出す。そして、そんな思い出に耽っているちょうどその時、当時のクラスメイトから偶然電話がかかってきた。内容は今度の同窓会に参加するかどうかの確認で、私は正直迷ってると答えつつ、さっきまで考えていたことについて何気なく彼女に話題を振ってみる。
「ねえ、私たちのクラスにいた神様もさ、同窓会に来てくれるのかな?」
私がそう尋ねると、クラスメイトは急に黙ってしまった。どうしたの? と私が不思議に思って問いかけると、その子は少しだけ戸惑い混じりの声で、私に聞き返す。
「私たちのクラスに神様がいたなんて……冗談でも言ってるの?」
*****
私たちのクラスに神様がいたからと言って、他の人とは違う、特別な高校生活を送ることになったと言うわけではない。それぞれの高校生活が、その人自身にとって何かしらの意味を持った特別日々であったのと同じように、私の高校時代も、他の人の高校生活とは取り替えっこができない特別なもの。そして、私だけのあの日々には、たまたま神様がいた。ただそれだけのことに過ぎなかった。
神様は神様なのに、全然神様らしくなくて、だからこそ私は他のクラスメイトと同じように接することができて、私にとっての大事な友達になってくれた。テスト前になると決まって神様が勉強を教えてと泣きついてきて、よく三浦ちゃんという子の家で一緒にテスト勉強をした。だけど、仲のいい私たちが集まったら当然集中なんてできなくて、結局取り止めもないおしゃべりで時間が過ぎていく。そして、そんなおしゃべりが始まったら、決まって私たちは同じ話題で盛り上がる。
どうせだから恋愛の神様を紹介してよ。
みんなで集まった時、三浦ちゃんは毎回そう言っていた。そしたら、私の方こそ紹介して欲しいよと神様が言い返して、みんなで同じタイミングで噴き出してしまう。
神様は優しくて、天真爛漫で、一緒にいるだけで私はすごく明るい気持ちになれた。神様が悲しんでたり、泣いてたりしている姿なんて想像できない。そんな子だった。でも、一度だけ。一度だけ、私は神様が泣いている姿を見たことがある。それは今でもすごく印象に残っている。私と神様にとってみたら、それはまさに、ちょっとした事件みたいなものだった。
高校一年の二学期。学校行事と学校行事に挟まれた、ありふれた毎日のとある昼休み。いつものように取り留めもないお喋りを楽しんでいた私と神様のもとに、突然隣のクラスの女の子井口さんがずかずかと足音を立てながら近づいてきた。
井口さんはちょっとした有名人だった。良い意味ではなく、悪い意味で。髪は明るい色に染め、いつも派手なメイクをしていて、一限目が始まる前には、校庭から教育指導の先生と大声で言い争いをしている声が聞こえてきた。それに、周りの子に対してもちょっと攻撃的だったから、友達はいなくて、学校で孤立していた。私の高校は公立の進学校で、周りも比較的大人しい子が多い。加えて、ちょうどSNSの登場で同調圧力が強くなり始めていた頃だったから、彼女のように浮いた存在は、陰口や噂話の格好の標的だった。
母親が水商売だとか、この前ずっと学校に来なかったのは中絶手術をしていたからだとか。女の子たちは罪悪感すら覚えず、ただ単純な娯楽として噂話を楽しんでいた。話題が井口さんの陰口になる度に、私は胸の中がぎゅっと締め付けられるような居心地の悪さを感じた。だけど、私自身も井口さんのことは苦手だと思っていたし、前に一度だけ、廊下で肩がぶつかったときに彼女から強めに睨まれるみたいなことがあった。あんな子だから仕方ないよね。一度、他の子が私にそう言って私に同意を求めてきた時、私は無理に笑顔を作って、それからゆっくりと頷くことしかできなかった。
だから、井口さんが私と神様に近づいてきた時だって、私は何の用なんだろう?という疑問より、不安と恐怖の方がずっと強かった。井口さんは何も言わないまま椅子に座っていた神様の前に仁王立ちして、それから小さな声で「あんた、神様なんでしょ?」と聞いてくる。その声はいつもの彼女の棘ついた声とは違っていて、緩んだ弦を弾いたような、か弱い声だった。
構えていた私は少しだけ虚をつかれて、改めて目の前に立つ井口さんの顔を見つめた。井口さんはいつものように派手なメイクをしていたけれど、よく見ると圧化粧の奥に隠れていた右頬はうっすらと赤く腫れていて、右目の下半分が赤く充血していた。いつも遠くから見ていた時は私や友達よりもずっと大きく感じていた身体も、近くで見たら私と同じかちょっと低いくらい。私たちの前に立っていたのは、みんなから嫌われて、みんなから怖いって思われるような得体の知れない人じゃなくて、私たちと同じ、一人の女の子だった。
井口さんは神様を見下ろした後で、返事を待つことなく、ポケットに入れていた右手を出し、そのまま握りしめていた何かをバンと机に叩きつける。叩きつけられたのはぐしゃぐしゃになった数枚の一万円札だった。クラス全体が静まり返って、みんなが私たちの方を注目していた。ほんの数秒が何分にも、何時間にも感じられた。
私は神様の横でじっと井口さんの顔を見つめ続けていた。そして、井口さんの充血した右目が潤んでいき、一雫の涙が頬を伝う。気丈な表情を保ち続けていた井口さんの唇が少しずつ震え初めて、それから、さっきと同じか細い声で、神様に呟いた。
「神様だったら、こんなところで遊んでないでさ……私を助けてよ」
そして、井口さんは頬を伝う涙を拭うこともせずに、ただじっと神様を見つめていた。私は井口さんを見つめ、横に座っていた神様へと視線を向ける。神様は自分を見下ろす井口さんを見上げ、泣いていた。その涙は、私が今まで見てきた中で、一番静かで、美しい涙だった。神様は目の前に立つ井口さんをじっと見つめながら、「ごめんなさい」と呟いた。
「私はまだ未熟な神様で、他の立派な神様みたいな力はない。だから……井口さんを助けることはできない」
ごめんなさい。神様の声は震えていた。それから、神様は何度も何度もごめんなさいという言葉を呟く。静まり返った教室の中で、神様のその言葉だけが、虚しく響き渡っていた。
その日を境に、井口さんは学校に来なくなった。保健室に通って私たちより数年遅れて卒業したとかそういう噂を聞いたことがあるけど、本当のところはわからない。井口さんがあの日神様に助けてと言った理由も、わからないまま。まるで井口さんの存在そのものが消えてしまったかのように、私たちはそれぞれの日常へと戻っていった。楽しいことがあったら笑うし、性懲りも無く誰かの悪口を言って楽しんだ。
それでも、今でも時々、思い出すことがある。あの日の井口さんの切実な訴えと、神様のかすれるような『ごめんなさい』という言葉を。
*****
私は手当たり次第に同級生に電話をかけて、クラスにいた神様のことを覚えてないか尋ね回った。だけど、みんな冗談でしょって笑うだけで、誰一人として神様のことを覚えている人はいなかった。
「私の家でテスト勉強したのは覚えてるけど……そこにいたのって私と舞ちゃんだけだったよ?」
最後の希望だった三浦ちゃんにそう言われた時、私はまるで狐につままれたような気持ちになった。思い出を美化したり、自分の都合のいいように解釈したり。そんなことは誰にだってある。だけど、私が過ごしたあの高校時代に、確かに神様はいた。同窓会の連絡が来るまでは思い出すことすらしなかったけど、記憶を辿ればそこに、かけがえのない時間を過ごした神様の姿があった。
『本当はさ、こうやって神様が人間と一緒に学校に通ってるのはあんまり褒められたことじゃないんだよね』
二人っきりでおしゃべりをしていた時、ふと神様が呟いたそんな言葉を思い出す。あれはどこで聞いた言葉だろうと私は記憶をたどり、いつか神様が住んでる神社に遊びにいかせてよとお願いした時だと思い出す。神様が教えてくれた神社はちょっとだけ遠い場所だったけれど、私が住んでる場所からもぎりぎり日帰りで訪れることができる場所。だけど、私が遊びに行きたいと言うと、神様は決まって恥ずかしそうな、それからちょっとだけ後ろめたそうな表情を浮かべて、やんわりと断った。
『そういえば、同じように学校に通ってた神様って他にもいるの?』
『うん。他にもたくさんいるよ』
『そうなんだ。でも周りの大人に聞いても、同じクラスに神様がいたなんて聞いたことないよ』
私がそういうと、神様は一瞬だけ言葉を詰まらせて、そういうもんだよとちょっとだけ哀しそうに笑った。
その時の神様の悲しそうな顔を、今になって思い出す。でも、だからと言って私にできることは何もなかった。私以外の同級生はみんな神様のことなんて忘れていて、ひょっとしたら、私がいたと思い込んでいる神様は、私が勝手に作り上げた幻なのかもしれないとさえ思い始める。
私は力無くうなだれて、連絡先が書かれた紙をそっと閉じる。だけどその時、考え事をしていたせいで私の手元が狂い、机の上に置きっぱなしにしていた地元のチラシが床にばら撒かれる。私はため息をつきながらしゃがみこみ、散らばったチラシを片付け始める。
いつも中身を確認しないまま捨てているくせに。人の名前なんてすぐ忘れちゃう性格のくせに。床にばら撒かれた一枚のチラシ、そこに印字された名前にどうして目が止まったんだろう。それは私にはわからない。ふと手に持った美容室のオープンを告げるチラシに書かれていた美容師の顔写真と名前。そんなわけないよ。あまりの偶然を目の前にして、私は無意識のうちにそう呟いていた。
いつもの私だったら、そんなことはしないと思う。だけど、気がつけば私はチラシを握りしめ、そこに書かれていた電話番号に電話をかけていた。呼び出し音が鳴るたびに私の胸が張り裂けそうになって、その度に次の呼び出し音が鳴り終わったら切ってしまおう思っていた。だけど、三回目の呼び出し音で電話がつながって、電話越しに聞き覚えのある声が聞こえてくる。それは、あの日あの瞬間に聞いたものと一緒の声。驚きでも喜びでもないわけのわからない感情で頭がいっぱいになって、何も言えずにその場で固まってしまう。
「ええっと……どちら様?」
電話の向こう側から訝しがる声が聞こえてくる。私は覚悟を決め、自分の名前とそして、高校名を告げる。井口さんは私の名前をもちろん覚えていなかった。それにあまり良い思い出がない高校時代の話に対して、電話越しに少しだけ機嫌を損ねているのがわかった。高校時代、ずっと苦手だった人に対し、携帯を握った手が少しずつ汗ばんでいく。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかなかった。私は勇気を振り絞り、神様のことを覚えているかと尋ねる。少しだけ沈黙が流れて、それから井口さんが重たい口を開く。
「冗談でも言ってるわけ?」
小さな咳払いをした後で、井口さんは言葉を続ける。
「そんなの……忘れるわけないじゃん」
私の呼吸が止まる。さっきよりも長くて、重たい沈黙が流れる。それから聞こえないくらいの小さな小さな声で、井口さんが呟く声が聞こえてきた。
「……忘れるわけないじゃん」
*****
神様から教えてもらった神社にお参りに行こう。私と井口さんのどっちから言い出したのかは覚えてないけど、気がつけばそんな話になっていて、高校でのあの事件以来初めて顔を合わせる井口さんとともに、私は電車の車窓から流れていく景色を眺めていた。
電車に揺られながら、私たちは微妙な距離感のまま話をした。天気の話とか、美容師になったんだねって、当たり障りのない話題を振っては、二言、三言会話を交わして、そのままお互いに黙り込む。その繰り返し。高校時代だって一度も喋ったことなんてなかったし、昔と変わらない鋭い眼差しを向けられると、あの頃の記憶が蘇って胸が締め付けられた。あの日のことを聞きたい気持ちとそれについて聞いたら嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないという考えが頭の中でぐるぐる回って、結局私は井口さんから目を逸らし、窓の縁に詰まった埃へと視線を向けてしまう。
「あの時は、限界だったんだよね。家庭だけじゃなくて、高校にもどこにも居場所がなくて」
だからこそ、井口さんがふとそんなことを呟いた時、私は驚きのあまり呼吸が止まりそうになった。私は井口さんの方へと顔を向けて、彼女の横顔をじっと見つめる。
「思い出したくもないけど、あの頃はみんなが敵だと思ってた。家の中は荒れに荒れて地獄だったし、学校の連中からは嫌われてた。先生だって反抗的な私に愛想を尽かして、頭ごなしに私を叱りつけるだけだった。全部の人間関係が最悪の状態で、だから野良犬みたいに周囲に威嚇しまくって、そのせいでさらにみんなが離れていく。強がってはいたけど、精神的にはかなり追い詰められてて、心の底は誰でもいいから助けてって思ってた。
だから、あんたのクラスに押しかけて、神様に詰め寄ったんだ。ギリギリだった私のすぐ近くで、クラスメイトと楽しそうに話してる神様を見たら、どうしようもなくむかついてさ。まあ、神様からしたら、とんだ八つ当たりだけどね」
「……そんな状況だったら、仕方ないと思う」
「でも、あんたもその時はそんなこと思ってなかったでしょ? あんたも、私がただのヤンキーだと思って、みんなと一緒に私の陰口を言ってたんじゃないの?」
井口さんはおどけた口調でそう言った。そこには悪意みたいなものはなかったし、私を非難するような刺々しさはなかった。だからこそ、その言葉は私の胸を深く刺し、それから私は言葉に詰まる。知らなかったから。そんな言い訳では済まされない。胸に右手を添えながら、私は掠れるような声で呟く。
「ごめんなさい」
すると、井口さんは私の方を見て、少しだけ驚いた表情を浮かべた。
「昔のことなんだから、適当に誤魔化せばいいのに……。なんか意外だったわ。というか、ひょっとして泣いてる?」
井口さんに言われて私は自分の右頬に手を当てる。指先がほんのりと濡れて、そこで初めて涙で視界がぼやけていることに気がつく。井口さんは当惑した様子で私の背中に手を持ってきて、別に何とも思ってないよと声をかけてくれたけれど、私の涙は収まらなかった。
「違うの……」
私は声を絞り出す。違うって何が? と井口さんが聞いてくる。私は唇を噛み締め、服の袖で涙を拭う。それから顔を上げて井口さんの顔を見つめる。大人になった彼女の表情に、あの日、傷ついた表情で神様の前に立っていた昔の彼女の表情が重なる。
「ずっとずっと辛い思いをしていたのに……気付いてあげられなくてごめんなさい」
それだけ伝えると、自分の言葉でさらに涙が溢れ出してくる。あの日の彼女の気持ちと、ずっと一人で、誰とも心を通わせることができずにいた井口さんのことを考えるだけで、私の胸が苦しくなって、涙が止まらなかった。
他人のことでそんなに泣くなんて馬鹿なやつ。井口さんはぽつりとそれだけ言って、私の背中をさすり続ける。線路の連結部分を乗り越えるたびに、電車に揺れる。私たちは座る赤紫色のシートの上に、私の涙でシミができていった。
それからひとしきり泣いた後で、電車が目的の駅に到着する。そこは山に囲まれた無人駅で、もちろん下車するのは私たち二人だけ。スカスカの電車の時刻表を確認し、私たちは携帯で表示した地図を頼りに、神社へと続く道を歩いていく。初夏らしい透き通るような青空が真上に広がっていたけれど、周りを木で囲まれた道は日かげになっていて、ひんやりと冷たい。息を吸うたびに、土と草が混じった匂いが鼻を通って、どこか懐かしい気持ちに満たされる。
山道を数十分ほどかけてようやく神社にたどりつく。敷地自体は小さくて、私たち以外に参拝客はいない。だけど、山の中にあるにしては建物は小綺麗で、雑草が生え放題になっていると言うわけではない。地元の人から愛されてるんだな。神社全体を包み込むような優しい雰囲気を感じながら、私は高校時代の神様のことを、思い出す。
「でも、なんで他の人たちは神様のことを忘れちゃったんだろう」
本堂にお祈りをした後で、ふと思いついた疑問を口に出す。井口さんは私の方を見て、そもそも忘れるようにできてるんじゃないの?と返事をする。神様は色んな神様が自分と同じように高校に通ってるって言っていたけれど、高校時代に神様が学校にいたなんて話は聞いたことがない。もし、そのこと自体をすべて忘れてしまっているのであれば、説明はつく。でも、じゃあ、何で私たちは神様のことを覚えているんだろう? 次に思いついた疑問を井口さんにぶつけてみると、井口さんは顎に手を当て、考え込む。
「程度の問題かもしれないな。私たちって、神様に関する強烈な思い出が残ってるってこともあるし……。それに、私たちも、神様に関することで忘れちゃってることがあるかもしれない。例えばだけど……あんたはさっきからずっと神様って言ってるけどさ、高校時代も『神様』って呼んでたわけ?」
「どういうこと?」
「神様って名前で呼ぶなんてさ、私があんたを人間って呼んでるのと一緒でしょ? だからさ、普通に考えたら、高校時代もきちんと名前で呼んでたんじゃないの?」
私は井口さんの言葉にハッとして、記憶にたどる。私は神様と過ごした思い出を振り返る。確かに、神様って呼び方はしていなかったような気がする。だけど、神様の名前を私はどうしても思い出せなかった。他に忘れてしまってることはないだろうか。私は焦燥感に駆られながら必死に思い出し、それからある一つ、どうしても思い出せない事実があることに気がつく。
「神様は何の神様だったのか……思い出せない」
「どういう意味?」
「例えば学問の神様とか、金運の神様とか……何を司る神様だったのか、どうしても思い出せないの」
「私もそれは知らないけどさ……うっすらとした記憶だと、そもそも何の神様だったかは誰も知らなかった気がするぞ。なんか、どれだけ聞いても教えてくれないってことで有名だった気がする」
「そうなの。神様はみんなが聞いても、何の神様なのかはなかなか言わなかったの。でも、一度だけ、こっそり教えてくれた気がするんだ。でも、その時に教えてもらったことが……思い出せない」
私と井口さんの間に沈黙が流れる。私は周囲をぐるりと見渡した。そもそもどうしてこの神社に来たのか。今更ながらそんな疑問が頭に思い浮かぶ。
高校時代に仲の良かった神様にもう一度会いたいから? この神社にくることで、高校時代に忘れていた何かを取り戻すことができる予感がしていたから? 一生懸命考えてみたけれど、不思議と答えは見つからない。
私は少しずつ神様のことを忘れていって、いつか高校時代に神様と同じクラスだったということすら思い出せなくなる。もしそれが、三浦ちゃんみたいな他の友達だとしたら、きっと私は悲しさのあまり泣いてしまうだろう。でも、気がつけば私は、神様のことを忘れてしまうというその事実を、びっくりするくらいすんなり受け入れてしまっていた。
もし近くにいるならちょっとでいいから出てきてよ。私は試しにそう口にしてみたけれど、その言葉には必死さとか切実さは全くこもってなくて、まるで頬を撫でながら通り過ぎていく風に語りかけるような、そんな軽さがあった。ひょっとしたらだけどさ。井口さんはそんな前置きをいった上で、私の方を見ずに呟く。
「本当はとっくの昔に神様のことなんて忘れてなくちゃいけないのに……うっかり消し忘れてるだけなんじゃないかな? 私は遠くから見てただけで、神様のことなんてよく知らないんだけどさ、あんたの話を聞く限りではさ、そんな抜けてるところがあるのかなって。だから、私たちがこうして二人揃って神社に来たのを見て、今頃しまったって慌ててるんじゃない?」
私は井口さんの横顔をじっと見つめた後で、神様が消し忘れちゃったと慌てふためく姿をイメージしてみる。それは高校時代ずっと一緒にいた神様の姿とぴったりと重なって、私は思わず吹き出してしまう。私の笑いに、井口さんもつられて笑う。それから私たちは二人で声を立てて笑った。山の中にある静かで小さな神社の敷地で、私たち二人の笑い声が響いき渡った。
*****
それから私と井口さんは来た道を戻り、電車に乗って私たちが住む街へと戻った。最寄りの駅に到着した頃には日は傾き始めていて、あと1時間もすれば空はうっすらと茜色に染まり始める、そんな時間帯だった。私たちは駅前のロータリーで二人して立ち止まり、お互いの別れ道とお互いの顔を交互に見つめる。
「えっと……行きの電車で、突然泣いちゃってごめんなさい」
私は恥ずかしさで顔を逸らしながら、井口さんにそう言って謝った。
「いや、気にしてないよ。何というか……こういうことを言うと、変に思われるかもしれないけどさ。こっちとしては、泣いてくれてありがとうって感じなんだよね」
「ありがとう?」
井口さんの言葉に私はきょとんとしてしまう。少しだけ照れているのか、井口さんも私と同じように顔をそらし、言葉を続ける。
「私は泣けなかったから」
井口さんはそれだけ言ってから、私の方へと顔を向ける。私もまた井口さんの目を見つめ返した。その目は、あの日のような充血した痛々しい目ではなく、茶色に透き通った、綺麗な目だった。
「どん底にいた時もそうだけど、踏ん張って何とか人並みの生活を送れるようになった今も、私は泣いたことがなかった。だから、あんたが私の話をして泣いた時、私の代わりに泣いてくれたみたいな気持ちになったんだよね。でさ、ちょっとだけ肩の荷が降りたって言うか、大袈裟かもしれないけど、すーって心の中が軽くなったような気がした。だから、ありがとう。まあ、こんなこと言われても、何それって思うかも知んないから、あんまり深く考えなくても大丈夫」
それじゃあ、またいつか。井口さんはそう言って片手を振って、私に背を向けて歩き出す。私も、またいつかと返事をして、それから彼女に背を向けて歩き出そうとした。
だけど、一歩足を踏み出そうとしたそのタイミングで、何かが私の動きを止めたような気がした。それから私は数秒間その場で固まった後で、ゆっくりと後ろを振り返る。数メートル前には、井口さんが私の方へと振り返った状態で、私と同じようにその場に立ち尽くしていた。井口さんは何か言いたげな表情を浮かべていた。だけど、多分井口さんから見たら、私も同じように何か言いたげな表情をしていたんだと思う。だから、井口さんは少しだけ笑って、言いたいことがあるなら先に言いなよと私を促す。
「えっと……この後ってさ、何か予定があったりする?」
井口さんは何も言わず、私を見つめ返す。
「こんなこと大人になってから言うことじゃないかもしれないけど……井口さんともっとお話ししたいなって……」
私は自分で自分の言っていることが恥ずかしくなって、最後はしどろもどろに言葉が途切れてしまう。それから井口さんの方は何を言おうとしてたの? と私が尋ねると、井口さんは呆れた表情を浮かべ、返事をする。
「本当冗談みたい」
何が? 私が恐る恐ると尋ねると、井口さんが言葉を続ける。
「あんたと全く同じことを言おうとしてたんだよね」
井口さんが真剣な表情でそう答えるものだから、私はそれがおかしくて、笑ってしまう。井口さんは少しだけむっとしながらも、私につられて一緒に笑い出す。
あの日私たちの前で泣いていた井口さんと、神様の横で何もできずに狼狽えていた私が、こうして一緒に笑ってる。もし神様が今の私たちを見たら、どんな反応をするだろう? 驚いて、喜んで、それからきっと私たちと同じように笑ってくれる。ひょっとしたら井口さんの言う通り、私はこれから少しずつ神様のことを忘れてしまうかも知れない。
でも、私と井口さんが何年後かに今日という日を思い出した時、その思い出の中にはきっと神様がいる。神様の名前を、いや、神様の存在を忘れてしまったとしても、胸の中に広がる懐かしさだけは一生消えて無くならない。
私は胸に手を当てる。それから、今この瞬間に感じる幸せと懐かしさを、自分の身体に刻みつけた。
*****
「ねえ、XXXって、結局何の神様なの?」
夕暮れの教室。一つの机を挟んで向かい合わせに椅子に座っている神様に、私は尋ねる。
「恥ずかしいから誰にも言いたくないんだよね。まだまだ未熟者で、胸を張って答えられるわけじゃないし」
「そっか……」
「でも、舞になら教えてもいいかもしれない」
外はすっかり日が暮れて、空は幻想的な茜色に染まっている。神様は窓の外の夕焼け空を見た後で、どこか切なげな表情を浮かべた。そしてゆっくりと口を開き、誰にも言わない?ともう一度念を押してくる。言わないよ。私は神様のちょっと物憂げな表情に少しだけどきりとしながら、返事をする。
「私はね、縁結びの神様なの」
縁結び? その言葉に私がちょっとだけ色めきたつと、神様は多分想像しているのとは違うよと釘をさす。
「縁結びっていうのはね、恋愛とかそういうものだけじゃなくて、人と人との繋がりの全てを意味してるの。家族とか、先生と生徒とか、それから友達とか。全部。私は未熟者で、人と人との繋がりをどうこうする力はない。でも、修行を積んで、色んなことを経験して、一人前になったら……人と人との縁を結んで、それからその人たちがずっと仲良くいられるようなお手伝いをする、そんな神様になりたいって思ってる」
いつになく真剣に話す神様の横顔を、私はじっと見つめる。その言葉に込められていたのは、力強さとか決意とか、そんな言葉では括れないもの。そこに込められていたのは、誰かの幸せを願う、祈りのようなもの。
「きっと、なれるよ。XXXなら」
私と神様は放課後の教室で向かい合い、何も言わずに見つめあう。きっとなれるよ。私はもう一度神様に伝える。
ありがとう。少しだけ照れ臭そうに、少しだけ嬉しそうにそう答え、そして、神様は笑った。