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夜の闇に浮かび上がる図書館はいつ見ても不気味だ。
いつからあるのか、誰が建てたのかもわからない、巨大な石造りの建造物。聖堂のようにも見えるし、宮殿のようにも見える。あちこちに修復を繰り返した跡があって、元の形はもうわからない。入り口も、元々あった物が崩れて、完全に塞がったとかで、壁に穴を空けてそこに煉瓦造りの建物を無理やりくっつけてある。
その建物は、受付や事務作業を行うための場所になっていて、そこには来館者用の入り口と別に、職員や、バイトする図書委員が使う関係者用出入り口があった。
鍵を開けて中に入る。
長めの廊下の先にもう一枚扉がある。その先が事務室だ。
中は温かく、そして暗い。
静寂に漂うのは、どことなく甘ったるいインクと紙の香り。
そして――
――むせかえるような水の匂い。
全員が中に入るのを確認し、扉を閉めようとしたあたしの手を瑠璃が掴んだ。
「なんだよ」
「いつもここに来ると逃げだそうとするから、捕まえておこうと思って」
いつもなら、瑠璃の言うとおりにあたしは荷物を置いて、華麗にUターンを決めるところだ。
でも、あたしは今日はそうしようとは思わなかった。空いた手で扉を閉めて、振り返る。
「ほら、行くぞ。手はなせ」
「あれ? 良いの?」
「別に……ってなんだよ。もしかして帰って欲しいのか。なら帰るけど」
瑠璃が不思議そうにこっちを見てくるから、鬱陶しくて目を逸らした。
「そんな事ないよ。一緒に来てくれるのはもちろん嬉しいけど、どうしてかなって」
「急いでくれないか? 何度も言うが、あまり時間はないんだ。無駄話は止めてくれ」
先輩が苛立ったように告げた。言い方はムカつくけど、ここでずっと立ってると見回りの司書に見つかる可能性もあるから、あたしたちは黙って従った。
奥にあるもう一枚の扉を開けると、事務室がある。その隅に応接用のソファがあって、そこでおじさんがいびきをかいて寝ている。見回りの休憩中なんだろう。起こさないように気を付けて受付まで出ると、何匹もの光るクラゲが宙を漂っている光景に出くわした。
「夜光クラゲ……。どうしてこんな所に」
「普段は湖の底にいるけれど、日が落ちて図書館が閉まる頃になると、こんな風に地上まで出て来るんだよ。こうやってみんなでパトロールしてるの」
先輩が驚くのも無理はない。こんな光景、司書じゃないあたしたちはこうして夜の図書館に忍び込まなきゃ見られないんだ。あたしも初めて見たときはちょっと驚いた。本当にちょっとだけ。
「パトロール?」
「そう、ルールを破る人を捕まえて湖に引きずり込むの。本を勝手に持ち出そうとした人とか」
「なんだと!? それは、どうするんだ……?」
先輩が不安そうに言った。まぁあたしらは今から勝手に本を持ち出そうとしてるわけだし心配にもなるだろう。
「きちんと貸し出しの手続きをしてれば平気だよ。貸し出しカードはあるよね」
「ああ、生徒手帳に挟んである」
「なら大丈夫。ちゃんと手続きしてね。ルールだから」
瑠璃って意外にルールを気にするけど、自分が一番そのルールを破ってるってわかってんのかなぁ。言っても無駄なんだろうけど。
「新しく入った本」や「今日返ってきた本」の棚を横目にちょっと進むと、壁や天井が古そうな石造りに変わった。入り口付近は臙脂色のタイルカーペットだった床も、足音の響く石材になる。本棚と言うよりは「書架」と言うのが合うような趣深い木製の棚の中に、沢山の文庫本がぎっしりと詰まっている。そこにもクラゲたちがいて、緑の光でぼんやりとあたりを照らしていた。おかげでライトがなくても充分見える。
「あの、『ジャック船長』って文庫本だったりしません?」
この街の本は全て図書館に所蔵されていている。でも、不思議なことに本がどこからやってくるのかは誰も知らない。わかっているのは、皆がよく使う本や、大事な本は小さな文庫になって「陸」の書架に収まるって事ぐらいだ。
先輩曰く、お祖母さんの、「人生を変えてくれた一冊」らしいし、それほど感動的だったり衝撃的だったりするんなら、文庫になっていてもおかしくない。
でも、先輩はすぐ首を振った。
「『ジャック船長』は児童小説だ。医学書や技術書のように多く利用されるわけではないし、そこまで人気のある本じゃない。それに僕は見たんだ。革張りに三本ベルトがついているあの本が湖に落ちていくのを」
妙に断言的な言い方だけど、もしかして閉館直前まで文庫の棚を睨んで確認でもしていたのかな。
「そうですか……」
まぁわかっていたけどさ。ここにないってことは。もしかしたら楽に終わるかもって期待しただけだし。
しかし、児童小説のくせに革張りって何だ。
「ジャック船長の船のクルーが、実際に記録した航海日誌だからね」
と、瑠璃。
ふーん。要はそういう設定なのな。
少し歩くと床は途切れて、そこから先は静かな湖面が広がっている。来館者に貸し出すためのボートが岸に腹を向けて並べられていた。
そしてその先、クラゲたちの光が、湖を淡く照らす。
湖はどこまでも続いて見えて、その水面からは、数多くの書架が整然と顔を出していた。当然その中には数え切れないほどの本が置かれている。それだけじゃない。周囲の壁面にまでいくつもの本が並べられている。
広大な湖、そして、本、本、本。
ついに、来てしまった。この場所に。来てしまったからには、あたしも腹をくくるしかない。
嫌だけど。
あたしは並んだボートから、橙色の塗装がされたやつを表に返し荷物を載せた。番号は八番。別にどれを使っても良いんだけど、あたしが使うのはいつもこのボートだ。船首を沖に向けて押し出し、手早く乗り込んでオールを掴む。漕ぎ出す前に二人を手招きした。
「ほら、早くしろよ」
「うん」
「先輩も、乗ってください」
「む」
あたしがせっかく手際よくボートを準備したのに、先輩は少し渋る様子を見せた。
「貸せ、僕が漕ぐ」
そう言ってあたしを船尾側に追いやろうとする。この中で唯一の男だし、紳士的な振る舞いをしているつもりなんだろう。実際、あたしじゃなかったら喜んで変わったかもしれないな。オールを漕ぐのは疲れるから女子は特にやりたがらないし。でも、あたしはこのオールから手を離す気は毛頭ない。
「あたし、他人が漕ぐボートには絶対に乗らないって決めてるんです。良いから乗ってください」
「しかし」
「乗ってください」
とびきりの笑顔を作って先輩の申し出を断った。先輩は眉間に皺を寄せたがそれ以上何も言わず、大人しく船尾側に乗り込んだ。
オールで押し出すようにしてボートを岸から離す。
さぁ漕ぐぞというところで、ボートが揺れた。振り向くと、船首側に座った瑠璃が立ち上がってポーズをとっていた。
「錨を上げろ~、帆を張れ~。面舵いっぱ~い!」
滅茶苦茶だな。錨も帆も舵もねぇよ。
「揺れるから止めろ。座れ」
「はーい」
大人しく座ったか確認するために肩越しに瑠璃を見やると、花が咲いたような笑顔がこっちを見返していた。
「なんだよ」
「光里がいつもよりやる気だから嬉しいなって」
「そんな事ない」
「そうだ、今のうちに、君にも僕が回収を依頼した理由を話しておこうと思うんだが、いいか?」
「あ、ちょっと先輩!」
「何? いいよ」
あたしが止める間もなく、先輩はあたしがさっき噴水で聞いた話を瑠璃にもしてしまった。それが筋なんだけど、でもタイミングが最悪だ。
「そっか。じゃあ絶対に取り戻さないとね」
話を聞いた瑠璃はそう言った。
「ああ、よろしく頼む」
「ところで光里」
瑠璃が後ろから耳打ちしてくる。なんてことだ。オールを握っているせいで耳を塞げない。あたしにできたのは、肩越しに不機嫌な視線を投げることぐらいだった。
「私、光里のそういうところすっごく好きだよ」
「うるさい」
美人な瑠璃の笑った顔は眩しくて目がちかちかする。おまけに熱でも放射しているようだ。見てると顔が熱くなってくるから、そうに違いない。あたしはこれ以上顔を焼かれない様に、さっさと目を逸らして運転に集中した。