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隣のクラスの図書委員をなだめすかし、三日分の掃除当番交代で鍵を借りることに成功したあたしは、いつもより少し遅く家に帰った。もう日は落ちかけて、空は暗い部分の方が多い。
玄関の靴を見て、誰もいないことを確認すると、小さく「ただいま」と呟いた。
「お帰りなさい光里さん」
「ぅわっ!」
突然した声に振り向くと、三縄さんがそこにいた。
黒ずくめの、ほっそりとしたシルエットが、買い物袋を提げて音もなく佇んでいた。
「お、脅かさないでくださいよ」
「すみません」
静かに頭を下げてくる三縄さん。その足下にはジローがいた。買い物だけじゃなく、散歩も代わりにしてくれたらしい。
「いや、いいんですけどね。むしろこっちがごめんなさい。いつもいつも」
ジローのリードを受け取る。同時に黒い毛玉があたしの足下にじゃれついてきた。抱き上げると寒い中散歩してきたはずなのに温かい。柔らかい毛に顔を埋める。ああぁ、癒やされる。
「構いませんよ。仕事ですから」
抑揚のない声でそう言うと、三縄さんは袋を持ったまま後ろ向きに靴を脱いだ。相変わらず全然表情が変わらない。何考えてるのかわからなくて、ちょっと苦手だ。
あたしも靴を脱いで、ついでにジローの足を拭いてから、物音一つ立てず廊下を進む三縄さんの後ろをドタドタとついていった。
「あの、ありがとうございます。夕食作ってくれるだけのはずなのに、ジローの散歩まで」
「いえ、犬は好きなので」
「そうなんですか?」
「はい。可愛いですよね。ジローさん」
だったらどうしてそんなに無表情なんだろう。
そのままあたしは自室に戻った。しばらくジローと戯れていると、三縄さんに呼ばれる。
三縄さんが作ってくれた夕ご飯を二人で食べる。疲れていたのか、ジローは早々に御飯を食べ終えて眠ってしまった。あたしたちはいつも通り、二人で四人用のテーブルにつく。三縄さんが廊下のドアに一番近い席で、あたしはその隣に座った。三縄さんは無口だし、あたしも食事中に話す方じゃないから、普段は黙々と食事が進む。
でもこの日はあたしから三縄さんに話しかけた。
「三縄さん」
「はい」
手を止めてこっちをみつめる瞳に、思わず謝ってしまいそうになる。
「えと、『ジャック船長の勇気ある冒険談』って本知ってますか? 児童小説らしいんですけど」
あの眼鏡先輩が言っていた冒険小説。瑠璃は読んだことがあるようだったけど、あたしは知らない。瑠璃が好きだとか言っていたし、どんな内容なのか気になったのだ。
三縄さんは普段は父と一緒に司書として図書館で働いているし、何か知っているかも知れない。
案の定、三縄さんは小さくうなずいた。
「『冒険譚』ですね。知っています。懐かしいですね……幼い頃に読んだことがあります」
「どんな本なんですか?」
「子ども向けの冒険小説です。主人公は海賊船の船長で、どんな嵐の中でも、決して帆を畳まず風を受けて進もうとする剛毅な方でした。決め台詞は確か、『進め! 風は後からついてくる!』だったかと」
三縄さんは滔々と語った。小さい頃読んだだけなのに、すごい記憶力だな。しかもあの本は「忘却の湖」に沈んだはずなのに、まだ覚えていられるなんて。
「……面白いですか?」
そう訊くと、三縄さんは顎に手を当ててちょっと俯いた。人間らしい仕草なのに、無表情だからか逆に人間味が薄く感じる。
「そうですね。読む人によっては、とても気に入ると思います」
三縄さんの言い方はどこか曖昧で、結局面白いのか、面白くないのか、あたしにはよくわからなかった。
「その本って、読んだら人生が変わると思いますか?」
眼鏡……老仙先輩は、確かこう言った。「人生を変えてくれた一冊」。人にここまで言わせるほどの小説だから、きっとすごい本なんだろうと思っていたのだが、三縄さんの話を聞いていると、全然そんな感じがしない。不思議に思ったあたしがそう口にすると、
「人生が変わる、ですか。そう感じる方もいるのかも知れませんね」
「三縄さんは違うんですね」
「そうですね。私も幼い頃に読みましたが、その事で特別人生に変化があったとは」
いつの間にか食べ終えていた三縄さんは手を合わせた後でこう付け加えた。
「きっとそう感じたという方は、あの本を読んで、いたく感動したのでしょう。あるいは、価値観が激変するような衝撃を受けたのでしょうね」
感動、衝撃、かぁ。
その言葉を何度か頭の中に思い浮かべながら、あたしも残りの夕ご飯を食べ終えた。
着替えようか迷ったけど、時間もないし、制服のまま上にパーカーだけ羽織って行くことにする。まだ家族は誰も帰ってない。こっそり父親の仕事部屋を漁り、水中カメラやケーブル、モニターなんかを鞄に押し込む。他にもいろいろ必要な物を準備してから、ずっしり重くなった鞄を引き摺って玄関へ。
「お出かけですか」
いつの間にか三縄さんが背後にいた。心臓に悪い。
「う、うん。そうなんです。ちょっとそこまで……」
まさか、これからあなたの職場に忍び込むんですなんて言えないあたしは、咄嗟にそう誤魔化していた。
「そうですか」
沈黙。
こんな荷物を抱えて「ちょっとそこまで」は流石に厳しかったかなと自分の機転の無さを嘆いていると、三縄さんが右手を差しだした。手には水筒があった。小ぶりな魔法瓶タイプのやつだ。
「どうぞ」
「あの、コレは」
思わず受け取る。
そのまま淡々と廊下を戻っていく三縄さんの背中に、あたしは思わず声をかけた。
「三縄さん」
「はい」
振り返った三縄さんに正面から見据えられて、やっぱり少し怯んでしまう。
「え、っと。あの、行ってきます」
「お気をつけて」
その声を背中に受けて、扉を開けた。外はもう真っ暗だ。
「三縄さん」
「はい」
「水筒、ありがとうございます」
家から出て、徒歩十分。地下鉄の駅へと向かう。
夜になると、立ち並ぶ家々や道行く人から生まれた「泡」が、街の灯りに映える。まだ八時だけど、もう寝ている人がいるのかな。
人は夜寝ている間に記憶の整理をするらしい。覚えてることの中で、大事なことと、どうでも良いことを分けて、後者は忘れてしまう。
この泡は、その記憶。
目で追うと、空に上って消えていく。
こうしてる今も、誰かが何かを忘れていく。
頭の上には青い闇が広がっている。
この景色を見るといつも思う。
水底にいるのって、こんな感じなのかなって。