足りないもの
その男は、いつも「生命の樹」という名前の喫茶店にいた。
朝、喫茶店が開くと同時に一番隅の席を陣取った。
街の人々は、男のことを
「約束を守る男」
と呼んでいた。
僧侶は、悩み苦しんでいた。
20代の頃、やんちゃをしていた彼は罪を犯し、短期間だが禁固刑を受けた経験があった。その刑務所の中で仏教と出会い、心を入れ替えた彼は、30歳を機に仏門修行の道に入った。
厳しい修行に耐え、懸命な努力をした彼は、とある寺の住職を任されるまでになった。
そして30年の歳月が過ぎた。彼の説法は人々の救いとなり、街の人々から尊敬を集めるようになっていた。
しかし還暦を過ぎても、彼は苦しんでいた。
病に苦しみ、死の恐怖に苦しみ、なにより満たされない想いに苦しんだ。
なにかが足りない。
苦しみから人々を救ってくれるはずの教えが、彼自身を救ってくれなかった。
次第に彼は衰弱していった。
私の一生はなんなのだろう。
仏陀の教えは、頭で理解しているつもりだが、修行が足りないせいか身体が納得しない。
座禅をしていても、集中ができず、苦しみは増すばかりだ。
修行自体の意味にまでも疑問を感じるようになった。
そんなある日、僧侶は「約束を守る男」の噂を聞いた。
なにかのきっかけになるかも知れない、そう思った彼は、
依頼してみようと決心した。
いつものとおり男は、指定席である隅の席で本を読んでいた。
他に客はいなかった。
正午を告げる鐘が外から聞こえた。
その鐘の音が小さくなってから、僧侶は男に近づき、声を掛けた。
「御相談したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
男は読んでいた本を閉じ、顔を上げて、僧侶へ向かいの席に座るよう促した。
僧侶は、これまでの彼の人生を語り、
現在の悩みと苦しみを男に語った。
なにかが足りないのだが、それがなにかがわからない。
男は僧侶に、なにを自分に依頼したいのかと尋ねた。
「私と共にある苦しみを無くして欲しい、足りないものを埋めて欲しい」
男はしばらく考えた後、じっと僧侶の目を見てから、
依頼を受ける、20年間待て、と言った。
「依頼料は?」
僧侶は男に尋ねた。
男は、コーヒー代を一杯分、机の上に置いていくように言った。
僧侶は、依頼料を支払い、丁寧に礼を述べて店を後にした。
19年間の歳月が過ぎた。
僧侶は懸命に修行と慈悲行を重ねた。
人々は彼のことを生き仏だと噂し合った。
しかし、一向に変化が起こる兆しは無かった。
80歳を越えても、彼の苦しみは変わらず彼と共にあった。
さらに時が過ぎていった。
依頼から20年目のその日の朝、
老いた僧侶は、自分の一生を振り返っていた。
あと数時間で、約束の時間になる。
なにかが起こるのだろうか?
まさか、私は約束の時間に死ぬのか?
まあそれはそれで良いのかも知れない、彼は思った
正午の鐘が響いた。
僧侶はさらに数時間の間待ったが、なにも変わらなかった。
彼はなにも変わらなかったことに、深く落胆すると同時に、
自分はなにを期待していたのだろうと、呆然とした。
そのとき彼は、彼が苦しみを感じていないことに気がついた。
そこには、呆然とする彼だけがいた。
足りなかったのは、心の底からの絶望だったのだと、僧侶は悟った。
若干シリアスな感じで書いてみました。
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