第四話 夏は来ぬ・前編
第四話主要登場人物
・関本来夏
クリスのクラスメート。日英のハーフ。
容姿端麗な特待生で、クラス中が一目置く存在。
他の部活の助っ人をよく頼まれる。
・秋元真央
一年生。サッカー部のマネージャー。
日仏のクォーターで、祖父がフランス人。
明るく屈託のない性格だが、病を患っている。
・アニエス・ゾラ…フランス人。真央のいとこ。二十台半ばの女性。
・大河内孝則…サッカー部主将。寡黙な少年。2年B組の生徒。
一歩足を運ぶごとに視界が揺れる。
思わず大きく息を吐けば、その音を聞き漏らすことなく、従姉は素早く振り返る。哀れな未亡人の瞳に、もう既に悲しみと影で満たされたアーモンド型の琥珀の器に、新たな不安が注がれるのを見るとき、少年は、これ以上なく苦しく悲しくて、胸も張り裂けそうになるのであった。しかし、決して心を潮風に晒してはいけない。頭上の空と足下の海は快活を示して青く、目的の城は、雲に代わってあんなにも白いのだから。
「マオ」
未亡人の荒れた唇が、少年の名前を継ぐ。
「だいじょぶ?少し、休む?」
「ううん、平気。どうせ後二十分も歩けば着くから。それくらい大丈夫だよ」
「ごめんなさい。私、調べなかったから、バス、ちゃんと……」
「アニエス姉さんは悪くないよ。それに、僕、バスだとすぐに酔っちゃうし。入学式の時も酔っちゃったんだ。ここは景色も良いから、歩いてる方が気持ちいいよ」
未亡人は腑に落ちない顔に益々後悔と憐憫の色を強めたが、マオこと秋元真央は、笑顔と小さな手で、従姉の苦痛を押しのけた。骨に雪を纏ったような未亡人アニエスの手は、少年の優しさによって温められた。西洋の未亡人は、零れかけた涙を静かにしまいこむと、再びゆっくりとした足取りで進み始めた。傷ついたこの白い鳥を、誰か救ってはくれまいか――真央は自身の痛みも忘れて願うのだった。
真央はアスファルトのグレイから顔を上げる。きっと頭上の城に、懐かしの学園に、手を差し伸べてくれる人がいるはずだ。もがれた羽を寄せ集めて寄り添う、声なき二羽の小鳥たちに。
希望が真央を強く立たせた。
***
「ラーイ、全く朝から羨ましいな!」
「……落合、全く朝から気色悪いぞ」
満面の笑みを浮かべ、軽やかな足取りで席に向かってきた落合に、来夏が挨拶代わりに投げつけたのがこの言葉だった。もちろん、笑みは、落合の整った顔のパーツの配置を、決して崩してはいないのだが。この笑顔が今まで何を運んできたかをよく覚えているから、来夏の口もつい冷淡になるのであろう。落合も慣れて気にせず続ける。
「今日は大河内からお声がかかったぞ。これだから優等生は。やっぱモテるよなぁ。俺も少しは真面目に勉強するか」
「……要するに、サッカー部から助っ人の依頼が来たってことでいいんだな?」
「分かってるならわざわざ興ざめた言い方するなって。つまんねぇな」
「お前の言い方だと紛らわしいだけだろうが」
来夏は頭の後ろで手を組んだ。頭脳明晰、運動神経抜群、容姿端麗の三つを揃えるこの特待生にとって、今のような依頼は決して珍しくはない。寧ろ多すぎて困り果てているほどだ。彼にも一応弓道部がある。正式に所属している部活動を、疎かにする訳にもいかないからだ。大河内とは、隣のクラスのサッカー部部長だが、過去に一度だけ助っ人を頼まれたことがある。その時は、確かD組レギュラー室井が、いじめた鶏に報復されて全治二週間の怪我をしたのが原因であったはずだが……
「今度はひよこだって」
隣の菜月が本を閉じて言った。何故こちらの考えていたことが分かったのだろうか。まあ、彼なら隠れた超能力でも持っていてもおかしくはない。
「はあっ?ひよこ?」
「そう。ひよこの前で目玉焼き作ったんだって。そしたら、ひよこの大群が追っかけてきて、逃げてるときに足骨折」
「随分鳥に縁の深いやつだな……」
菜月は特に感想は述べず、読みかけの本を抱えたまま教室を出て行った。その後ろ姿を見送って、落合が来夏の耳元で囁く。
「あいつ、最近元気ないよな?」
「そうか?」
来夏は分からないとばかりに肩を竦めた。事実、来夏は何も知らなかった。菜月が胸に秘めた恋慕と、それ故に起こる焦燥と苦しみと葛藤を。
菜月と入れ替わりに、クリスが息を切らして教室に飛び込んできた。寝坊したかどうにかして、慌てて駆けてきたのだろう。ふと時計を見ると、もう時刻は授業の始まる五分前に差し掛かっていた。一時間目は英語で、教室移動がある。そろそろ行かなければ遅刻してしまう。来夏は荷物をまとめて立ち上がり、落合に手を振ると、クリスの元へ寄った。
「おい、石崎」
「あっ、おはよう、関本」
クリスは真っ赤にした顔を上げた。よっぽど急いだのか、金色の前髪が大分乱れている。来夏は手を伸ばしてそれを整えてやった。クリスは気付いて、自分でも慌てて髪に手を宛がうが、それ以上手直しする必要もなく、来夏に腕を止められた。
「あっ、ありがと」
「どういたしまして。それより、早くいかねぇと遅刻するぞ。ジャクソン先生には何されるか分からねぇからな」
「確かに……うん、行こう」
二人は小走りで二階のLL教室へと向かって行った。落合は机で頬杖を付きながら、「つまんねぇな」と愚痴を零す。取り合ってくれる者は一人もいない。かのように見えた。
「つまんねぇなんてことはないわよ、落合。あんた、夏休みの宿題の英語のレポート、出してないじゃない」
落合は表情を強張らせた。恐る恐る教卓の方を望めば、教材でいっぱいのバッグを胸に抱え、今日も朝から意欲に燃えた鳥居先生、落合の呼ぶところのみちるちゃんが立っていた。別の手には採点し終えたらしいレポートの束も持っている。
「なんで、俺は……!」
落合は頭を抱えて悶えた。全くついていない。
クリス、来夏、菜月、落合の四人が、それぞれ別々の思いを胸に再会したのは、二時間目の体育の時間であった。体育教師で生活指導部――即ち落合の天敵――の森先生は、訊いてもいない愛娘の近況を、髭面を蕩けさせ、十五分ばかりかけて報せてくれた後、やっと本題に移った。今回も前回に続いて走り高跳びだ。クリスは特にどうとも思わなかった。運動は苦手な訳ではない。もしかしたら、少し得意な部類に入るかもしれなかった。だが、例によって例の如く、来夏が一番を浚っていった。来夏は学年トップの成績を叩き出した後、馬が脚をならすかのように、軽々と横たわる棒の上を飛び越えていった。
「さすが、ライ」
言う落合も大差はない。現在のところ、学年四位の記録を出していた。
「さっ、俺もそろそろ本気出すかな」
「皆さん、すごいですね」
背後で言われて振り返ってみれば、ノアが空の鳥かごを手に微笑んでいた。ノアの成績は、残念ながら芳しいとはいえなかったが、本人はまるで気にしている様子がない。
「有瀬はもう跳ばないの?」
クリスの問いにノアは微笑んだまま頷いた。
「えぇ。僕はもう十分ですから」
その時、二人の視線は同時に同じ方向へと移動した。中庭から此方へやってくる二人の人間の姿がある。先頭を歩くのは背の高い女性で、遠目にも西洋人であることが分かった。黄褐色の巻き毛を胸元まで垂らし、肌は透けるように白く、いっそ不健康に見えるほどであった。萌黄色のショールに骨ばった肩と肘の線が浮き出て見え、白い薄い生地のワンピースの裾からは、黒いエナメルの靴で包まれた足が見え隠れしている。女性は喪に服す人のように地ばかりを見つめて進んでいたが、時折ふと後ろを向き、自分の足跡を辿る小柄な少年に気を遣っていた。栗色の丸い頭をしたその少年はかなり幼く見えた。三宿学園高等部の制服を着ていなければ、生徒の弟か、中等部の生徒かと見間違えただろう。女性の影を照らすよう、少年のエメラルドの光線はまっすぐで明るく、頼もしかった。女性が不安げにか細い手を差し伸べれば、少年はそれを強く握ってやっていた。一つの絵になりそうな光景だ。
「綺麗な女性だなぁ」
クリスは女性の美しさに感心して言った。
「小鳥は迷い込む。籠の中、密室にして永遠の迷宮へ」
クリスの目に当てられない内に、ノアの顔からは笑みが消え去っていた。ノアは呟いたきり小さな唇を噤み、鉄製の鳥籠の扉の開け閉めを幾度も繰り返した。授業終了の鐘が鳴る頃、そして来夏が一層高くひらりと飛び上がったその瞬間、女性を慰める少年の双眸がこちらを向いたことに、来夏は気付かなかった。
***
「秋元真央?」
屋上のカフェテリアは、一般に余りその存在を知られていない。役員以外の生徒に使用する機会はなかったし、野次馬のいない方が役員たちも都合が良かった。望めるものは只空と塔のみ。西を見下ろせば、果てのない海が続いている。床は白、丸テーブルとそれを囲む五つの椅子も白であった。テーブルの中央を鉄の棒が刺し貫き、その頂で風見鶏は暇を持て余している。颯がつと伸べた資料を、コーヒーカップを持っていない方の手で受け取りながら、慎は真っ先に目についた文字を読み上げた。
「そう。今流行りの天才少年歌手。体が弱いらしくて、七月からフランスに静養に行ってたんだけど、今日学園に戻ってきたみたいだよ。祖父がフランス人のようだね」
「フン、どいつもこいつも天才少年ばかりだな。この間の天才少年画家と云い」
「そういう慎もね」
颯は空になったカップを満たして言った。慎はそれきり興味なさそうに資料を押しやると、向かいの席でコーラを嗜む陽を睥睨の対象に置いた。先ほどからこうして予算案の提出を促しているが、陽は予算案のよの字ですら思い出さないらしい。只、氷が少ないのだけを恨めしそうに、暢気にグラスの中をストローで掻き回している。彼の隣の席には珍しく誰もいない。慎はどちらを呟こうかと迷って、胸に膨らみつつある苛立ちより、思考の管に引っかかる小さな疑問の方を選んだ。
「おい、川崎、てめぇの相棒はどうした?」
「知らね」
尋ねられても、陽はストローを回す手を止めようともしない。慎の額に浮かんだ青筋に気付いた颯は、コーヒーカップに角砂糖を急いで二つほど加えて代わりに答えた。
「秋元真央の従姉と話をしにいったみたいだよ。若手フランス人ピアニストのアニエス・ゾラ。昔はソロ活動も行ってたけど、今は秋元真央の伴奏者としてしか舞台に立ってない。婚約者を交通事故で失って以来だ。茘枝とは、婚約者を失くす五ヶ月前に共演してるね」
「なるほど、客に相方を取られて拗ねてやがるのか」
「バーカ言え。そんなんで一々やってられるかよ」
「油断禁物だよ、陽。アニエス・ゾラってものすごい美人なんだから。それに、茘枝、今度二人で一緒に食事するって言ってたし」
「はっ?」
思わず顔を上げたのが運の尽き。慎に返された資料を胸に抱え、微笑む颯の口元に、勝利が燦然と輝いていた。凪ぎの下にも風見鶏ははためく。
「校長とアニエス・ゾラが」
***
放課後の校庭に見渡せば、すぐに大河内隆則の姿を見つけることが出来た。色黒の背の高い寡黙な少年は、トラックの周りを走りこむ部員たちを見つめながら、思慮深げな黒い瞳を据えていた。来夏が手を振って駆け寄ると、彼は視界の中に来夏を認めた印に組んでいた腕を解いた。「悪いな」と呟く口に歓迎の微笑はなくとも、その行動は十分誠意と感謝に溢れていた。
「いや、俺の方こそ足引っ張るかもしれない。何せ久しぶりだからさ」
来夏は笑って言ったが、大河内は真面目な顔で首を振った。
「今更謙遜しないでくれ。俺も部員たちも、お前のことは信用しきっている。室井に代わるのはお前ぐらいしかいない……あいつの行動は確かに幼稚だが、腕は確かだからな」
「あぁ……で、ひよこに襲われたっていうのは本当なのか?」
その時初めて大河内は口の端を緩めた。微笑と云うよりは苦笑であったが、室井の「幼稚」な「行動」を滑稽に思う心と同情は汲んでとれた。結局、大河内はそうだとも違うとも言わないまま笑みを振り払い、真顔に戻って言った。
「今度の試合はどうしても負けられない」
来夏は了解したの意で大きく頷いた。お互いへの信頼と尊敬に満ちた握手が交わされた。
来夏の運動能力、そして適応能力と、部員たちの協力のおかげで、練習はスムーズに進んだ。ボールで繋がれた皆の顔は、興奮でいつになくきらきらと輝いていた。大河内は無言の内に満足を示したし、松葉杖に縋って見学にきた室井も、来夏にブラボーと拍手を送った。しかし、誰よりも一層強い憧れの眼差しで彼を見つめたのは、スポーツ飲料を冷やしていたマネージャーの少年だった。彼こそが、昼休みの生徒会役員たちの話題になり、その従姉が陽を翻弄させた、秋元真央であった。真央のマネージャー復帰を、大河内含む部員たちは大層喜んでくれたが、どちらかというと来夏の登場のインパクトに掻き消されがちだった。それでも真央は一向に気にしなかった。彼の心もまた、すっかり来夏に捕らわれていたのだから。
「お疲れ様です!」
礼儀と並々ならぬ憧れが、真央を真っ先に休憩中の来夏の元へ駆け寄らせた。来夏は、見知らぬ少年の大きく煌く目に少し驚いた様子だったが、礼を言って飲み物を受け取った。
「僕、ずっと見てました。走り高跳びの時も。先輩って本当にすごいですね」
真央は弾む胸をおさえきれずに言った。真央には、目の前に立つその人こそ、自分が学園に求めた救い主だとしか思えなかった。もちろん、彼が実際に何かしてくれることを期待した訳ではない。そんなことは、誰よりも高く跳び、誰よりも多くゴールを決めるということだけでは、到底望め得るものではなかった。ただ、彼が憧れの人として、自分の心を照らしてくれるであろう未来を予感したのである。風にそよぐブラウンの髪、すらりと通った鼻を軸に配置された、綺麗な眉と緑の瞳、薄い引き締まった唇、鹿のように長い四肢――全てが真央の光だった。彼の憧憬を一身に浴びながら、来夏は愛想よく笑う。
「サンキュ。まあ、俺の本命は弓道だから、素直に喜んでいいものかは分からねぇけど」
「へぇ、弓道も出来るんですか」
真央がエメラルドグリーンの目を瞬かせたその時、ぜいぜいと息を吐いていた群れの一人から声がかかった。
「おーい、秋元、復帰したばかりだからって甘目に見ると思うなよ!早く飲み物くれねぇと死にそうだ!」
「あっ、はーい!」
真央は慌てて冷えたペットボトルをかき集め始める。傍で靴を履き直していた大河内が、叫び声を聞いて眉を潜めたのを、来夏は見逃さなかった。来夏に見られたことに気付いた大河内は、あまり気乗りがしなさそうに、彼にはやっとの大声で嗜めた。
「武田、秋元をこき使うんじゃない……まだ病みやがりだ」
「はいはい、分かってるってば、部長」
「そんな、大丈夫ですってば!」
真央は健康そうな笑顔満面で言った。彼に病の気配など影ほども見られない。一体どういうことなのだろうか。来夏が視線でしつこく理由を尋ね続けると、大河内もついに無視する訳にはいかなくなり、渋々来夏の元へ歩み寄ってきた。何かをやりたがらなさそうにする大河内は、去年の地区大会優勝記念パーティで女装させられかけている時以来拝んでいない。セーラー服から必死で逃げ惑っている(といっても、彼らしく無言で)大河内を思い浮かべ、思わずくすりとしている来夏の耳元で、笑われている本人は知らずに囁いた。
「秋元真央だ。天才少年歌手の。知ってるか?」
「名前だけなら。それに、そういう奴が学園にいることは聞いてたが。本当に?」
来夏の顔からは笑いが拭い去られていた。大河内は既知をほんの少しの自慢に頷いた。
「いつからマネージャーだった?」
「今年の四月からだ。だが、関本が前回手伝いに来たときにはいなかった……静養中だった。持病で喉を患っている」
「喉を?歌手なのに?」
「……それが哀れなんだ」
大河内はやや腹立たしげに呟いた。彼の双子の黒曜石には、ペットボトルを配る真央がちらちらと映り込んでいた。来夏は、彼が語りたがらなかった理由を悟って合点した。秋元真央の病は秘密にするべきような話題でもないのに、来夏には秘匿したがった、その理由――真央が来夏に異常なほどの尊敬を示すから。大河内は密かに真央を想っているから。
来夏は大河内の肩をぽんと叩いた。それが慰めになるかは分からなかったが、彼の味方であることだけは伝えておきたかった。まさか来夏は、親愛込めた自分のこの行動を、後に悔やむことになろうとは、思いもしなかったのである。
花木先生を訪ねたのはやはり失敗だったか。美術室から転がり出てきたときのクリスは、麻酔をかけられたようにぼんやりした頭で悔やんでいた。花木先生ならば、例の絵のことを知っているのではないかと思ったのだ。美術室へは以前授業で来たことがあるので、そこに志水晶の作品は無いことは既に確認済みだった。もしかしたら、貴重な絵なので、どこか他のところに飾られているのかもしれない。自分贔屓の花木先生だったら教えてくれるかも――こう思い立ってから一週間、やっと来られたは良いが、花木先生の口から飛び出す言葉の群れに圧倒されて、クリスは撤退せざるを得なかった。花木先生は様々な画家について批評したが、その中の一人の名前すら、クリスは思い出すことができなかった。結局何も訊けなかった失望感が、クリスの記憶力を弱体化させていた。絵なんてやはりないのではないか。疑惑が胸に黒い影を差す。クリスは頭を振った。それでも諦めきれない。画家として、志水晶を心から尊敬する者として――その敬愛の念は、最早ダンテにとってウェルギリウスの如く――「絵」という次元で完成されたその作品を、捜し求め続けなくてはならない。そんなものは無いのだと、目の前ではっきりと証明されるまで。
強く燃え立つクリスの目は、同様に煌く日の光に惹かれ、ふと窓の外を向いた。校庭でサッカー部が活動しているのが見える。来夏もいた。クリスが見ている間に、来夏は華麗なシュートを二本ほど決めた。図書館に行こうと思っていたが、外に出て直接来夏の勇姿を拝むのも悪くないかもしれない。ぽつりと沸いてきたアイディアは、勝手に足を動かしていた。三分後には、クリスは林檎の木に寄りかかり、ボールの蹴られる鈍い音も、騒がしい歓声も、舞い上がった砂のぱらぱらと落ちる音も、直接その耳に聞いていた。
「ここの生徒たちは本当に元気いっぱいですこと」
クリスから少し離れた場所で、会話が起こった。覗いてみると、西洋人女性と校長とが、二人にこやかに並んでサッカー部の走り回る様を眺めている。体育の時間に見かけた、あの美しい女性だ。女性は少しアクセントの違う英語を話していたが、それがまた、女性の罪のない艶やかさを、一層煽り立てているのであった。
「そうですねぇ。いや、全く若いというのは良いものです。僕も遂先日まで、あの子たちと同じ年頃の少年だったのですがね……おや、失礼。うら若きご婦人にはまだ随分先の話でした」
「いいえ。きっと私もすぐにおばさんになってしまいますわ」
対する校長の日本語にも、女性は慎ましく笑ってみせた。
校長がクリスに気が付いた。目を逸らそうにももう遅く、風間校長は「おやっ」と声を上げると、親しげな態度でクリスの方へ歩み寄ってきた。
「こんにちは石崎君。良い天気ですね。お散歩ですか?」
「あの、そういう訳じゃないんですけど……」
クリスはもごもごと答えた。校長は快活で品のある笑い声を立てた。
「まあ、これ以上は訊くのをよしましょう。青春真っ盛りの少年には、追求されたくない問題もいろいろあるでしょうからね。いえ、石崎君が疚しいことしていると言っているのではありませんよ。ただ、いちいち行動の意味を問われるのにはうんざりするのではと思いましてね。最も、君がまたあの塔に勝手にのぼろうと企んでいるのなら、僕はそれをとめなければなりませんが。どうですか、石崎君?」
「えっと、そういうことはないと思います……」
「そうですか。ならばよろしい」
今や女性も、萌黄色のショールをしっかりと肩に纏いながら、アーモンド型をした琥珀色の目で、遠慮なくクリスの顔を射抜いていた。思わず頬が赤くなる。校長は女性に向き合って優雅に踵を回した。
「紹介します。石崎・エーリアル・クリス君です。彼は……」
校長が続ける前に女性は首を縦に振った。
「えぇ、もちろん存じておりますわ。あの天才少年画家の。私の家にも一つ彼の絵がありますのよ。フランスの方の家ですけれど」
「おや、そうでしたか。それは光栄なことですねぇ。そう思いませんか、石崎君?」
「はい、ありがとうございます!」
クリスは明るく言って頭を下げた。喜びが頬に更なる熱を集めている。女性は目を細めて、彼の肩に手を伸ばし、昇らせた頤に儚げな指を添えた。見返す二つのサファイアの無邪気さに、女性はくすりと笑みを漏らして手を離した。それら一連の行動からは、謙虚な慈愛が見出された。彼女の愛は、クリス自ら燃え盛る炎の中に置いてしまった、母の愛だった。忘却の彼方で疼く何かを感じたが、校長が咳を払うと、その何かは再び眠りに帰ってしまった。
「さて、では、石崎君にこちらの方を紹介いたしましょう。こちらはアニエス・ゾラさん……」
「有名ピアニストの?」
名を聞くなり条件反射のように尋ねたクリスに、校長と女性は驚いたように視線を交わし、二人揃ってくすくすと笑った。
「いや、全く、これじゃあ僕はまるで役立たずではありませんか。石崎君が音楽も嗜むとは、知りませんでしたよ」
「あっ、いえ、エマ叔母さんがよくゾラさんのCDを聴いてたんです。俺も傍で一緒に聴いてましたから」
「まあ。ありがとう」
アニエスは笑みを口に留めたまま、訛のある英語ではっきりと言った。
「それはよかった。これでお互いが何かを知らなくて、気まずい思いをすることもなくなりましたね。では……」
演説の途中で校長は黒々とした眉を潜めた。クリスもその瞬間に、野太い男たちの「校長―!」との悲痛な呼び声を聞いた気がした。
「こほん。では、僕はそろそろ失礼します。ああ、ゾラさん、今夜は約束どおり七時半にお会いしましょう。素敵なワインを注文しておきましたから。それでは」
言い終わった途端、校長は放たれた矢のように走り出し、奇術師のように、瞬く間に姿を眩ましてしまった。アニエスは不思議そうに大きな目を何度もぱちくりした。クリスはこの数日で大分慣れっこになっていたが、あの堅苦しい服装でどうしたらあんなにも速く走れるのかは、さっぱり分からなかった。恐らく、三宿学園七不思議の一つにでも収まっているのではないだろうか。
クリスはアニエスを間近で見直した。今朝発見したとおりだ。彼女の横顔は、深い彫りの中に、琥珀色の目の中に、相変わらず苦悶と悲しみの影を湛えている。彼女が婚約者を亡くしたのはクリスも知っていた。ショックの余り彼女は活動休止を宣言し、エマ叔母さんが大騒ぎしていたからだ。しかし――クリスは、アニエスが先ほどから何度も腹の上に手を充てていることに気がついていた。ただの意味のない行動とは思えない。一体彼女の身に何があったのだろうか。
「石崎君」
「はい」
今度はクリスも英語だった。
「私はね、従弟の付き添いでこの学園に来たの。従弟は生まれつき体が悪くて。それでもとっても明るくて優しい子なのよ。私とは7つも齢が離れているけど、まるで本当の姉弟のようにして育ったわ。私たちの祖父は、心から音楽を愛する人だった。だから、私にはピアノを、従弟には声楽を教えた。私がピアノを弾き、従弟が歌を歌った。従弟はとても歌が上手くて、忽ち評判になった。でも、あの子が十の時に喉に腫瘍が見つかったの。それは、彼が持って生まれたもので、齢を重ねるにつれて次第に大きくなっていった。手術をしたけど大した効き目はなかった。いつか腫瘍は従弟の……マオの喉を覆い尽くしてしまう。いつかマオは大好きな歌が歌えなくなる……私は非常に衝撃を受けたわ。でもね、マオはそう宣告されても変わらずに笑っていたの。胸の中は不安でいっぱいなくせに。私たちを心配させまいとして。本当に優しい子なのよ。それでね……そう。そうなのだけれど……ごめんなさい、私、何を言いたいんだか分からなくなってしまったわ。これじゃあ、ただの従弟自慢ね。ただのお涙頂戴話ね。貴方には関係なかったわ。ごめんなさい。ただ、何となく話したくなっただけなの……」
アニエスの視線に倣えば、その先には彼女の後ろをついて歩いていた栗毛の少年の姿があった。彼は両腕いっぱいにペットボトルを抱え、サッカー部の動きにいちいち飛び跳ねている。彼が、彼女の云う「マオ」なのだろう。アニエスの言った通りだ。彼は傍目で見ている限り、健康な一人の少年にしか見えなかった。視界の端で、アニエスの頬が塩辛く濡れていた。溜まらずにクリスは言った。
「いいんです。話したいなら続けてください。聞きますから」
突然、アニエスははっと息を呑み、怯えたように琥珀を震わせた。彼女は胸元に右手を宛がってショールを手繰り寄せ、左手を腹部に宛て、クリスから逃れるように後ずさりして見せた。驚き、戸惑うクリスを前に、アニエスは大粒の涙を落としながら、小声で何度も自分に言い聞かせていた。何を言っているかは分からなかった。フランス語で呟いていたので。
「アニエスさん……?」
「違うの……なんでもないの……ごめんなさい。どうも調子が悪いのよ。ねぇ、どこかに休める場所はある?そこまで行くのに、肩を貸してくれない?」
その言葉を聞くなり、クリスはすぐさまアニエスの横に立ち、彼女の重みと疲労と苦悩とを半分預かった。アニエスは笑った。暗闇の中で光を求め続けてきた人が、遠くにほんの点ばかりの灯りを見つけた時に浮かべるのと、全く同じ笑い方で。
ふと触れたアニエスの腹は、小さく躍動していた。
***
「先輩、待ってくださーい!」
東に向かって伸びた影が、下校時刻を知らせている。後ろから駆けてくる足音の主は、わざわざ確認せずとも分かった。飛び跳ねて、来夏の隣に並んだ影。見下ろせば、来夏の肩とほぼ同じ高さの場所に、もう見慣れてしまった秋元真央の人懐っこい笑顔があった。
「先輩、一緒に帰ってもいいですか?」
真央の息は小犬のように弾んでいる。来夏は胸中溜息を吐いた。断りたくても断れるはずがない。彼を心から嫌悪していない限りは。
「別に構わねぇけど」
来夏が、前を歩く人への罪悪感から、素っ気無く言うと、真央は所々に丸みを帯びた顔面を、これ以上ないというくらいの感激で満たした。
「本当ですか?よかった!僕、憧れの先輩と一緒に帰ってみたいなって、ずっと思ってたんです」
来夏の頭の中で、小さく警鐘が叩かれる。
「憧れの先輩だと認定するのはまだ早いだろ。会って一日も経ってないんだし」
「いいえ、そんなことありません。だってすぐに分かりましたもん。先輩こそ、僕の憧れになる人だって。それこそ、見た瞬間に」
「感覚ほど当てにならないものはないぞ。あまり過信するな。特に人間関係ではな」
「いいんです!先輩がどんなに否定したって、僕は信じ続けますから。ちゃんと聞こえたんです。先輩を初めて見た瞬間に、自分の声が。例え、この後先輩が僕を貶めたり、酷い目に遭わせたりしても、それでも僕はあの時聞こえた自分の声を疑ったりしません。先輩がやめてくれって頼んだって、僕は先輩のこと尊敬し続けますよ」
大河内の背中ばかりに注意していた来夏は、突然胸に押し寄せてきた、酸っぱいんだか甘いんだか苦いんだか、まるで判別のつかない気持ちに促され、衝動的に真央を見た。真央は真面目そのものだった。どこの三文小説から引用したか分からない今の台詞も、この少年に於いては、嘲りもふざけも恥じもない舌に乗せられて紡がれるのである。来夏は呆れそうになり、怒りたくもなったが、前を見ると誰もいなくなっていたので、結局笑った。真央はきょとんとして来夏を見返した。何がおかしいのかさっぱり分からないといった表情だ。しかし、来夏に説明するゆとりはなかった。最早来夏は笑いに取り憑かれ、他のことは何も考えられなくなっていた。
「変な奴だな」
ようやく来夏は言った。
「変な奴なんかじゃありませんよ。そう言って僕を怒らせるつもりなんですね?その手には……」
「違う。気に入ったって意味だ」
「えっ?」
真央はその場に立ち止まった。来夏は彼を待とうとはしなかった。再び緩みかけた口元を、見られたくはなかったからである。それでも堪えきれずに漏らした笑声がばれぬよう、来夏は慌てて口を開き、声にそれを紛らわせた。
「ほら、置いてくぞ」
「あっ、待ってくださいよ、先輩!」
「ただの先輩じゃない。『来夏』先輩だ」
「へぇ、先輩の名前来夏っていうんですね。どういう字ですか?」
「来る夏で来夏。まっ、夏が来るって言った方が良いかもな」
真央の笑顔が凍りついた。