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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
番外編 桜のない花物語
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百合

 またCDプレイヤーの前に立った私に、ソファに寝転がっていた旦那が呆れた顔をする。もう旦那は聞かなくなっている。「何回そのCD聴いてるんだ?」と。

 今まで音楽なんてまるで興味がなかった。流行りのポップスも喫茶店のジャズも、生徒たちの演奏も、何もかも聞き流してきたのに。あの人がいなくなってから私の中には音楽しかなくなってしまった。あの人のピアノが、私の中に注ぎこまれてはまた溢れだす。アニエス、私は――どうもおかしくなってしまったのね。

 男が男を愛する現場なら職場で何度も目にしてきたけど、まさか私も同性を愛せるなんて知らなかった。狂わされてしまった……そんな風に感じられる。あの人のショパンが流れる度に、私の耳は酔いながら、心臓に焼かれるような痛みを感じている。忘れたい。あの人はもう去ってしまった。私も元の世界に戻りたい。旦那だけが愛すべき人だった、平和で優しい日常に。

 出かける時はいつもあの帽子を被っている。あの帽子に合う服が私の衣装箪笥にはなくて、七着も新しい服を買う羽目になったけど。それでも、家には置いておけない。あの人がいたという確かな証拠が、あの人が私に何かを遺したという証拠がなくては、私はやっていけない。しかし、その証拠でさえも私の心を満たしてはくれない。私はその鍔に触れる度に、ますますやり切れない気になっていく。あの人はきっと忙しくしているのだろう。従弟の病状に一喜一憂して、昼も夜も従弟の病気のために祈り続けている。それなのに、私の胸にはあの人しかいない。恋は麻薬だと、誰かが言った。平凡な女として普通の恋をしてきた私にとって、密やかな、そして不倫の背徳性すら帯びているその恋は、あまりにも苦しい。

 夜になると、私の憂鬱は鎌首をもたげて、私の中をかき乱し始める。私は誰ともつかぬ神に祈る。神様、お願い、どうにかしてくれないと私はきっと死んでしまいます、と。しかし、事態は一向に変わらないし、私は生き続けている。あの人の夢を見た後で目が覚めた朝は、何事もなかったかのように朝食をとって化粧をし、出勤している。旦那にもいつも通りに接することができる。ただ、その間、アニエスのCDを狂ったようにかけ続けているだけ。

 そう、実際私の世界は何も変わっていないのだ。変わったのは私だけなのだ。血も流さず、表面にも現れず、疼くだけのこの傷だけが、私の中に残された。私は医者に症状を訴えることができない。私は独りになった時しか悩むことができない。世間という光に照らされている時の私と、アニエスへの想いに悩み続ける私は確実に分離していく。いつか二人が別れる日もくるかしら、と同僚たちと談笑しながら、私は軽い気持ちで考える時もある。いっそ死んでしまおうか。どうせ誰にも理解されやしないのだから。玉ねぎを切り刻みながら一人思っても、私は包丁を手首にあてることしかできない。旦那が帰ってくると、私の顔はひとりでに笑顔になっている。この人を捨てていくことなどできない。私が死んだら、この人は、きっと生きていけなくなる。私には、結局生きるしか道はない。私はアニエス以外の人を愛しすぎた。

 何も捨てられない自分が嫌で、少し小石でも投げ落せば状況が変わるのではないかと思って、あの人にメールをした日もあった。どきどきしながら待ち焦がれても、返ってくるのは期待外れな、いつも通りの文章。電話をしてみても結果はやはり同じだった。ああ、やはり。世界を変えるには私の想いを告げるしかない。でも、そんなことをすれば私とあの人との友情は終わってしまうだろう。あの人とのつながりを失うことが私にとっては一番辛い。変わらない。変えられない。私は臆病で、卑劣な人間なのだ。想いを隠してあの人の友人面をすることがどんなに卑怯なことか分かっているのに。友情を装ってあの人を抱きしめた、あの日の私の醜さを私ははっきりと覚えているのに。


「お辛いですか?」

「えっ?」

 ある日、擦れ違い様に言われた。尋ねたのは千住薫だった。立ち止まって振り返ると、彼は長身を翻して、さびしげな微笑みを浮かべた。

「アニエスがいなくなって。先生は彼女の親友でいらしたから」

私の思考は濁る。この人に何が分かると言うのだ。アニエスを堂々と想いを告げることができたこの人に。男であるこの人に。一瞬、私は独りでいるときの私になった。千住薫の表情が変わったのでそれが分かった。彼は思わぬ襲撃に驚いたような、そんな顔になった。投げつけたい呪いの言葉を胸にしまって、黙って会釈をすると、私はさっさとその場を逃げ出した。貴方には分からない。貴方には、絶対に絶対に、私の虚しさも苦しさも分からない――


 膝をついたのは家に帰ってからだった。最後にアニエスがくれた別れのキスを、私は思い出して泣く。泣きながら、私は、二人の友情を想って憎む。だって、貴女の結婚式の招待状なんて届いた日には、私はどうすればいいの?

私にはもうどうにもできない。気づいた時、進みたかった道はとうに塞がれていた。私とはあの人と出会う前と同じ道を辿り続ける。ただ、その道には音楽が鳴り続けている。そしてそれは、一生鳴り止まないのだろう。独りになり、周りの雑踏が消えてしまうと、その音楽は益々はっきりと聞こえるようになる。貴女の奏でる調べ、美しきピアノの旋律。貴女のショパン。


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