紅葉
少し首を傾げた後で、真央はシャーペンを持つ手を動かす。書き出されたばかりのその答案に思わず溜息を吐くと、真央は大きな目を上げて、今にも泣きそうな表情をしてみせた。
「えー、違うんですかー」
「全然違う」
図書室内の会話のせいで、二人とも小声である。真央の声は、これ以上ボリュームを上げると司書がすっ飛んで来るという限度だっただろう。日に溶かされる雪だるまのように、真央の肩も机の上に崩れ落ちていく。
「絶対あってると思ったのに……」
「お前な、disturbって意味分かってるか?」
「……分からないです」
「……バカ」
来夏は立ちあがった。この静まりかえった空気の中でこそこそ話しながら指導するのは無理がある。来夏が口出ししなくていいのなら、まだ何とかなるのだが。今日は菜月も落合も剣道部の練習があったはずだから、寮の部屋も静かだ。来夏は手だけでついてこいと合図すると、慌てて勉強道具を片す真央を置いてそそくさと図書室を出た。扉の前で待っていると、誰かがこけて鞄の中がひっくりかえるすさまじい音がした。よれよれの姿で図書館から出てきた真央は、半泣きだった。
「し、司書さんが、す、す、すごい怖い顔で睨んで……わ、わざとやったんじゃないのに……」
「……まあ、そうだな」
来夏は真央の腕の中にごちゃごちゃしているテキストを少し引き受けてやって、歩き始めた。真央がとことことその後を追う。その足音を聞いていると心が安らぐ。安堵が胸いっぱいに広がって、綿のようにぎすぎすした心を懐柔する。それ以外にも認めざるを得ないことはある。真央の予想できない行動に驚き呆れれば呆れるほど、愛おしく感じている自分がいること。ほんのふとした、何でもない瞬間に、真央の手をとりたい自分がいること。この時もまさにそうだった。
「来夏先輩って歩くの速いですね」
真央が少し息を切らして言う。
「そうか?」
「そうですよ……って、更に速くしないでください!僕、走らなきゃいけなくなるじゃないですか!」
「あー、はいはい、分かった分かった」
歩調を緩めると、ようやく真央も追いついてきて、その隣に並ぶ。ああ、これが嫌で速足になっていたのだ自分は。テキストに塞がれている真央の手を、奪い取りたくて仕方がなくなってしまったではないか。
「先輩、ところでどこに向かっているんですか?」
無邪気な真央が尋ねる。
「俺の部屋だ。今日は誰もいないから、静かに勉強できるしな……落合と酒本がいると騒がしいったらありゃしない」
「えー、まだ勉強するんですかー。それより外をお散歩しましょうよ」
「何言ってんだ。勉強見てほしいって言ってるから見てやってるんだろ」
「でも、ほら。落ち葉が降り積もってすごく綺麗なんですよ、中庭」
真央が顎で示した通りに見ると、なるほど。確かに紅葉に彩られた中庭は圧巻である。学園自体が外界から隔たれた閉鎖的な空間であるせいか、混みごみしてるだけの観光名所よりも、よっぽど風情があって、美しく、人に恍惚とする余裕を与える。その壮麗な景色を見つめているうちに、何だか紅葉に酔わされているような気がして、来夏は目を背けた。それでも心は、今年の葉の最後の息吹から離れることはできなかった。
「ねぇ、行きましょう?」
極めつけがこれだった。真央の笑顔を見た瞬間、来夏の口は勝手に、
「ああ」
と返事をしていた。返事をした後で、来夏は自分の首を絞めてやりたい気になりながら、飛び上がる真央につい苦笑いを零した。
「やったあ!じゃあ、教科書とかロッカーに置いてきますね!」
「綺麗ですね」
子供のようにあどけない表情で真央は言う。しかし、来夏の目も、今時分だけは色とりどりの玻璃の天井に見惚れている。日本の紅葉は世界一美しい――昔、父が自慢げに語っていたのを思い出した。それは決して主観的な、根拠のない話ではなかった。日本には他の国に比べても多くの種類の木々がある。紅葉する落葉広葉樹の種類は日本では26種、ヨーロッパでは13種。日本の紅葉は一色に偏らず様々な色に染まる。ふと、来夏は、クリスの次の画題として紅葉をすすめてみようと思った。クリスの繊細な感性で以ってなら、この紅葉も現実以上に美しく、幻想的になれるに違いないから。それとも勧めるまでもなく、彼はもう筆をとっているだろうか。
「来夏先輩は、何歳からイギリスにいたんですか?」
絢爛な夢の中で真央が尋ねる。
「三歳からだ」
「それで、高校1年生の夏まであっちにいたんですよね?」
「あぁ」
「いいなぁ。僕なんてフランスにいたって言っても、行って帰っての繰り返しですもん」
「お前の両親は今もフランスにいるのか?」
「えぇ。父があっちで建築家をやってて、母も事務所の手伝いを。僕が小学校に入る時に日本に来て、しばらくは日本で活動してたんですけど、お祖父さんの具合が悪くなったから、すぐにまたフランスに住むようになったんです。二人ともいつも忙しくって、だからフランスの家では、アニエス姉さんとか伯父さん夫婦がいつも面倒をみてくれたんです」
「両親があっちにいるのによく日本の学校に来る気になったな」
「父が学園の出身だから、お前も三宿学園に行けってうるさくて。日本とフランスを往復しっぱなしだから、フランス語が全然うまくならないんですよねぇ」
「……英語は?」
「それは、多分才能の問題だと」
秋晴れが零れてくる。紅葉の隙間を縫って、きらきらと。眩しさに思わず目を細めると、何だか不思議な気分になってくる。まるで体に新しい力が降り注いでいるような、そんな気持ちに。
突然、何かが手に触れて、来夏は現実に引き戻された。されど、現実は尚も麗しく。真央が来夏を見上げて照れくさそうに笑う。
「あの……手、つないでもいいですか?」
「あ、あぁ」
ぎゅっと、少しあせばんだ手が来夏の手を握る。光が降り注いでいる。来夏に、真央に、そして繋いだ手の中にも。二人は立ち止まっていた。二人の体が結ばれた瞬間を、謳歌する如く。しかし、握ってしばらくした後で、真央は手を離した。真央はとたとたと走っていき、来夏から数メートル離れたところで足を止めて、じっと顔を俯けていた。
「秋元?」
呼びかける。返事はない。秋風が吹くと、紅葉の幾枚かがさらわれて、真央と来夏の間にはらはらと落ちた。再度呼びかけた途端に不安になったのは、恐ろしくなるほどの妖しい景色の家に、真央が紛れてしまいそうになったからか。
「おい、秋元」
「せ、先輩……っ!」
真央は叫ぶように言って身をくるりと翻した。右手が、まだ先ほど来夏の手を握った左手を抱きしめたままだった。真央の二つの翡翠が、潤んで、揺れて、来夏を映していた。少し離れたところから。真央が薄い唇を虚ろの中に何度か動かす。風と紅葉に紛れて、声は聞こえなかった。
「えっ?」
風がやんだ。飛ばされた葉の一片が、真央の肩に落ちて紅く紅く燃えた。真央が再度繰り返すのを、来夏は立ち尽くして待っていた。だが、真央は葉が落ちて、靴元でかすかな音をたてるのを聞くと、はっとして両手を胸の前からおろし、視線を葉が落ちた辺りにさまよわせた。
「秋元……?」
「……いいえ。なんでもありません」
見上げた顔が、いつもの笑顔を浮かべていた。彼の足元で、揺れる季節の残骸が燻っている。秋。