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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
序章 知らせは誰が元へ
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第三話 菜の花の揺れる頃・後編

 立ち止まったのは、急激に吐き気を催したからだった。落とした膝を抱きとめた草の感覚で、自分が中庭にいるのだとその時初めて気付いた。手をつき、膝をつき、草むらに顔を突き出した瞬間、喉元までこみあげてきたものは、ゆっくりと下っていった。胸がひりひりと痛む。胃がよじれそうだ。涙でぼやけた視界を拭い、林檎の木に背中を預ける。霞んだ意識の中で浮かぶの、悲しみ、怒り、嫉妬、自嘲、諦め――またこういったものの中で幾つかが混じりあったものが、絶えず菜月の心をさいなめ続けた。菜月は途方に暮れていた。どうすればいいのか、これからどうしたいのか、全く分からなかった。ただ、颯を求め、恋い慕う気持ちが、これ以上にないぐらい強まっているのだけは知っていた。傍にいてほしい、また自分に向かって笑ってほしい、手を繋いでほしい、慰めてほしい。一度の正直な言葉で失望するのなら、いっそ百度の嘘の言葉で騙しつくしてほしい。「僕はずっと傍にいるから」、「ずっとナツの味方だから」――例え、この世界全てに嘲笑われたとしても。


 「酒本様?」

 突然、振ってきた声に、菜月はびくりと身を震わせた。振り返って仰げば、何かを包んだ白いハンカチを持った有瀬ノアが、幹から小鳥のような顔をのぞかせていた。

 今、菜月は人生で最も一人でいたい時間であったはずだ。だが、不思議と不快感はしなかった。子供ように無垢な灰色の目でじっとこちらを見つめてくるノアに、何故だか親しみさえ感じた。ノアは瞬きしても、同じ目のままだった。

「どうかされました?」

「別に何でもない。授業さぼってきただけ。だるかったから」

「不良ですね」

ノアは口元に手を充ててくすくすと笑う。

「そっちだって人のこと言えないよ」

「先生がお休みだったんです。校長先生が代理をされることになってたんですけど、教室に入るなり『今日は自習にしましょう』って仰ったまま、どこかへ消えてしまって。こんな良い天気なのに、室内にいるのも何ですから、外に出ようと思って」

 三宿学園高等部では、英語や数学などの教科は、少人数制をとって教えている。英語は全部で三クラスあり、不出来な生徒は基礎クラス、並に出来る生徒は標準クラス、帰国子女や英語を母国語とする生徒は発展クラス、と分けられていた。菜月と落合はもちろん標準クラスであり、ノアは基礎クラス、クリス、来夏は発展クラスである。先ほどクリスがぶらついていたのを見る限り、今日は、基礎クラス以外は自習だったようだ。颯と話していたクリスの横顔が頭を過ぎり、菜月は微かに顔をしかめた。

「あの、よろしかったらお茶にしませんか?僕、水筒に紅茶を淹れてきたんです。それに、クッキーとチョコレートもありますし。いかがです?」

クリスの幻影はすぐに消えうせた。

「もちろん!」

菜月はやっと笑顔を浮かべた。

 二人は、林檎の木の下からもっと中庭の中央へと移動し、噴水の近くの石造りのベンチに腰掛けた。ノアは、小さなバッグの中から、水筒や紙コップや菓子を詰めた缶などを取り出した。魔法瓶から注がれたハーブティーは、ミントのような清清しい香りがした。それから、菜月は菓子をつまんだ。ココアのほろ苦いアイスボックスクッキー、蕩けるようなラングドシャ、バターサンドクッキーにダックワーズ、ハート型のトリュフまで、遠慮なく何でも食べた。ノアは紅茶ばかり口にして、菓子は菜月の口に含まれるがままにしていた。缶を振っても何の音もなくなった頃、菜月はふと気になって聞いた。

「ところで、さっきはあんな草むらで何してたの?」

「あぁ、拾ってたんです……蝉の抜け殻を」

ノアは白いハンカチの結び目を解き、琥珀色の美しい残骸を一つ取り出して見せた。菜月は興味津々で覗き込む。

「今時珍しいね」

「そんなことありませんよ。探せば沢山見つかります。この学園にはいっぱいあるんですよ。だから、僕は毎年拾って一つずつ土に埋めておくんです」

「お墓じゃないんだから」

「いいえ、お墓ですよ。抜け殻の中にも確かに生命が宿っていたんですから。死骸と何ら変わりはありません」

 言いながら、微笑みながら、ノアは指で抜け殻を転がしている。蝉が成虫になるために脱ぎ捨てた衣。今、その中は虚ろであるが、嘗ては確かに薄い透明な羽と、白く柔らかな身を守っていたもの。ノアごと見つめているうちに、菜月は段々気分が悪くなってきた。だが、同時にすっかり魅入ってもいた。誰かの捨てた過去を弄ぶノア――否、ノアじゃない。隣に座っているのはもっと背が高くて、髪は黒くて、尼そぎで……

「見てご覧、ナツ。これは大人になるために蝉が捨てた代償だよ。蝉はすすんでこれを脱ぎ捨てたよ。どうして君には出来ないの?」

ハンカチの端がぱさりと落ちた。白いハンカチの中、積み上げられていたのは、抜け殻の山、大人たちが喜んで捨てた大人になるための代償だった。息さえも、思考さえもしない。彼らは静かに横たわり、今は土の床に眠ることだけを望んでいる。

 胸の中で、頭の中で、何かが撃ち抜かれ、暗黒の鮮血が目の前を覆い尽くした。


***

 「……貧血か何かですね。最近食事をちゃんと摂っていなかったようですし。目が覚めたら、何か栄養のあるものを食べさせましょう」

「そうですか。しかし、有瀬が見つけてくれて助かったわ。校長先生の逃亡も、時々は良いことをするみたいね」

「私は何とも言えません。校長捜索隊の方が、毎日誰かしらお見えになるんですよ」

「あら、そうだったわ。全くご苦労様」

 女性同士が笑いあう声がする。片方は若く、片方はもう少し年上だ。まだ目を開かないうちから、菜月はその片方の正体を当てることができた。薄目で見れば、やはり野瀬先生だ。野瀬先生の前に座り、コーヒーを啜っている若い白衣の女性は、養護教諭の里見沙織さとみさおり先生である。どうやら保健室のベッドに寝かされているようだ。里見先生が先に菜月が目を覚ましたことに気付いた。

「酒本君、大丈夫?」

菜月は小さく頷いた。

「どこか痛いところとか、気分悪いとか、そういうのはない?」

 様々な質問をしたり、体を検めたりした結果、里見先生は、菜月に特に悪いところはないと判断した。先生が野瀬先生にそれを告げると、唇をぴんと張って腕を組んで待っていた野瀬先生も、やっと口元を緩めた。

「酒本、無理はしないようにね。食事もきちんととらなきゃ。色々心配事はあるかもしれないけど、体の調子がよくないと心も益々不安定になるよ。何かあったら私たちがいるし、あなたには友達もいるんだから、ちゃんと相談しなさい。鳥居先生もとっても心配してたから、明日にでも元気な顔見せなさいね」

「はい……」

菜月は虚ろな声で返事をした。

「じゃあ、里見先生、後お願いしますね。私、授業がまだ残ってるから」

「えぇ、お任せください」

 野瀬先生は里見先生に一礼すると、保健室を出ていった。里見先生は、野瀬先生を出口まで見送った後、グラスにスポーツ飲料の粉末を溶かして持ってきた。菜月は言われた通りにそれを飲み干し、里見先生の話に耳を傾けた。

「酒本君は階段の踊り場に倒れてたの。有瀬君が見つけて知らせてくれたんだけどね。階段から落ちたのかと思ったわ。野瀬先生なんて真っ青になってたわよ……あっ、これ、秘密ね。先生って意外と照れ屋だから」

 里見先生は微笑した。先生の話は何だか可笑おかしい。でも、一体何が可笑しいのだろう。頭に上手く血が巡っていないようだ。

「まあ、貧血だと分かってほっとしたけど。今日は野瀬先生も仰ってた通り、早く帰って休むことね。寮の方にお粥かうどんか出すように言っておくから、しっかり食べること。そして、八時には寝る。今月は貧血の生徒が六人も出たのよねー。和泉先生が『食生活見直しキャンペーン』を再開する日も近いかもなぁ……あっ、そうだ。見舞い客が一人いたわよ。生徒会書記の榊原君」

 菜月ははっと顔を上げた。里見先生はグラスをすすぐのに集中して、ちらともこちらを見ていない。

 颯が、一体どうして……?僕なんてどうでもいいんじゃなかったのか。僕を疎んでいるんじゃなかったのか。一体何のつもりなんだ?迷宮の紫色はますます深まるばかりで、頭痛によって薄まるその色は、いつしかこちらを咎めるように見つめる颯の瞳の色と変わっていった。枕に倒れて菜月ははっとした。里見先生がベッド脇に駆けつけていた。

「酒本君、本当に大丈夫?」

「うーん、あの、ちょっと頭がぼーっとして……」

菜月は、許可なく額に充てられた手も気にせず、素直に答えた。「もう少し休んでなさい。疲れが溜まってるのよ、きっと。私はちょっとここを空けるけど構わない?」

「はい」

「電気は消しとくから。あっ、ついでに鞄も取ってくるわね。教室にある?」

「はい」

「分かった。じゃあ、おやすみ」

 間もなく、ベッドを囲むカーテンが閉じられ、白くともった蛍光灯は消えた。窓から差し込む光で部屋の中は明るいが、菜月は少しほっとした。蛍光灯の白ほど無遠慮な輝きはない。しかし、意識はすぐに元の混沌へと戻り、渦巻く謎に翻弄される。目を瞑って思い出そうとする、教室を出た後のこと。自分は中庭へ出て誰かと出会った。記憶の中のその姿は、ぼんやりと靄がかって、誰と確認することはできない。しかし、それでもやはり存在した彼は、大人たちが苦悶のうちに喜んで脱ぎ捨てた「子供」の骸を、菜月に示し、颯に代わって菜月を非難した。うずたかく積み上げられた琥珀色の死肉が、優しい無関心な颯の眼差しが、頭の中にフラッシュバックする――

 菜月は頭を垂れた。両の腕に、器いっぱいに満ち溢れた苦悩を抱いて。颯は自分の愚かな束縛から逃げたがっているのだ。自分が過去に固執し続ける限り、颯は狭い抜け殻の中から飛び立つことができないのだから。否、もしかすると、彼はもう逃げ出したのかもしれない。自分は、只、手に残った彼の手の感触を彼と見なしているだけのかもしれない。嗚呼、間違いない。きっとそうなのだ。過去の蔦に絡みつかれ、もうどの手も足も動かせない。今更もがいても、一層肌に痣を刺すばかりだ。誰か救ってくれないのか。見上げるだけの首は痛いのに。誰か、この声に、蔦に覆われても空に伸ばしたこの腕に、気付いてくれるものはいないのだろうか。

「酒本!」

 突如、強く手を握られて、菜月は目を開けた。指の隙間から、金色の髪と憎らしいほどに澄んだ青い瞳、焦りと困惑で歪んだ白い顔が覗けた。こんなにも稀なものを持っている者は、菜月の知り合いの中には一人しかいない。石崎・エーリアル・クリス――自分を苦しめる蔦の一本。菜月は、漸く指を落としてクリスの顔を直視するのにも、いくらかの悪意を込めずにはいられなかった。だが、その影はクリスの胸に映らない。

「大丈夫?ごめん、俺もたった今有瀬に話を聞いたばかりで……気持ち悪い?えっと、どこかに桶とかないのかなぁ」

 クリスはベッドの下を覗き込み、そこに押し込まれた物品の多さに暫し唖然とした後に、漁り始めた。愚弄しているのだろうか。自らは一番の毒となっていることが何故分からないのだろう。菜月は見えぬように唇を噛み締める。

「別に平気」

飛び出た言葉は自分でも驚くほど冷淡だった。

「ほんとかよ?他に悪いところは?」

「別にない。あったとしても石崎に何が出来るの?」

「えっ、そりゃ色々できるさ。物によってだけど。叔父さんが風邪のときに看病したことだってあるし……」

「そんなの聞いてないし、僕は風邪じゃない。もうほっといてよ。調子は大分良くなったから、僕は部活に行く。里見先生に言っておいて」

「えっ、あっ、ちょっと、酒本……!」

 菜月はベッドを素早く降りると、手首を掴んだクリスの手を振り払い、振り返りもせずに保健室を出て行った。追おうとしたクリスを、純白のカーテンが波のように押し寄せて邪魔をした。扉の閉まる、バン!というものすごい音がする。クリスは急いでカーテンを掻き分けて出てみたが、靴音の段々遠ざかるのを、ただ耳で認めるばかりであった。

「酒本……」

 不安が胸を過ぎる。どうしたのだろう。あんなに感情を剥き出しにするのは、菜月らしくない。やはりまだ具合が悪いのだろうか。ならば、部活なんて行かせずに早く休ませなければ。動き出そうとしたクリスを、背後から放たれた一つの声が止める。

「無駄だよ」

 クリスは背をくるりと返した。先ほどまで菜月が寝ていたベッドの上に、一人の少年が腰掛けて肩膝を抱えている。カーテンは風に煽られ、彼の姿を見せたり隠したりして遊んでいる。玉鬘に蛍を投げ掛け、蛍兵部卿宮を惑わせた、源氏の君のように。其は光のない故に隠す。

「無駄だよ。今、君が彼に何を言おうと、彼はそれを拒絶する。君は待つことしかできない」

「そんなこと言ったって、ほっとけないよ!酒本は具合が悪いのに無理してるんだ。誰かが止めてあげないと……!」

「それは君の役目じゃない」

クリスの言葉は静かに遮られた。窓の外を鳩の大群が横切り、はためくカーテンに影を投げ掛けている。

「君は既に役目を果たし終えた。もう何もしなくていい……ねぇ、クリス様、菜の花は今もそよいでいると思いますか?」

 ふと風が凪いだ。目を丸くするクリスに向けて、ベッドの傍らに立ったノアは、微笑みながら、一茎の菜の花を差し伸べていた。


***

 「慎、まだ怒ってるの?」

 窓枠に腰掛けて足を組み、腿に肘をつきながら、颯はかりかりした背中に声をかけた。怒りの生徒会長は、一瞬ぴたりと動きを止めた後、恐ろしい表情で振り返る。眉間に青筋が立ち、唇から普段の余裕の微笑は消え、青い瞳に向けて赤く細い線が走っている。歪んだ口が言った。

「あぁっ?」

「やっぱり怒ってるんだ。怖い、怖い」

言いつつ颯は楽しんでいるような表情だ。

「てめぇ、先週出来てるはずの文化祭の予算書が影も見当たらないのに浮かれてられるとでも思うのか?」

「ハハ、ごめんごめん。配慮が足りなかったよ」

「……川崎の野郎は?」

「さあ。部活じゃないかな?もしくは茘枝とデート」

「あいつら人をコケにしやがって……!」

「微笑ましくていいじゃない」

「どこが?!」

慎は、今まで筆を進めていた原稿用紙を二人に見立てたつもりか、右手でくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んだ。見事に紙くずを籠の中に収めた慎を、颯は拍手と口笛で称える。

「さっすが」

 再び慎が作業に戻ったのを確認して、彼は窓の外を見下ろした。基本は緑の絨毯だ。その上に、花の赤、黄、紫、校舎と塔の白、湧き上がる噴水の青が配置され、午後の日が陰影と煌きと濃淡とを浮き出している。この風景だけは、何度見ても見飽きることのない。さながら一つの絵画である。数年前に美術館で見た絵を思い出した。高い塔の窓から見下ろした景色を描いたものだった。画面の右下に後ろ姿の少年がいて、颯は絵の前に立ち尽くしながら、この少年の感激に思いを巡らせていた。出来るものなら少年と代わりたいとさえ思った。今、こうして学園を見下ろす心地は、恐らくあの少年のそれと似ているのではないかと思う。ところで、絵の作者は誰だったか――考えて颯は微かに眉根を寄せた。

「何考えてやがる?」

二枚目の原稿用紙を破きながら、慎が尋ねた。

「いや、別に大したことは」

「あのガキのことか?」

「あのガキって?」

 颯は慎の背を見つめて訊き返した。太陽が二人の左手の一点を輝かせている。薬指に嵌められたクリスタルの指輪、生徒会の証であった。慎は、大儀そうにこめかみの辺りに指輪を充て、原稿用紙に筆を滑らせた後に、やっと答えた。

「あいつだ。あの、画家のガキだ。石崎・エーリアル・何たらとかいう……」

「クリス君?」

颯は微かに笑った。

「まあ、当たりといえば当たりかな」

「随分気に入ってるみたいじゃねぇか」

「それほどでもないよ。可愛いから世話してるだけさ」

「本命がいるのか?」

「それは秘密」

「フン、白々しいことしやがって」

 慎から顔を背けるようにして席に着き、颯は椅子を引いて机の抽斗ひきだしからノートを取り出した。先日の生徒総会のことで、また書き足していないことが幾つかあった。総会のことを書いたページには目印のクリップを挟んでいたが、ほんの冒険心でぱらぱらとページを捲ってみると、在るページに菜の花の押し花を見つけた。花弁の端は茶色に侵され、葉には皺が寄り、両者は窮屈そうにセロハンテープのカバーを被されていた。思わず溜息が漏れる。全く人間とは何と残酷なものだろうと。

 颯はページ毎押し花を切り取った。普段ノートその他紙類の扱いには十分気をつけている颯であるから、ページを破りとるその音に、慎は怪訝な表情を浮かべて筆を止めた。颯は切り取ったページを持ったまま、屑篭ではなく窓辺によると、風に紙切れ一枚を預けて飛ばした。

「おい」

慎が言う。

「何?」

 颯は小さくなりゆく白い長方形から目を離さないまま訊いた。遠いあの日を思い出す。菜の花の揺れていた、あの日の夕暮れ。小さな愛しい生き物の泣き声を聞いて家を飛び出した。斜陽に赤く染められ、やがて濡らされた彼の頬、抱きしめた小さな体の温もり――もう日は傾きかけている。

「何のつもりだ?」

 狩衣の裾に取り付いた柔らかな手、自分を見れば忽ち笑った小振りな口元、次々に瞼の裏に浮かんでは消えていく。彼は今頃苦しんでいるだろう。そうなるようにしたのだから。

 一人で小さな殻の中から飛び出てしまった。自由に飛びかう自分の姿を、彼がいかなる苦痛を以って見つめていたか、自分は知っている。知っていて見せ付けた。そこにあるのは彼への思いやりでも何でもない。彼が殻から出てくることなど、彼と共に舞うことなど、少しも望んではいない。ただ、彼の目を自分に縛りつけおきたい――ほぼ無意識の中でではあったが、菜月が颯を追い続けるのと同様に、颯もやはり菜月に固執していた。王子様はお姫様がいなければ成り立たないし、お姫様は王子様がいなければ成り立たないのだから。

 颯は顔を突き出した。風にさらわれていった押し花の、既に飛び散ってしまった香を嗅ごうとして。

「そろそろ菜の花が揺れるころかなと思ってさ」


***

 昇降口を出た菜月は、いつもの習慣で思わず校舎を見上げた。生徒会室の灯りはまだついているが、人影はない。最終下校時刻を知らせる鐘が鳴るまで、あと五分かそこらである。もう颯も帰るのだろうか。ここで待っていたら会えないだろうか。切ない期待が、線香花火のようにちろちろと火を飛ばし、胸を焦がす。だが、やがて花火も燃え尽きた。会ったところでどうなるというのだろう。颯は菜月から離れたがっているのだ。菜月を見かけたところで、親しく声をかけてくるはずがない。菜月は顔を俯けた。火傷が痛んだ。

 諦めた菜月の足を停めたのは、急な夕立だった。ほんの二、三歩進んだところで、突然雷鳴が轟いた。菜月は飛び上がった。雷は嫌いだ。昔、颯の家に預けられる前に、雷の所為で近所の家が火事になったのを見たことがある。トラウマとまではいかないが、一生癒えない傷として、菜月の心に残っていた。再度空が閃き、菜月は反射的に建物の中に飛び込んだ。その直後の雨だった。あと五分以内に校門を潜り出なければならないのに、こんなことってあるだろうか。菜月は呆然と立ち尽くしていた。

 待っている間に最後の鐘が鳴った。菜月は半ば投げやりな気持ちになって、床に腰をおろした。どうにでもなれ。雷の音だけが聞こえないように耳を塞ぎ、菜月は考え事に耽ることにした。最初は次の大会のことを考えようとしたが、竹刀も防具もすぐに尼削ぎの少年に姿を変えてしまった。榊原颯、一刻も早く忘れなくてはならない存在――忘却こそが、過去の蔦を断ち切る刃であった。だが、その刃は手に取ろうとする者の手まで傷つけてしまう。颯を忘れることなんて出来ない。でも、忘れなければならない。何故?颯は最早こちらを見ていないからだ。然し、想い続けることだけは自由ではないか?駄目だ。想えば期待してしまう。期待するだけなら良いではないか?否、叶わぬ期待などしても傷つくだけだ。傷つくのが怖いのか?忘却を手にしても傷つく、手にとらなくても傷つく。どうしたって傷つかずにはいられないのに?嗚呼、いっそ過去に閉じ篭っていたい。何故時はあの瞬間に静止してくれなかったのか。抱きしめられたままで、揺れる菜の花を見つめたままで、あの日の夕方に足を留めていればよかった――


 「どうして泣いてるの?」

耳元で囁かれた声に、菜月の体と心の全てが停止した。

「どうして泣いてるの?」

吐き出した息が震える。手を後ろに伸ばし、柔らかな髪を、なだらかな肩を、腕を、指の細くて大きな手を確かめる。あの日とは少し違うけれども、相変わらず、優しい愛おしい感触。

「泣いてなんか……」

 あの日のようには言えなかった。颯に嘘は吐けなかった。

「颯のバカ!」

 菜月は颯の胸に顔を押し当て、声を上げて泣いた。その勢いは、颯も尻餅をついて呆気にとられるほどであったが、ぎこちなく笑いなおしたあとは、見つめなおしたばかりの愛情でその腕を菜月の肩に回し、強く抱きしめた。齢の割に幼すぎると思った。この少年は、成長を拒み続けてきたのかもしれない。

「こら、ナツ、もう下校時刻を過ぎてるんだから帰らなきゃ。先生に見つかったら罰則だよ」

「だって、傘が……」

漸く涙も収まってきた菜月は、しゃくりあげながら意味のない言い訳をした。

「傘なら僕が持ってるから。もう雨も小降りになってきてるし。行こう」

 菜月をそっと体から話すと、颯は鞄から携帯用の折り畳み傘を取り出した。二人が入るのには少し小さすぎる気もしたが、肩や鞄が濡れるぐらいは構わないだろう。昇降口のガラス戸を開け、傘を広げた颯であったが、後ろからその傘を奪う者があった。

「僕が持つ」

表情もなく菜月は言った。泣いたことを今更後悔しているのだろうか。言葉まで素っ気無い。

「あのね、ナツ、身長差というものを考慮に入れて……」

「どっちが持ったって身重差は変わらないもん」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

 菜月は無理に颯の手を引っ張り、千鳥模様の傘の中に二人の体を押し込んだ。颯は慌てて身を屈めた。間一髪で傘に頭をぶつけるところであった。

 二人は黙して歩いた。曲げた腰は痛かったが、菜月は傘からも颯の右手からも手を離そうとしない。頭のすぐ上で、雨が傘に落ちる音が聞こえる。雨粒は軽快に不規則なリズムを刻みながら、二人の声なき会話を盛り立てていた。

「……怖かった」

雨音かと聞き紛うほどの声で、ぽつんと菜月は呟いた。

「もう二度と颯と一緒にいられないのかと思った。颯がどんどん遠くに行って、僕のこと嫌いになって」

「バカだね」

颯は笑う。

「そんなことするはずないじゃない。僕は君のものなんだから」

 それに対して、菜月は何も言わなかった。足を速め、半開きになっている校門へと急いだ。背を屈めている颯は、追いつくので精一杯だった。待ってと呼びかけても聞き入れられない。一体どうしたというのだろう。翻弄するつもりが、此方が翻弄されている気がする。照れ隠しのつもりだろうか。それなら良いのだが――同じ傘の下、背の違う二人は、片方は無表情の下に感情を隠したまま、片方は戸惑いを口元に隠しきれないまま、校門を出た。今度は、菜月は急に止まったので、颯も足にブレーキをかけなければならなかった。どうしたのかと横目で様子を窺ってみると、くるりと菜月がこちらを向いた。薄い唇が言った。

「僕のことバカにしてるでしょ?」

颯は返答に迷った。果たして、さっきの「バカだね」に対してなのか、これまでの態度に対してなのか。

「颯が僕のこと弄んでること、分かった。でもやっぱり颯は僕のものだから」

「ナツ、何を……」

 菜月は傘を足元に捨てた。颯が驚いて背を正すまでの一瞬の隙だった。菜月は素早く爪先立ちし、黒い艶やかな前髪に覆われた颯の額に、素早く唇を落とした。

 颯は声も出なかった。じっと下から見上げられるうちに、眼鏡のパッドの辺りに段々と熱が篭り、遂には菜月の顔さえ正視できないまでになってしまった。こんなはずではなかったのに。颯は胸中ぼやく。雨は止んでいる。だが、菜月は千鳥模様の傘を拾うと、自分の身だけに被せてたった一人で帰路を歩み出した。


 同時刻、白のアトリエにて――

 ノアの淹れたココアのマグカップを両手に持て余していたクリスは、何の衝動に駆られてか、台所で此方に背中を向けているノアに言った。

「俺は、まだ菜の花はそよいでると思う」

 ノアは振り返った。その表情には、どこか裏切られたような色が見られたが、クリスは図書館から借りてきたばかりの画集に既に意識を奪われていた。

 ノアの手から、菜の花の押し花と蝉の抜け殻が落ちた。


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