アカシア
「もしもし?」
夕方の一番忙しい時間に電話がきた。普段、電話の応対をするのはノアの役目なのだが、この時間はノアが夕食の準備に追われているので、クリスが出る。そんなことを知っていたかのような電話だったと気づくのは、もう少し後になってからだった。受話器を耳にあてる前から、町の騒音が聞こえていた。
「あのー、もしもし?」
なかなか語りださない相手に、クリスは再度呼びかける。車がクラクションを鳴らす。彼か彼女かがいる傍で。
「クリスか?」
「は、はい、そうですけど……」
突然の英語に度肝を抜かれつつ、クリスはすぐに言語を切り替えて返事をする。相手は男だった。どこかで聞いたことのある声だ。でも、思い出せない。
「あのー、どちらさまですか?」
突如、電話は切れた。あっ、とクリスは受話器を見つめる。電波の悪いところに入ってしまったのだろうか。だが、着信履歴を見てみると、相手は公衆電話からかけてきていることが判明した。小銭が切れたとか、そんな理由だろうか。クリスはしばらく電話の前で待ってみたが、二分ほど待ってみても、相手がかけ直してくる気配はまるでなかった。
「どちら様でした?」
「さあ。すぐに切れちゃったから」
ノアが鍋つかみに包んだ手で持ってきたマカロニグラタンの匂いが思考を鈍らせるなか、クリスはイギリスの友人たちの顔と声を思い出してみた。そんなに難しい作業ではなかった。当時の人づきあいは、お世辞にも広い方とは言えなかったので。また、あっ、と声が漏れた。そっくりな声なのが一人いた。でも、でも……有り得ない。あいつが日本にいるはずがない。だって、奴とはもう――「クリス様?」急に胸元を抑え、表情を変えたクリスに、ノアが尋ねる。「大丈夫ですか?気分でも悪いんですか?」
「ううん、何でもない。ちょっと……ごめん」
クリスは階段を駆け上っていくと、ノアがきちんとハンガーにかけてくれたブレザーから携帯電話を取り出し、急いでアドレス帳を開いた。日本に来てから増えすぎてしまったあいうえおの頁を飛ばし、ようやくアルファベットに辿り着く。Clive。クライヴ・メイスン。その名前を見つけた時、一瞬呼吸が止まった後で、クリスは悲しい脱力感に襲われた。彼は浅黒い横顔にいつも哲学的な表情を浮かべていた。黒い髪は少し長くて、邪魔な髪はいつもゴムでまとめていた。母親の好みなのだと、彼は言っていた。短気で手が早い代わりにさみしそうな笑い方をする少年だった。そして、誰ともつるもうとしなかった。一匹狼という言葉は彼のためにあるのかもしれない。クライヴ――クリスがイギリス時代に好きだった数少ない友人だ。どこかに彼の写真もあるだろうか。クリスは手帳をめくってみたが、彼はいつかのパーティの時に不意打ちで撮られた一枚に、隠れるように小さく映っているだけだった。
「ねぇ、クライヴ、君は……」
クリスは居心地悪そうに縮こまっている彼の姿につい話しかけたくなった。君は一体何がしたかったの?あてのない暴力を振るって、まるで空気のように人ごみの中に溶け込んでいた俺に近づいて。俺と君が友達でいることに、いつも周りは不思議そうな顔をした。俺はあの時、まるでそんな周囲の疑問を笑い飛ばしていたけれど、思い返せば俺にもよく分からない。ただ、二人で秘密を共有しているふりをしたかっただけだった。俺は君のことを、周りの人間と同じぐらい理解していなかった……
俺が絵を描いていると、君は音をたてないように気をつけて隣に座った。君は絵のことなんか何も分からないと言ったけど、俺の絵をとても気に入ってくれた。俺が有名だってことだけで俺の絵を評価する人は世の中にごまんといる。でも、君はそうじゃなかった。純粋に、子供が綺麗なものに憧れるみたいな、そんな気持ちで、俺の絵を好きでいてくれた。そうだ。俺はただ一つ、君が本当はあどけない心を持っているということだけは理解していた。そうでなければ、俺の絵を見つめる時に、あんなに優しい、うっとりとしたような目つきはできなかったはずだもの。でも、結局、俺が知っていることってそんなことだけだ。俺は君の孤独を癒せなかったし、日本に来ることでますます君を孤独にしてしまったのかもしれない。
急に会いたくなった。一時間前までは思い出しもしなかった人に。もし、最後の日に言えなかった一言を言えたなら、どんなにいいだろう。クライヴ、もう一度、電話してもらえないだろうか。その時はちゃんと君の名前を呼ぶよ。君だと分かるなり、すぐに。だから、君にも、あの頃の呼び方で呼んでほしい……
「クリス様、食事の用意ができましたよ!」
「……うん!」
先ほどまでの空腹はどこへやら、今ではどんなものも食欲をそそりはしなかった。ただ、クリスが唯一生きて反応できるものは、電話の着信音だけだった。でも、夕食の間も、その後の穏やかでのんびりとした時間も、電話は黙り続けていた。十二時までは何とかリビングで粘ってみたが、ノアにいさめられてとうとうクリスは諦めた。それでも頭の中はクライヴのことでいっぱいだった。一体どうやって寮の電話番号を知ったのか、どうして今日本にいるのか、どんな用があってクリスに電話をかけてきたのか。
夢の中で、クリスはあの頃に戻っていた。あの頃の日々を、クリスは何の感動もなく過ごしていた。近所の教会で鐘が鳴り、クリスが冬の日の早すぎる夕方の町へ足を踏み出すと、クライヴがもう学校前の並木道の上に、木々に紛れて立っているのが見えた。それが当たり前だった時代もあったものだ。クリスがそこまで歩いてくると、クライヴはようやくその横に並んで歩きだした。そして、クリスが何か言うまではその不器用な口を閉ざしている。そうまでして得た話題も、大体他愛のない、つまらないものだった。それでも、当時は勿体ないとは思わなかった。二人の時間なんて、それしか過ごしようがなかったのだから。
何かが低く唸る声が、二人の会話に被さるように聞こえてくる。一体何だろう。音はしつこく続いている。夢うつつのままで、耳元を探ったクリスは、携帯電話が振動していることに気がついた。あれ?土曜日はアラームを切っておいたはずなのに。自分の曜日感覚が狂っていただけか。全く。クリスは起き上がったが、寝ぼけ眼にも夜明け前の暗闇は確かめられる。アラームが鳴るにはまだ随分と早すぎる。クリスははっとした。携帯電話の画面に点滅するClive Masonの文字が消える前にボタンを押し、ノアを起こさないようにという配慮から出た行動にしては、恐ろしく騒がしい音をたてて、廊下へすっ飛んでいった。電話を耳にあてる前から、昨夜よりは静かながらも町の音がした。クリスはなんだか泣きたい気持ちだった。
「Clive?」
「……Good morning, Christopher」
懐かしすぎる声にクリスは声を押し殺して笑った。Christopher、普段からクリスをそう呼ぶ友人はクライヴだけだ。
「何時に電話してるんだよ?今、日本にいるの?」
「ああ」
「どうして?」
「旅行だ。学校やめたら、することが何もなくなった」
「ああ、やめたんだ……」
「あんなところに行ってたって時間と金の無駄だ。お前がいなくなってから、通ってても楽しくなくなった。人を殴るために行ってもしょうがねぇだろ?」
「そりゃそうだけど……」
俺が戻るまで待っててくれたっていいのに。そんな我儘は胸の中で噛み潰した。そんなことを言える義理ではないのは、百も承知だ。だが、帰る先に彼がいなくなった事実が、針のように胸に突き刺さる。
「昨日はどうして電話を切っちゃったの?」
「急にお前に繋がったんで驚いた。他の奴と住んでるって聞いたから、お前が最初から出てくると思わなかったんだ。そっちの学校はどうだ?」
クリスは壁にぴたりと身を寄せて、青い窓を見つめた切り何も言わなかった。
「クリストファー?」
「どうして昨日はクリスだなんて呼んだのさ。最初からそうやって呼んでくれれば、すぐに分かったのに」
「お前が俺だって分かったところで、俺はどうせ電話を切ったぜ」
「……クライヴ、今日会えないの?」
「悪いが今朝一番の便で帰る」
「ずっと待ってたのに……」
クライヴが気まずそうに一つ咳をした。クリスは言った傍からその言葉を悔やんだが、今更撤回はできなかった。待っていた、それも間違いなく本当のことなのだから。例え、たった一晩だけでも。クライヴがクリスを待っていた時間には遠く及ばぬにしても。
「俺だってずっと待ってた」
クライヴの背後で、トラックが揺れる音がした。クライヴは一体どんな思いで見知らぬ国の町を歩いているのだろう。まだ夜も明けぬ、暗い町を。自分を捨てていった友人と電話をしながら。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
クライヴがまた咳を重ねる。風邪でも引いたのだろうか。こんな朝の寒さは、さすがに身に染みるはずだ。
「クリストファー、俺な、もうすぐ結婚するかもしれない」
「ほんとに?」
「あぁ」
照れ笑いのようなものが、聞こえた気がした。
「これからは真面目にやる。お前ももう独りじゃねぇんだろ?急ぐ必要なんてない。自分のやりたいこと、ちゃんとやれ。俺はイギリスで待ってる……ほんとはな、日本には、お前の顔を見にきたんだ。でも、これでよかった。次に会う時の方がずっと楽しくなるだろうしな」
「そうだね」と笑うのは至難の業だった。それでもクリスは、友人には見えない微笑みを必死に浮かべた。彼の前途を祝って。彼の幸せを心から祈って。
「じゃあな、クリストファー」
「うん……ねぇ、クライヴ、最後にまたクリストファーって呼んでもらえる?」
「女みてぇなこと言うなよ」
「いいよ。女みたいでも……」
「分かった。また、会おうぜ、クリストファー」
「ありがとう。声きけて嬉しかった」
クリスは電話を切った。車と、クライヴの呼吸が消えた。時刻は午前四時を少し回ったところだった。
クリスはベッドにもぐりこんで溜息をつく。今までかかってきた中で、最も愛おしくて、最も迷惑な電話を思い返しながら。ノアは相変わらず安らかな寝息をたてている。枕に頭を預けると、睡魔はすぐに襲ってきた。