睡蓮
全く私の不幸続きは全てあの男のせいなのだ――そう結論付けるのは早すぎるし、話が飛躍しすぎているのも判っている。だが、女には理屈で説明できない論じ方があるのだ。男には決してわからない。わかる男は男じゃない。現に、私が知っている中でこの理論を理解できる唯一の男はジャクソンなのだ。
だから、絶対に女の理論を男の前で振りかざしてはならない。振りかざしたら最後、狂人扱いされる。でも、あの男の顔を見たとき、私は自分の正気を犠牲にしても、泣き喚いて責めてやりたい気持ちに駆られた。あの男が、私を見て驚いた後で笑った時には。
「みちる!」
「神崎君……」
神崎武。恐らく三十二歳。もしくは三十四歳。彼が自分よりいくつ年上だったのかは忘れてしまった。変わらないのは線の細い体と笑った時に浮かぶどこか苦しげな眼差し。変わったのはその身のこなし、服装、髪型。紺色のスーツがあまりにも似合いすぎていて、私は立ち尽くす。忙しい夕時のターミナルで。
「みちる、突っ立ってると危ないよ」
巨大な旅行鞄と高級化粧品メーカーの紙袋を振り回してどたばたと駆け込んできた中年女性から私を守るべく、彼は私の腕をとった。睨み付けたい。でもその勇気がない。怒りと悲しみの入り混じった感情が、私の唇を固く結ぶ。女性のでぶでぶした後姿が人ごみにまぎれて消えていくまで、私の目は彼の上等なネクタイの上に注がれていた。まるで、視線で穴を開けようとするように。
「久しぶりだね。元気だった?」
「……うん」
聞かれたからには仕方なく答える。目は彼の顔を見上げる。少し潤んでいたかもしれなかった。
「どこか旅行の帰り?」
「まさか。出張よ……神崎君は?」
「俺も出張の帰り。うわー、それにしても懐かしいな。何年ぶりかな?」
八年ぶりよ。私は答えたいのを辛うじて堪えた。この男が思い出すまでは絶対に答えてたまるものか。そっぽを向いた私の鼻が、香水の匂いに気づく。
「相変わらず忙しいみたいだね」
「神崎君は昔とは打って変わって忙しそう」
「ハハ、確かにそうかもな。ねぇ、時間空いてる?明日休日だろ?久しぶりに飲みに行かない?」
ノーと答えれば、私はかっこいい女になれたはずだった。昔の男は振り返らない、前を向いて生きる女性に。だが、私は弱かった。神崎武を責め殺したいのと同様に、彼が懐かしくて仕方がなかった。今の私の生活にはその気配すらない甘美な香りに飢えていた。私はやっと明るいふりをして頷いた。電車が空港帰りの客をほとんど吐き出すまで、私たちは降りなかった。やがて地下の駅を抜け切って、いかがわしいホテルのネオンと、塾の看板と、高層ビルの灯りが囲むように窓の外に現れた直後の駅で、彼は私に降りるよう促した。電車の中で何をしゃべったのか私は覚えていない。何もしゃべらなかったという可能性もある。私たちの会話は、その夜の月が浮かび始めた後に凝縮されていた。
彼の馴染みの店は、小洒落たバーだった。会見の間、本物のジャズバンド(というとおかしいが、恐らくプロであろうジャズバンド)が、私の知らない曲を奏で続けていた。たった一つ判ったのは、マイファニーバレンタインぐらいだ。それぞれが注文したアルコールが出てきた後で、二人はまるで再会の最初に戻ったように顔を見合わせ、そして恥ずかしげに顔を伏せた。彼は変わりすぎていて、そして私は変わらなすぎていた。
「久しぶりだねっ、本当に」
私が上ずった声で言うと、彼は笑って、案外澱みなく話し始めた。
「五、六年ぶりだからな。しかし、みちるは変わらないね。ちょっと振り返った時にちらっと目に入っただけで、すぐにわかった」
「私は神崎君の後姿なんて全然判らなかった。やっぱり、今もお父さんの会社にいるの?」
「うん。でも正直恥ずかしいな。昔は散々かっこいいこと言ってたのに。親の敷いたレールの上は歩かない、なんて」
「でも、いいんじゃない?神崎君にはスーツ姿が一番似合ってるよ……」
ちょうど私がそう言った時、マイファニーバレンタインが流れ始めたのだった。
武とは大学時代に付き合っていた。同じ学年で、武も同じく教職志望だったが、某大手企業の社長である父からは会社を継ぐように迫られていた。それでも俺は教職に就きたいんだ。俺は子供と関われる仕事がしたいから。そう語ってくれた彼の横顔に惚れたのだった。今、思えば私も単純な小娘だったと思う。夢を追う男性に、ひ弱な憧れを託したかったのだろう。でも、そんな無謀な勇姿を差し引いても、彼は優しかった。父の死と姉の死が重なった、あの地獄のような大学時代をうまく切り抜けられたのは、間違いなく彼のおかげだ。彼は勿論女子からも人気があった。秀才で、お金も持っていて、物腰も柔らかくて。女が放っておくはずはなかったのだ。だが、彼は私一人を守り通してくれて、私もそれを当たり前のように思っていた。私のような面倒くさい娘なんか捨てたところで誰も責めやしなかったのに。私は情緒不安定で我侭で自暴自棄に陥っていた。自分の痛みにわめくのに夢中すぎて、他人のことなんてまるで目に入っていなかった。そんな私を彼は変わらぬやさしさで包み込んでくれていたのだ。
私には怒る権利なんてなかった。彼が教職をあきらめる、会社を継ぐ、と言った時、せいぜい悲しげに微笑むぐらいが私に許されたことだった。だが、私は彼を責めた。罵った。意気地なしとまで呼んで侮辱した。夢を諦めざるを得なかった彼の悔し涙がまた、私の神経を逆撫でした。「泣くぐらいなら諦めなきゃいいじゃない!」残酷にもそんな言葉を叫んで、私もまた泣いた。二人して背を向け合い、それぞれ別々の件で泣きながら、別れ話をした。あの日の六畳の部屋の間取りも空気も、私は覚えている。
「みちる、別れよう」
「うん」
「みちるを失望させて、みちるの恋人なんか続けられないよ」
「……うん」
「ごめんな、みちる」
「……」
「本当にごめん」
「まだ怒ってる?」
「えっ?」
彼の問いが唐突すぎて、私は戸惑った。彼は少しネクタイを緩める。問いかけの堅苦しさにそぐわない自然な態度で。
「まだ、俺が教職を諦めたこと、怒ってる?」
私は微笑むのが精一杯だった。
「まさか。私にはそんな権利ないよ。それに、今の神崎君の方が昔よりずっとかっこいい」
「それならよかった。年取ったなんて言われたくないもんな」
「男の人はいいじゃない。私の方が悲惨よ。同窓会行っても、親戚に顔出しても、聞かれることといえば『まだ、結婚しないの?』だもん」
「なんだ。まだ結婚してなかったのか」
「既婚者に見える?」
「うーん、見えない」
「ほらね」
「今はどの学校に勤めてるの?」
「三宿学園」
「うわっ、名門だな」
「でも、どこ行っても子供のやることは一緒ね。名門だろうがなんだろうが、皆同じことしかしないわよ。だから困るんだけどね」
「でも羨ましいな。やりがいがありそうで」
「そりゃあ、勿論なきゃやらない訳ですけど」
ジントニックってこんな味だったんだ。三十路に差しかかって、私は初めて知った。蕩けるような音楽と、馴染みのないお酒の感覚が、私を麻痺させたのかもしれない。今まで一番気になって、そして訊けなかったをつい訊いてしまった。
「ところで、神崎君は結婚したの?」
訊いた後で馬鹿な質問だと思った。神崎君のような人が、結婚しながら女性を飲みに誘えるはずがないのに。ターミナルから変わらずに彼の顔を占領し続けていた笑みが変わらないことからも、私はその答えを知った。思わず胸がときめいた。私は男性の中に神崎君をずっと求めていた。神崎君に謝りたいと思っていた。それができないから、神崎君の代わりに私の贖罪を受け入れてくれる人を探していた。傷つけてしまった大切な人を、私はもう一度だけ抱きしめたかった。神崎君を求めれば求めるほど、私は縁遠くなった。仕方のないことだった。神崎君のような男性は存在しないし、神崎君の代わりになるような人もどこにもいない――もう一口飲んだジンが喉の奥から染み渡って、全身に何やら甘い信号を送った。これはチャンスなのだ。一度捨ててしまった宝物を、再度拾い上げるチャンス。神様が与えてくれたとっても素敵な奇跡。私は息を止めて正面から彼をじっと見つめた。
彼が頷いて「三年前にね」と呟いた時、音楽は終わった。私は同じ男に二度失望させられた。どちらも、私の我侭のためだった。少し成長した私は、今度は彼を責めなかった。しかし、その夜、私は帰って泣きに泣いた。ジントニックの酔いが消えてもまだ、私の涙は溢れ出てきて止まらなかった。
今思い出せば帰り際、仕事の話をした私に、彼は「羨ましい」と言った。私はこの男を責めて責めて責め殺してやりたい。