白薔薇
切ったばかりの髪を見て、「伸びたな」と言った陽の胸中は。茘枝には想像がつかない。切ったといっても今更短く切り込んだ訳でもなく、ただ痛んだ毛の先が時折首筋にあたって痛むのを厭って、ほんの数センチ整えただけなのだが。しかし、いずれにしても、伸びたの一言はあり得ない。
「……一体どうしたんだ?」
怪訝な面持ちで尋ねる茘枝の問いが、主語を「君の頭」にしていることに気が付いて、陽はじれったそうに舌を打った。茘枝はいらつきもしない。こんな所ばかりは相変わらず不器用だと思いながら、口元を緩めている。陽がすぐに答えを出せそうにないのを悟ると、茘枝はティーカップが十分に温まったのを見計らって、淹れたての紅茶をポットで注ぐ。わざわざ取り寄せた甲斐があるというものだ。最高級のダージリンの香りが、部屋の空気までも琥珀色に染め上げるようだった。
「それで、切ったばかりの私の髪がどうして君の目には伸びたように見えたんだ?」
嫌がられるのを承知で、陽の隣にぴったり寄り添うようにソファに腰掛けた。陽はやはり舌打ちして、背もたれに体を預け、寄りかかってくる茘枝の体重から逃げた。茘枝はティーカップを口元に運びながら、陽に近い方の眉を吊り上げる。
「おや、避けられた」
「ったく、うるせぇなぁ……お前と初めて会った頃から比べるとってこった」
「そうなら、さっさと説明してくれればいいのに。私はてっきり君が……」
「あー、もう、黙れ」
片手が飛んできて茘枝の口を塞ぐ。塞がれたままで茘枝は笑う。子供みたいだ――これ以上陽を怒らせても仕方ないから、口に出しては言わなかったが。ソーサーごとカップをテーブルに置いて、茘枝は手櫛で少し髪を梳いてみた。指は耳の上部の軟骨の辺りから通って、肋骨に差し掛かって止まった。陽が感傷に浸りたくなるのもわかる。随分と長く伸ばしたものだ。陽と会った頃はほんの肩を過ぎる程度であったっけ。
「確かに伸びたな」
陽の手が剥がれ落ちてから、茘枝は呟いた。
「だろ?」
と陽は言う。まるで自分のことみたいに。
二人が恋人という関係に落ち着くまでの時間ほど、茘枝にとって居心地悪く、また楽しかった日々はない。勿論、今とて楽しくない訳ではない。幸福と安定の意味でいえば、今の方がずっといい。だが、スリルと背中合わせになった、ぞくぞくするような楽しみは、さすがにあの時ばかりしか味わえなかった。友人ではなかった。だからといって、抱きしめあうような愛情も持っていなかった。家族というには知らなさ過ぎて、ただの同居人といえばあまりにも味気がなさ過ぎて。窓辺のベッドから、部屋の暗闇に身を横たえる陽の姿を見つめながら、一体どうしてこんなことになってしまったのだろうと考えた。陽はなぜ自分をさらいだしたのか。自分もなぜ逃げたのか。そして、今、二人が同じ部屋で眠る意味は何か。
共犯者――茘枝の頭に浮かんだ言葉の中で、一番そのときの現状にしっくりくるものはそれだった。氷室弘毅という男を辱めた共犯者。それならば理解ができた。共犯者は逃げ続ける。でもいつか、二人は道を違える日も来るのでは?君と一緒なら、そうは言ってはみたけれど、この先二人がずっと一緒にい続けなければならない理由なんてない。二人は友人でもなく、恋人でもなく、家族でもない。ただ、従兄弟という関係だけは持っていたけれど、それは長いこと放置されすぎて、すっかり腐りきっていた。
お互いに不安を感じすぎていた。学園は安全だったけれども、門の向こうに待ち構えている氷室家の復讐の目が、絶えず二人に注がれていた。だからなのか。二人が結びついたのは。冬に変わり行く秋の夜明けに陽が急に茘枝を抱きしめて、茘枝がその抱擁を受け入れたのは。
黒髪を撫ぜる手が、茘枝を現在に引き戻した。さめかけた紅茶を急いで含んで、茘枝は手の主を見遣った。陽の表情もまた、感慨に耽る風で、遠いようで近いあの日々に意識を寄せているようだった。
「陽?」
そっとやさしく呼びかけてみる。返事はない。まだ陽はこちらに帰ってきていないようだ。
「どうかしたのか?」
陽の瞳は変わらない。もしかしたら二度と現在には戻ってこないかもしれない。それもいいと思った。薔薇の螺旋を辿るように、今という時を求めて過去を彷徨い続けるのを。きっと行き場はないはずだ。いつしか花弁の淵に行き着いて、落下する。そしてまた今に戻ってくる。そんな日々をすごすのも。
「今はもうオレのものなんだな」
薔薇の花弁に行き着いたように、陽の指が茘枝の唇に触れて言った。茘枝の微笑みが明るく輝いたのは、陽の言葉に含まれていた充足感のためだった。自分は確かに求められて、この場所にいるのだと。
だが、茘枝は微笑みを隠すために黒く長い髪で顔を覆った。ただ気恥ずかしくて、顔を伏せた。陽の手がまだ自分の頬の上にあるにも関わらず。