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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
番外編 桜のない花物語
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若草

「耐えきれない!もう死ぬ!」

 菜月が泣きだして、手の届く範囲にあるあらゆるものを颯に投げつけ始めたのは、つい一時間ほど前の出来事であった。同室の友達が何事かと飛び込んできたのを何とか追い出し、颯はぬいぐるみやらノートやらがぶつかるままにしていたが、ある拍子にボールペンが、芯をこちらに向けて飛び出してきたのには、さすがに身の危険を感じた。

「ちょっと、落ち着いてってば……」

「落ち着かない!もう一生落ち着かない!」

「子供みたいなこと言わないでよ。ねっ、ほら、ココアいれてあげるから」

「いらないもん!もう子供じゃないもん!」

確かに熱いココアを持っていくのは得策ではないかもしれない。カップごとこちらに投げつけられるかもしれないから。颯は溜息をつき、何とか逃げ出したい衝動をこらえつつ、当たっても怪我しなさそうなものには平気で当てられておいた。自分が悪いのだ。どうしようもないことではあるけれど。長年の経験からいって、菜月は一度癇癪を起すとおさまらない。本人は認めたがらないが、それこそ子供のように怒り続け、泣き続け、一定時間が過ぎるとふいに力が抜けて放心状態になる。そこを優しく慰めればいいのだ。いつもどおりだ。何もかも、いつもどおりに。

 ところが、どれほど時間が経とうと、ちっとも収まる気配がないので、颯は今焦りだしているのだった。手の届く範囲にものがなくなると、菜月は颯の周りに落ちているものをわざわざひろいにきて、至近距離攻撃をしかけはじめた。颯は危なさそうなものだけを急いで確保し、菜月と出来るだけ距離をとるようにしたが、菜月はしつこく追い回してくる。颯はテディベアを正面からぶつけられた拍子に、メガネケースにつまずいてバランスを崩し、英語の教科書にとどめをさされたその場にあおむけに倒れ込んだ。

「バカ!バカ颯!」

 痛みにうめく暇もなく菜月がたちまち襲いかかって来て、颯に馬乗りになり、ぽかぽかと拳を浴びせた。颯は頭を庇いながら、そっと菜月の顔をうかがった。泣き腫らした眼と、それに負けぬぐらいに上気した頬が、とても中学一年生の少年とは思えなかった。なんだかまるで、小さな子供を見ているようで。どんなに理不尽なわがままを言われても本気で怒れないのは、菜月のこの幼さのせいなのだろう。幼さとは最も純粋な悪徳だと、颯は思う。

 菜月にこの悪徳を教え込んだのは、大人たち、はっきり言うとするなら菜月の両親である。菜月は無口で物分かりのよい子供だった。医者である両親を深く愛していたし、忙しく働く彼らに見放されぬよう、常に聞き分けのよい子を演じていた。菜月の両親は菜月をとても可愛がっていた。可愛がってはいたけれど、菜月に甘えすぎた。ある日、二人が海外での医療活動のために派遣されることが決まり、二人は菜月を親戚に預けることにした。赴任先はまだ幼い息子が健やかに育てる環境とはとても思えなかったし、乱暴な言い方で率直に言ってしまえば、菜月は仕事の足手まといでもあった。曾祖父を同じにするという颯の家に来た時、菜月は笑顔で両親を見送りながら、小さな肩を激しく震わせていた。神社の石段のてっぺんから両親が車に乗り込むのを見送って、しばらくその場に立ち尽くした後、突然石段を駆け下り出し、転びかけてぴたりと走るのをやめた。「怪我をするな」というのが、両親の最後の忠告だった。菜月が静かにすすり泣くのを、そしてその涙が、泣き声が、揺れる木々の葉の音に溶け込んでいくのを、颯は静かに眺めていた。振り返れば両親がいる颯には、慰めることはできなかった。

 あの日の夕方、初めて菜月を抱きしめた時、颯は強くなるように諭しつつも、一方で自分が菜月のある種の強さを奪ってしまったことを知っていた。それは、背伸びして、堪えて、微笑む、忍耐と服従の強さだった。菜月が今まで盾にしてきたものだった。颯は菜月の武器を剥がしながら、裸身の彼に、強さを教え込んでいたのである。


 ああ、なんだ。菜月にあの悪徳を教えたのは、自分じゃないか――


「ナツ」

名前を呼ぶと、菜月がびくっと身を震わせて手を止めた。これはありがたいことだった。颯は菜月を刺激しないように、ゆっくりと優しく宙に浮かんだ彼の手を掴むと、そっと菜月の膝の上に置いてやり、それから菜月の頬に手を伸ばしていた。頬の皮膚は熱く、涙がまだ一筋伝っている。颯は指でその雫を拭ってやると、今度はその指を菜月の耳元に寄せて、呟いた。

「ごめんね、ナツ」

「……」

「僕がいけなかったんだ。忙しいってそればかりを理由にして、菜月から逃げてたんだよ」

「……何で?」

「菜月が怖かったからかな。僕の罪を見るようで」

「颯の罪って?」

「それは秘密」

颯は菜月の拳が再び振って来ることを覚悟したが、何も襲ってはこなかった。

「ねぇ、ナツ、キスして」

菜月はしばらく泣きやんだままの顔で颯を睨みつけていたが、やがておずおずと上半身を倒し、颯の唇に触れた。幼いキスだった。苦くも甘くもない、しょっぱいばかりのキスだった。しょっぱいと素直に言うと、菜月は真っ赤な顔にそっと桜色をもたらした。

「颯がいけないんだもん!颯が泣かせるから!」

「分かってるよ、ごめんね」

「颯のバカ!」

「はいはい、バカですよ。ねぇ、ナツ、これから町の公園に行こうか?」

菜月が寄せる鋭い目線の中に、喜びの火が一瞬燃えたのを、颯は見逃さなかった。起き上がろうとすると、菜月は素直に退いた。小さな口の形が、音もなしに公園と呟いていた。

「もう新緑の季節だからね」

颯はそっと立ち上がった。菜月はまだ床にあひる座りをしたままで、公園、公園とそうと見えないようにはしゃいでいる。菜月が持つ悪徳の、何と可愛らしく、罪のないことか。颯は微笑まずにはいられなかった。春の息吹が若草の色を染めるように、颯も菜月の心を染め上げてしまったあの日の夕方。そして、体が少し痛む、温い五月の午後だった。



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