第三十八話 水晶の夢・前編
「貴方が生きるために。そして僕が生きるために。貴方は弱さを捨てて強く生きられる――僕はそれを心から望んでいます」
「君は……君は誰なの?」
「僕は……」
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'
「有瀬……!」
水晶のシャンデリアがアーチ型の窓から差し込む月光にきらめいている。オーロラのように光が移ろいゆく空間で、クリスは息を切らしながら、ノアの姿を捜していた。長い螺旋階段をのぼってきたあとで、わき腹がきりきりと痛んだ。それでもクリスは痛む場所をぎゅっと抑えながら進む術を覚えていた。
「有瀬、俺だよ。どこに……どこにいるの?」
柱の後ろから現われた人影にクリスははっとして目を凝らした。水晶の緩やかな点滅が彼の正体を隠している。有瀬?でも、有瀬より背が高いような……やがて、正面から向かって来たその人はクリスの肩に手を置いた。水晶は途端におとなしくなった。
「おや、クリスか」
「薫さん……!どうしてここに……?」
「君こそどうしてここにいるのかな?ここは生徒会役員以外立ち入り禁止のはずだけど」
「それは……」
「こんなところにいるのを人に見られたらどうする?早く寮に帰りなさい。もう夜になってしまったよ」
肩を押しだす手は強くも優しい。薫に逆らいたくはない。恋人としての薫にはもちろんだが、教職員として自分に向かっている薫には、まして。それでもクリスは薫の手を掴むとその目をしっかり見据えて言った。
「でも有瀬が……有瀬が俺をここで待ってるって。薫さん、俺、退学処分にされてももうなんでもいいんです。有瀬にあともう一度だけ会えれば……お願いします、もう少しだけここにいさせてください……!」
どこまでが本心だか、クリスには分からなかった。退学処分を恐れていない心は真実だろう。少なくとも、今の段階では。追い出される瞬間になって、おおいに悔やむかもしれない。もしも、この会見が不首尾に終わったら――有瀬、お願いだ。出てきてくれ。君の本心を、俺はどうしても知りたいんだ。俺を哄笑した君が、心の中でどんな表情をしていたのか。あの後、涙を流したのか。それを、俺はどうしても知りたいんだ。
「……そう、君はノアのために来たのか」
「えっ……?」
不思議な薫の声の調子に気づいてクリスは瞳に当惑を宿したが、薫の微笑みがそれを打ち払う。
「君は友達想いの優しい子だ。友達のためにここまで来たことは褒めてあげるよ……本当にいい子だ」
二人の唇が触れ合う。その瞬間にクリスの世界は揺らいで、甘すぎる幸福が胸の奥から湧き上がってくる。このまま変えれば自分は幸せになれるのだろう。クリスは確信していた。でも……自分はそんなことのためにここに来たわけではない。クリスは薫を突き放した。
「クリス?」
「薫さん、違うんです。俺は有瀬のために来たんです。有瀬?有瀬、どこに……?!」
クリスの目が窓辺に佇む者を捉えた。雲に隠れた満月が一瞬隠れた隙に彼の足元で何か白いものが閃いた。そして、またしんと冷え渡った光が彼の姿を照らし出した時、ノアは肩足を窓枠に寄せ、表情のない目でじっとこちらを見つめていた。その目がクリスでなく薫を見つめていることに、クリスはその時気が付かなかった。窓の外で吹き荒れる風がノアの髪を乱して、前髪がノアの顔を覆う。クリスの脳裏に、あの夜のノアが大写しになって消えた。
「有瀬っ!!」
駆け寄ろうとしたクリスの腕を、薫が後ろから掴んだ。振りかえった時、クリスは睨みつける相手への愛情を思い出すことができなかった。
「離してください!」
「俺が飛び降りろと言ったらノアは飛び降りる」
「何言って……!」
「だが、そんな必要はない。ノア、おいで」
「……はい」
ノアは革靴の足を降ろすと、クリスの方に――もとい薫の方に歩み寄ってきた。足を降ろした拍子に裾があがって足首の白さが垣間見えた。先ほど閃いた白いものはそれだったのだろう。
「有瀬……?」
「バカですね、貴方も」
呆然とするクリスの頬に、ノアはそっと触れた。灰色の右目はまだ前髪に覆われていた。
「貴方は何度僕に裏切られれば気が済むんですか?」
ノアはクリスの頬を撫で、顎のところで指先を反すと再度手の甲でクリスの輪郭をなぞった。その手で金色の髪をかきあげ、クリスの耳元を明らかにすると、ノアはそこに顔を寄せて薫には聞こえないよう小さな声で言った。
「……貴方は僕に、何度裏切りをさせれば気が済むんですか?」
ノアはためらわなかった。クリスの耳を離れると、くるりと身を翻し、こちらにやってきた時と同じ歩調で中央の柱の方へと進んでいった。ノアが柱に背中から体を預けると、水晶のシャンデリアが再び光の演出を始めた。ノアはもうこちらを見ようとしなかった。
「お父様、僕はいつでも構いません」
「ああ」
と後ろで答えたのは、クリスに馴染みのない、けれど懐かしい声であった。その時、薫の手がクリスを離した。振り返ったクリスは、クリスの手を掴み、今離した人が最早最愛の人ではなかったことを知った。クリスは青いサファイアの目を大きく見開いた。その人の髪はノアと同じ葡萄酒色であった。真っ直ぐな痩せた体が質量を持っているのを、クリスは初めて見た。薫の姿はもうそこにはなく、ただその人の瞳の色だけに名残を留めていた。
「久しぶりだね、クリス」
男の左手に水晶の指輪が輝いていた。
「志水……晶……?」
「覚えているかい?初めて会った夜、君は百合煎の丘の墓地でうずくまっていた。君はこの世に絶望していた。ご両親の死に、親戚の冷たい仕打ち。あんなに幼くかよわい君に対しても、世界は冷酷だった。君は海に身を投げようと試みた。優しい両親の元へ行きたい、ただその一心で。僕はそんな君を見つけて、この塔へと誘った」
「あっ……」
クリスの頭に色あせた記憶がぼんやりと蘇ってきた。冷たい土の感触、夜の海の禍々しさ、凍りついた悲しみ――そういったものが次第にはっきりとしてくる。クリスの身投げを止めた幻影のような男の姿も、クリスは思い出す。ずっと追ってきた幻の画家は、クリスの記憶の中に存在し続けていたのだ。
「君はそこでこの水晶を見ただろう。僕の最高傑作を。この絵で僕は絵というものを変えた。僕の筆で描いた水晶は、水晶として現実にこの世に存在している……そして、この場所を離れた君は、またこの絵を追ってこの塔の上までやって来たんだ。それを既に見ていたことを忘れ、見つけていたことも知らずにね」
志水晶はクリスの両肩に手を置いて、あの時と同じように天井の水晶を示した。見上げるクリスは呆然とする他なかった。これが絵?人が絵筆で描いたもの?こんなにもはっきりと実体を持ったものが?輝きを放つものが?この世の何よりも眩しく、美しいものが?
クリスは目を閉じた。今はこの世にいない人の掌にさえ温かさを感じた。それが、自分を救ってくれた人の温度であることをクリスは信じて疑わなかったから。こんなにも美しいものに救われた――クリスの頬を涙が伝って落ちた。
「そっか……貴方が俺を助けてくれたんだ」
「助けた?」
奇跡的な運命のめぐりあわせに胸がいっぱいになって、クリスは頷くのも、言葉を出すのも苦しかった。
「俺はあの夜、死のうと思ったんだ。本気だった……でも……でも、翌朝目覚めた時、なぜか知らないけれど、両親の死を受け入れられる気がしたんだ。泣いてばかりじゃ駄目だって……立ちあがって真っ直ぐ生きていかなきゃいけないって……貴方の絵を見たからだったんだ。貴方のおかげで立ち上がれたから、俺は貴方の絵に惹かれて、貴方のことを追いかけて……」
クリスが左肩に置かれた手を取ろうとした時、志水晶はすっと両腕を伏せた。クリスに触れられることを避けたように。クリスが訝しがる間も与えず、志水晶はクリスの頭上から静かに言葉を投げ捨てた。
「……君のお人好しにはつくづく呆れるね」
「えっ……?」
ぞっとしたのは、投げかけられた言葉のせいでも、後ろからクリスの両目を覆った冷たい手のせいでもなかった。真実を撫でる、その手つきの。
「逆だよ。僕は君を助けようとしたんじゃない。君を利用しようとしたんだ。言ったじゃないか、あの夜も。僕の願いは死んだ息子を蘇らせることだと。僕はね、生きる気力を失った君に息子の魂を注ぎこむことを思いついたんだ。他の場所ではできない。でも、ここでなら可能だよ。ここは絵が実体を持つ場所、死が生に届く場所だから。僕が作った奇跡の空間だ。しかし、僕の目論見は半分成功して半分失敗した。息子の魂を注ぎこめたのは、君の心の影の部分だけだった。君は自らを光と影に切り離すことで、自分の魂を守ったのさ。君はよかった。君は生き残れたんだから。でも、可哀想なのはノアの方だ。ノアは君の影として、そして同時に志水乃亜として生きなければならなくなった。ノアを見てごらん……」
志水晶の指差す場所に、ノアはいた。クリスにはノアの横顔がまず見えた。ノアの体は柱に鎖で縛りつけられており、白い爪先を露わにした彼の両足が宙をさまよっていた。水晶の柱に反射する光はまるでノアの背中から生える翼のようであった。ノアは瞼を閉じていたが、その表情は苦悶に喘いでいた。
「有瀬!!」
叫んでクリスが戦慄したのは、昼間に見た絵の正体が今目の前の光景にぴたりと一致したからだ。クリスが憧れ、見惚れていたあの妖精の絵。妖精の体を浮かせているように見えたあの羽は、羽ではなかった。一人の人間の背に突き刺さる無数の水晶の剣であった。あまりにも神秘的すぎる剣たちは、その人の裸の背を、罪を苛み、恍惚と見えた彼の表情は苦悶の表情なのだった。クラスターを逆さまにしたような水晶のシャンデリアのうち、中央にある最も大きく真っ直ぐ床へ向かっているものが、白い円柱と繋がっている。ノアの体はその透明と白の境目にあったが、水晶の表面を走る無数の光の筋がノアの背に突き刺さって見えるのだ。いや、実際に突き刺さっているに違いない。ノアは確かに痛みを感じ、苦しんでいるのだから。
「ノアはああしてずっと苦しんできた。君の影にもなりきれず、僕の息子にもなりきれず、君の犯した罪を、君の心の闇を背負って」
「有瀬……!」
「そろそろ解放してあげてもいいんじゃないのか?」
「っ!!」
突如クリスの体を襲ったのは、昼間、ほんの一瞬だけ現われては胸に切りつけていったあの痛みであった。しかし今回、激痛はすぐに消えてくれなかった。クリスの心から流れるおびただしい血が毒のように全身を巡って痛みを加速させる。それは恐らく、罪悪感だとか憎しみだとか嫌悪だとか、そんな風に呼ばれるものたちだっただろう。クリスは自分の胸元をかきむしるようにきつく抑えて膝を崩した。歯を食いしばって悲鳴を堪えた。そんなことをしなくとも、口の中は乾き切っていて零れ出るのは息だけだ。すさまじい負の感情と苦痛に耐えるクリスを見ても、志水晶は驚きもせず、却って満足げな冷たい笑みを浮かべるほどであった。
「おや、よかった。ノアの痛みがまだ君に通じたということは、君たちはまだ一つの存在である何よりの証拠だからね。おかしな話だけど、君が学園に来た時、僕が一番恐れたのは君とノアがまた一人の人間に戻ってしまうことだった。だからありとあらゆる手を使って君とノアを引き離そうとしたんだ。生徒会に命じて君を学園から追放させようとしたり、ノアに君を傷つけさせたりしてね。ところが、計画はいつもうまくいかなかった。僕の計画に気づいて、邪魔をする者がいた。もちろん、君のノアへの気持ちも僕の計画が失敗した立派な一つの要因ではあったけど。そこで、僕の考えは変わった」
「僕の今の目的は君とノアを一つの人間にまた戻すことだ。再び完全な姿に戻った君に、僕はもう一度息子の魂を注ぎこむ。今度は成功するさ。僕の力はこの十年で強大になったんだから。この男のおかげでね」
倒れ込んだクリスの涙でぼやけた視界のそう遠くないところに、同じく床に伏せるものがあった。薫だった。先ほどと全く変わらぬ姿ではあったが、意識はないらしい。「薫さん!」呼ぼうとしても声はでなかった。
「この男も君と僕と同じさ。大事な人を失った。この男はね、初めて本気で愛した人を自殺に追い込んでしまったんだ。それを深く悔やんで、全てのものに心を閉ざしていた。自分にもっと力があれば彼女を死なせずに済んだのではないか。彼はそんな風に考えていたんだね。そんな彼を見つけて、僕は取引を持ちかけた。承諾させるのはとても容易いことだったよ。さっきも言った通りさ。僕も彼も、そして君も一緒だったから。僕は彼に絶対的な力を与えた。代わりに彼の体を使って自由に動き回れるようになった……契約期間ももう終わりだけどね」
志水晶は薫の傍らにひざまずいて力なく床に置かれた左腕を撫で、左手に触れようとした。クリスは、なぜかそれを必死で止めようとしている自分に気が付いた。志水晶はそんなクリスを見て嘲るように笑い、手を引いて部屋の中央へと歩いていった。クリスにノアの姿は見えず、志水晶は靴音だけで彼の存在を示していた。
意識が遠のきそうになるぐらいの痛みを超えて、クリスは荒く呼吸をしながら上体を起こし、ゆっくりと薫の方に這っていった。額から噴き出た汗が睫毛を濡らし、瞬いて視界を明らかにしようとするクリスの邪魔をした。最初に薫の手に触れた。次が顔だった。薫の表情に、クリスは穏やかな苦しみの痕を認めた。知らなかった。愛した人の過去も苦難も。完璧すぎる鎧の中に隠した傷跡を。どうして何も打ち明けてくれなかったのか。自分は受け入れたかったのに。千住薫という人の何もかもを。
ああ、違うんだ。クリスはふと思った。違うんだ。俺が愛して、そして俺を愛してくれた、いや、愛してくれたように見せかけていた人は、この人ではないんだ。全て志水晶の演技だったんだから。志水晶が俺に接近するために芝居をうった。そうに決まっている。俺は千住薫という人を知らない。愛したことさえもない。
痛みが再び襲ってくる。再び崩れ落ちたクリスの真っ白な意識の中に、薫と過ごした時間が日付とは無関係に流れていく。母親に似て地味だという自分と父親似の弟とくらべて笑った顔が真っ先に思い出された。それから、旧図書館の司書室で見た横顔、初めて会った時の顔――座っていた机から降りてばつの悪そうに笑う顔が、続けて。あんな顔を志水晶はできるのだろうか?例え演技でも。自らの野望にとり憑かれ、大事な人を亡くすという悲しみを共有する人々に同情するどころか付け込んで利用し、生徒会役員たちやクリスやノア、他にも数多くの無関係の生徒を苦しめるこの男が。
薫に変わってクリスの前に現れたのは、海原駅で見たあの女性だった。クリスはその女の名を知っていた。志水律――志水晶の妻であり、聡明で美しかったという女性。志水晶とは幼なじみで、彼の芸術の一番の理解者だったという。美人薄命という言葉を証明するかのように僅か二十四歳で逝去した。子供をさらわれ、一人百合の丘に泣く母親。彼女もまた、志水晶に苦しめられた一人であった。そんな彼女が首を振っていた。そのまま瞑っていたい瞼を開いた時、クリスは彼女の意思を理解していた。
「薫……さん……」
クリスは頭を自分の右腕の上に置いたまま、薫の左手を両手で包み込むと、震える指先で薫の薬指から水晶の指輪を抜きとった。こころなしか、薫の表情が和らいだように見えた。クリスは強張った微笑みを薫に向けて、少しの間だけは、痛みとは別に零れてくる涙の好きなままにさせておいた。それから、クリスは左手を首の後ろにまわして、襟の中をしばらくまさぐった。熱くなったクリスの手に、金属は冷たすぎた。顔をわずかにあげるのにも激痛が伴う状態で、クリスは左手の中に全てをおさめると、その手をがんと強く床に叩きつけた。全身が軋んでいた。限界だと叫んでいた。疲れ切った神経が今にも引き切れてしまいそうだった。真っ直ぐにクリスの体を突き刺す、無数の水晶の剣たち。この苦しみを負う人はただひたすらクリスのために耐え続けた。有瀬……上履きの底が、ようやく床を踏んだ。左ひざに寄りかかる体をクリスは血が出るほど唇を噛みしめて起こした。額に張り付いた前髪をそっと退かして、苦しい体を引きずってクリスは一歩踏み出した。友の方へ。置き忘れてしまった片割れの方へ。Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'――この門をくぐるものは一切の望みを捨てよ。だが、クリスはまだ望みを捨てる訳にはいかない。この夜の奇跡はここから始まった。